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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題(4-1前半)

※シリーズの第16回目の前半になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 その他の諸問題

4-1(前半)栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題:これが

(1)イザヤ書65:20や

(2)黙示録20:7–10の釈義から導き出せるのかどうか、考える必要がある。

 

この議題はディスペンセーション主義に限らず、千年王国前再臨説をとる方も考える必要のある議題となっております。今回も2回に分けて本記事は(1)、次回に(2)を扱いたいと思います。



御言葉の本意を探る前に、まず設問の背景にあるディスペンセーション主義による前提を確認する必要があります。

神の契約には八つの契約があり、そのうち五つの無条件契約は人間の側の違反によって破棄される事はなく、現在も有効と考えられています。そのうちの一つがイスラエル民族と結んだ土地の契約であり、この契約の成就は、神の真実さにかかっているとのことです(※ハーベストタイムのメッセージや聖書塾の解釈による)。

つまり神が真実な方であるなら、与えると約束された土地を必ず地上でイスラエル民族に与えられるはずであると考えます。こう言うわけでユダヤ人は大患難時代を耐え抜き、肉体を持ったまま地上に立てられる千年王国に入り、約束が字義通り成就する必要があると考えるのです。

 

さて、設問にある千年王国とは『メシア的王国』とも呼ばれます。それはキリストが王として、ダビデの王座に永遠に座すと預言されている聖句から判断されています。

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。

  ひとりの男の子が私たちに与えられる。

  主権はその肩にあり、

  その名は「不思議な助言者、力ある神、

  永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、

  ダビデの王座に就いて、その王国を治め、

  さばきと正義によってこれを堅く立て、

  これを支える。今よりとこしえまで

  万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書 9:6,7)

 

「この方(人の子のような方)に、主権と栄誉と国が与えられ、

  諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、

  この方に仕えることになった。

  その主権は永遠の主権で、

  過ぎ去ることがなく、

  その国は滅びることがない。」(ダニエル7:14)

 

このメシア的王国について、千年間と記されている唯一の箇所が以下です。

「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」(黙示録20:4)


つまりメシア的王国とはキリストが王となって治める、とこしえに滅びることのない国のことです(※千年間という期間は、殉教した聖徒たちがキリストとともに王として治める期間を指していると私は受け止めています)。栄光の体を持っていない人々、すなわち朽ちる体は、朽ちない国を受け継ぐことは出来ないことは、次の箇所から判断できます。

「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15:50)

 

新天新地には『死』が無いことは明らかです。

「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」(黙示録21:4)

 

ところが、『再臨後地上に立てられる千年王国』の描写であると受け止められている設問中の聖句には『死』が存在しているように書かれています。

「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、

  寿命を全うしない老人もいない。

  百歳で死ぬ者は若かったとされ、

  百歳にならないで死ぬ者は、

  のろわれた者とされる。」(イザヤ65:20)


確かに前後の文脈をみますと、新天新地の説明の中に突如、死についての記述が登場しているように思え、何とも不可解です。

この不可解さを解消するため、ここには朽ちないものだけではなく肉体を持った者も入るという点で、新天新地とは区別される千年王国の説明が挿入されているのだ、という考えについてどう思われるでしょうか。つまり再臨→千年王国→死を滅ぼす→新天新地という考えです。

しかし本当に、新天新地の説明の中に千年王国の説明(イザヤ65:20)が挿入されているのでしょうか?

 

次の御言葉によると、最後の敵である『死』を滅ぼされるのはキリストにある死者の復活の時であることがわかります。

「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』」(Ⅰコリント15:54)

 キリストにある死者の復活と携挙の日=再臨の日であると検証している過去記事はこちら→「主の日」「主イエス・キリストの日」「キリストの日」は同じ日?(2-8) - Misao’s bible diary

エスは、最後の敵である死を滅ぼす=すべての敵を足台とするまでは王として治めると書いてあります。

すべての敵をその足の下に置くまでキリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。」(Ⅰコリント15:26)

 

『主は、すべての敵を足台とするまでは神の右の座についている』という詩篇110:1のメシア預言を、イエスご自身も語っています。

「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」(マタイ22:44)

 

エス様が神の右の座に着くのは十字架の死と復活の後であることは、以下の箇所から判断出来ます。

「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(ヘブル1:3b)

「キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き

あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。」(ヘブル10:12,13)

 

つまり、エスキリストは十字架と復活の後、今まさに神の右の座について王となられ、再臨によって死に完全に勝利する時を待っておられるということにならないでしょうか。

 

神の右の座、つまりその王座から立ち上がられ、地上に来られるのはこの時です。

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。」(Ⅰコリント15:24)

 

イザヤ65:20が、挿入された『再臨の後に地上に立てられる千年王国』の描写であり、栄光の身体をもたない人々がその国に入る根拠だとするならば生じてしまう、

――再臨の終わりの日に滅ぼされたはずの「死」が再び登場するという矛盾――

これに、皆様ならどう立ち向かわれるでしょうか?

そこで、御言葉が一体何を伝えようとしているのか、その本意を調べ明らかにすることが重要になってくるわけですが、如何せん私は神学校を出たことのない『ひら信徒』で、『釈義って何?』状態です。なので以下の本意を探る作業を、お手柔らかに見守る、あるいは足りない要素をご教授頂けるとありがたいです。

ではイザヤ65:20の御言葉の本来の意味について確かめていきたいと思います。

 「そこ」(65:20)とは、直前のエルサレム」(65:19)を指しています。このエルサレムは前節で見よ。わたしはエルサレム創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(65:18)とあり、そのまた前節には見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する。…だから、私が創造するものを。いついつまでも楽しみ喜べ。」(65:17-18)とあります。ここから、『わたしは新しい天と新しい地、すなわちエルサレムを創造し、これを喜び、その民とともに楽しむ。』ということを二度言い変えているへブル的対句法と捉えることができます。同じことを異なる表現を用いて繰り返し語る手法

となると、そことはエルサレムと言い換えられた新しい天と新しい地を指しており、千年王国についての説明が挿入されているのではないと考えられないでしょうか。

 

וְזָקֵ֔ן   nor an old man 老人

יָמִים֙  [but a few] days 日

ע֤וּל an infant  子ども

ע֗וֹד  more まだ、継続し

מִשָּׁ֜ם from there  そこへ

יִֽהְיֶ֨ה shall [live]  落ちる、通り過ぎる、~となる、生きる

לֹא־ No いな

בֶּן־ old 息子

הַנַּ֗עַר the child 子ども、若者、青年、家来

כִּ֣י for それは、のために、いつ

יָמָ֑יו his days 日

אֶת־ -

יְמַלֵּ֖א has fulfilled いっぱいになる、埋めるために

לֹֽא־ not 無い

אֲשֶׁ֥ר who  (それは)

שָׁנָ֖ה years  年

מֵאָ֥ה a hundred 百

בֶּן־ [being] old 息子、子ども

וְהַ֣חוֹטֶ֔א but the sinner 見逃す、間違って行く、罪

יָמ֔וּת shall die 死ぬために

שָׁנָה֙ years 年

מֵאָ֤ה a hundred 百

יְקֻלָּֽל׃ shall be accursed 呪われる、軽蔑される

これを原語に近い形で私訳してみますと、

『老人や、数日しか生きない子供はそこにはいなくなる。寿命を全うしない息子や子供はいない。百年生きるものも子ども(若い)、罪人は呪われているので百年で死ぬ。』

 ....。💦

 

この一箇所以外の多くの御言葉が、再臨の時に『死』が完全に滅ぼされると示唆していることを見てきました。

そこで言えるのは、このたった一箇所の御言葉だけをもって、再臨の後に『死』の存在する千年王国が立てられると断定することは不可能ということです。

よって私個人としては、イザヤ65:20『罪の結果である死』というこの世の悲しみの極みの例を挙げて、そのような場合に味わってきた悲しみが、新天新地では一切なくなることを言っているように受け止めています。これをわかりやすく落とし込むとこんな感じの私訳になります。

『(前半同じ)地上で百年生きたものでさえ、永遠に生きられる新天新地においてはそれは子供のようなもの。死のない新天新地とは違って、地上では百歳まで生きられたとしても罪の呪いのもとにあるのでいずれ死ぬ。』※あくまで個人的私訳です!

 

 

訳の比較もしてみます。 

New American Standard Bible
"No longer will there be in it an infant [who lives but a few] days, Or an old man who does not live out his days; For the youth will die at the age of one hundred And the one who does not reach the age of one hundred Will be [thought] accursed.

King James Bible
There shall be no more thence an infant of days, nor an old man that hath not filled his days: for the child shall die an hundred years old; but the sinner [being] an hundred years old shall be accursed. 

『;For』でつながれた後半は、『例えばこんな風に』という内容補足的な感じにも思えます。

 

では次回は黙示録20:7-10について詳しく見ていきたいと思います。結論を言わないままモヤモヤしますが、

次回に続く…。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

患難期前携挙説は、信者への裁きについて他の携挙論の説明よりも優位性があるか(3-3後半)

※シリーズの第15回目の後半になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 課題3教会論に関わる問題

3-3(後半)

(1)信者への裁き(キリストの御座の裁き)について、患難期前携挙説はIコリ3:10–15やIIコリ5:10などと矛盾しない説明を提示することができるのか。

 

(2)できるとすれば、他の携挙論における説明よりも優位性があるものなのか。また、その優位性はどのように説明されるのか。

今回は上のように2つに分けた設問のうち、(2)について投稿致します。

※(1)への検証はこちら↓

信者へ(キリストの御座)の裁きはⅠコリ3:10-15、Ⅱコリ5:10等と矛盾なく説明可能か(3-3前半) - Misao’s bible diary

 

(2)

他の携挙論における説明についてですが、私の取る艱難期後携挙説の立場から説明してみます。

この説では、ディスペンセーション主義で分けられている三つの神のさばきは、この世の終わりになされるたった一度のさばきのことを指していると考えます(そうでない後説の立場もあるかもしれませんが)。つまり、良い麦も毒麦も、収穫の時までそのままにしておくというイエスのたとえ話と同じ考え方です(マタイ13:24-30)。

「火」とともに現れる「その日」すなわち主が再び来られる日(=世の終わりの日)に、信者も不信者も、悪であれ善であれ、みなその行いに従って裁かれると考えます。

この考えに立って設問にある2つの御言葉(Iコリ3:10–15、IIコリ5:10を読むと、その説明に矛盾はありません。

 

また、

「羊と山羊(国々の民)のさばき」の根拠となっているマタイ25:31-36は、キリストの再臨のときにあると書かれています。そして左にいる人たち(やぎ)は永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るとあります(マタイ25:46)。

「白い御座の裁き」の根拠となっている黙示録20:11ー15も見てみます。ここは、千年王国の描写の直後に書かれているため、千年王国の後に起こるさばきであるとする見方もあるかもしれません。しかし、「また私は~見た」で始まる幻のセクションは、前後の時間軸に縛られない、同じ出来事を違ったスパンで別の角度から見た幻であると、私は読んでいます。※↓参考過去記事

vitaminp81.hatenablog.com

そのため黙示録20:11ー15は、千年王国のことは脇に一旦置いて、天地が過ぎ去って跡形もなくなるときに行われるさばきについて語っています。それはキリストの再臨の時だということは、以下の御言葉から判断できます。

「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10)

※「主の日」についての詳細はこちら↓

旧約聖書における「主の日」とは(2-3) - Misao’s bible diary

「主の日」と患難期の関係(2-4) - Misao’s bible diary

 

黙示録20:12~「死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立って」裁かれると書かれてありますが、これはまさにマタイ25:41-46で登場する左にいる人たちに言い渡される判決の詳細な描写であると受け止めています。右にいる正しい人たちのさばきは、黙示録20よりもっと前に描写されています。それは黙示録19:6-8で、御国を受け継ぐ瞬間です。

「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」(マタイ25:34)

「また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。

  『ハレルヤ。私たちの神である主、

  全能者が王となられた。

  私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

  子羊の婚礼の時が来て、

  花嫁は用意ができたのだから。

  花嫁は、輝くきよい亜麻布を

  まとうことが許された。

  その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』」(黙示録19:6-8)

 

つまり以上の検証から、ディスペンセーションで三つに分けられているどの裁きも、その根拠となって引用されている御言葉は、再臨の時になされる裁きについて語っているという結論を導き出すことができます。



従って

3-3の設問に対する今の私の結論は、信者への裁き(キリストの御座の裁き)について、患難期前携挙説はIコリ3:10–15やIIコリ5:10などと矛盾しない説明を提示することはできず、他の携挙論における説明よりも優位性があるとは言い難い。

 

となります。


聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

信者へ(キリストの御座)の裁きはⅠコリ3:10-15、Ⅱコリ5:10等と矛盾なく説明可能か(3-3前半)

※シリーズの第15回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 課題3教会論に関わる問題

3-3(前半)

(1)信者への裁き(キリストの御座の裁き)について、患難期前携挙説はIコリ3:10–15やIIコリ5:10などと矛盾しない説明を提示することができるのか。

 

(2)できるとすれば、他の携挙論における説明よりも優位性があるものなのか。また、その優位性はどのように説明されるのか。

今回はこの設問を上のように2つに分けて今回は(1)、次回(2)について投稿致します。

 

(1)

信者も未信者も、最後にはキリストによって、その行いに従って裁かれるということを聖書は明確に語っています。しかしディスペンセーション主義によると、神の裁きは一回ではなく、三段階に分けて行われると考えられています。


ディスペンセーション主義における三つの裁きを紹介しておかないと前に進めないので、ここで簡単に…。

「キリストの御座の裁き」(Ⅱコリント5:10)・・・携挙の直後、教会時代の信者がその行いによって御国で受ける報酬を決めるもの。

「羊と山羊(国々の民)の裁き」(マタイ25:31-36)・・・大患難時代の後イエスが再臨される時、誰が千年王国に入るかを定めるもの。

「大いなる白い御座の裁き」(黙示録20:11ー15)・・・千年王国の後、未信者が自分の行いにしたがって火の池での永遠に続く刑罰に処される。

 

この三つのうちの、「キリストの御座のさばき」は、Ⅱコリント5:10が根拠となっているわけですが、その理由は教会時代の信者のさばきについて言及しているからです。

 

「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(Ⅱコリント5:10)

この聖句は、間違いなく教会時代の信者を含む「私たちはみな」が、キリストのさばきの座の前に出て、行いに応じて報いを受けることを語っています

しかし「私たちはみな」教会時代の信者だけを指している(旧約時代の信者と艱難期に救われる信者を除く)と判断する根拠は何でしょうか

「私たち人類は」という可能性はないのでょうか。「善であれ悪であれ」とあるとおり、悪い行いに対しても報いを与えられる事がわかりますが、ここで注意する点は、「悪の報い」が、信者に対するご褒美の軽減措置だとは書いていないということです。これが携挙直後になされる、教会時代の信者だけを対象とした御国での報酬を決めるさばきであると結論付けるのには、決定的判断に値する御言葉がない限り少々飛躍があると感じます。

 

次に、設問のⅠコリント3:10-15も、教会時代の信者のさばきについて言及していますパウロコリントの信者が受けるであろう神のさばきについての希望と警告を、彼らに向けて書いています。その点を踏まえて、この聖句とも矛盾なく説明できるかを見ていこうと思います。


直前の9節「あなたがたは神の畑、神の建物です。」に続いて、

 「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、

それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」(Ⅰコリント3:10-15)

Ⅰコリント書を通してパウロは、ただ栄光は神にあり、私たちが受けることになる最後の神の正しい裁きに照らし合わせて、私たちの地上の行いはどうかを吟味させています。

肉に属する人たちのように互いに言い争いをしていることを戒める文脈の中で、イエスキリストの土台の上に建てられた建物(=私たち)が、「その日」に現れる「火」によって明るみに出され、試され、報いを受けると言っています。

 

さて、火とともに現れる「その日」(Ⅰコリント3:10-15)とは患難期前携挙の直後でしょうか

次の御言葉を見てみます。


「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。

  だれが、この方の現れるとき立っていられよう。

  まことに、この方は、精錬する者の

  布をさらす者の灰汁のようだ。

  この方は、銀を精錬する者、

  きよめる者として座に着き、

  レビの子らをきよめて、

  金や銀にするように、彼らを純粋にする。

  彼らは主にとって、

  義によるささげ物を献げる者となる。」(マラキ3:2,3)

※現れる=רָאָה(appear:目に見える形で現れる)

キリストのとともに現れる「その日」に神に選ばれた彼ら(イスラエル)が精錬され純化され、義の捧げものをする者となると語っています。初臨と再臨、どちらも目に見える形でキリストが現れるため、この預言は二重預言であると受け止めています。

 

「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」(Ⅰコリント4:5)

主が来られる時、主によって私たちのすべてが明らかにされ、称賛という報いが与えられると語っています。

 

「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリスト現れるとき称賛と栄光と誉れをもたらします。」

(Ⅰペテロ1:7)

※現れる=ἀποκάλυψις(revelation:現し示す、発現)

キリストが再臨される時、洗練された金よりも高価な信仰が、称賛と栄光と誉れをもたらすという報いを受けます

「火」とともに現れる「その日」とは、すべての行いが明らかにされる日主が再び来られる世の終わりの日のことを指していると、以上の箇所から推測されないでしょうか。

 

 

その日(Ⅰコリント3:10-15)が携挙の日を起点とする患難期を指しているとするならどうなるでしょうか?信者は火とともに現れるその日に、火によって試されると警告しており、その火によっても建物が残れば、その人は報いを受けるという希望も語っています。教会時代の信者は火で試されることになります。これは艱難期前携挙説と矛盾しないでしょうか

もしくはクリスチャンが患難期の前に天に挙げられるのであればその日(Ⅰコリント3:10-15)=再臨の日にそれぞれの働きがどのようなものかを火で試されるのは、教会時代の信者ではなく、艱難期に入ってから救われる信者であることになります。

そうすると、上記に引用してきた信者への報いという数々の慰めのみ言葉Ⅰコリント3:10-15マラキ3:2,3、Ⅰコリント4:5、Ⅰペテロ1:7)は、地上再臨の直前の7年間に生きているクリスチャンのみへ適用されるみ言葉であることになってしまうということです。

 

結論
キリストの御座の裁きが、携挙の直後になされる信者に対する御国の報酬を定める裁きであるという説は、少なくともこの2つの聖句に矛盾せずに説明する事は、上記の理由から困難であると思われます。

 

 

次回へ続く・・・

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

マインドコントロールにみる共通点~その3~

前回の続き、その3になります。

『マインドコントロールの恐怖』(スティーヴン・ハッサン/著 浅見定雄/訳)という本を読み、ハーベストタイム(以下HTM)との関係性において自分に起こったことの共通点を見出してきました。 私が家族や教会との関係回復に至る方法にも感じられた共通点を著書の抜粋と平行して記しています。

まだの方は過去の記事からどうぞ↓

 

vitaminp81.hatenablog.com

家族の愛は、カルトのメンバーやリーダーたちの条件付きの愛よりずっと強い力である。家族の愛は、その人が自立した成年へと成長し、自分自身で人生の決定をする権利を支持する。カルトの愛は...その人をいつまでもだれかに頼る未成年状態にしておく。”(222項)

前回記事で詳しく綴った「H先生」と出会う前に、私が”真の解釈をしているHTMから学ぶことこそ真の信仰者として成長できる道だ”との決意を曲げない私の頑なさを溶かしてくれたのは、夫と母教会からの信友N姉妹と、U兄弟でした。

 

夫は、私が教会におれなくなったら私についていくと言ってくれました。夫もN姉も、私の決定に対して決して反対しませんでした(反対はしないけれど、もちろん同調もしませんでした)。

 

”カルトのメンバーと触れあうときにとれるいちばん効果的な構えは、好奇心に満ちた、しかし気がかりだという態度である。”(259項) 

”私の方法では、...彼が何に価値をおき、何を必要とし、何を欲し、何を考えているかをー完全に理解する事である。”(222項)

N姉は、私がHTMから学んだ素晴らしい事に共感し、ずっと完全に理解を示してくれていました。

そしてHTMの聖書塾を辞めなければ教会におれないという問題にぶつかったときも、私が最も大切だと考えていることを何度も質問し、確認してくれました。それは、神に従うべきことと、夫に従うべきであることについてです。『Misaoちゃんは、じゃ、今ご主人に行くなって言われたら、どうしたらいいと思ってる?』

これにはすぐに答えられませんでした。なぜならこの道こそ神様が開いて下さった道だと思っていたからです。それを今やめなければいけないなんて、神様どうして??と。

 

”カルト信者をカウンセリングするとき、私は決して本人からグループをとりあげり、グループから本人をとりあげたりしようとはしない。”(223項)

”かわりに私は、違った見方と可能性を彼に提供して、彼が成長できる道を探してやる。いろいろな選択しが存在していることを知らなかった人々にそれを知らせ、そして自分にいちばんよいと思うことをするように励ます。”(223項)

N姉は、決してHTMに対する悪い評価を言いませんでした。なぜなら私が選んでいるものを否定することは、私を否定することに等しいと理解していたのだと思います。そして無理矢理に聖書塾を辞めさせることもしませんでした

『でもMisaoちゃんは辞めたくないんだよね?』N姉は、きっと全力で行くのを止めさせたかったと思います。なぜなら私が聖書塾を今辞めないという決断をすることは、家庭を破壊させ、今後の私の人生を修復不可能なほどに傷つけてしまうことを、彼女は知っていたからでした。でも、私のよりよい決断を忍耐をもって引き出してくれました。『行っちゃいけないって言われたら、行ったらだめ...かな。』という答え以外私は導き出せませんでした。 夫にやめてとは言われませんでしたが、やめることを願っているのは明らかでした(※この時、HTM傾聴者によって破壊や分裂がもたらされた複数の教会の事例が明らかになったためです)。

 

”その人の中核の自己との結びつきに成功することーその人がカルトをやめるたすけに私がなれるのは、これによってである。”(223項)

 私がN姉との対話を辞めず、忠告を聞き続けられたのは、彼女との間に私の中核の自己との結びつきが母教会時代からあったからこそでした。 

対話の中で、私が通っている教会員に対しては真理を知ってほしいと焦る気持ちがあるのに、母教会の兄弟姉妹に対しては感じないことに気付かせられ、葛藤を感じ始めました。母教会の人たちは、私の本来の人格を受け入れ育ててくれた人たちだからでした。「私の考えのまま行くと、彼らの信仰をも否定することになる…」とその時気づいたのです。それは意図せず、マインドコントロールを解く鍵第4項目の『カルト以前の人格に触れる』の方法でした。

 

”人々は成長し、学ぶことに興味があると私は信じるので、私の方法もまた、教育的なものである。私はたっぷりと教育をするー心理学のこと、コミュニケーションのこと、マインドコントロールの問題、他のカルトのこと、また特定のグループの歴史、指導者、教えの矛盾について、たっぷり教える。”(223項)

 その時なぜか同時に、艱難期前携挙説についての疑問を投げかけて、対話を続けて下さったU兄弟がいました。このN姉妹とU兄弟の二人を、神様は最もよいタイミングで全く別のところから私に遣わされました。

 

”私がこの目標に「本人をグループから出す」ということを含めていないことに注意してほしい。意図的にそうしたのである。人々は変わり成長する、その自然の結果として、破壊的カルトから抜け出すということを私は知ったからである。”(253項)

 N姉妹が、わたしがHTMを絶対視する考えから抜け出さなくても、私との関わりを続けようと決めてくれていたそうです。

そして「牧師の推薦状なく入塾でき、卒業すると牧師のような資格が取れることについてどう思うか?」「女性教師についてどう思うか?」など、彼女なりに見いだしたHTMへの様々な疑問を投げかけてくれました。

目的は私の結論を変えることではなく、私の考えに足りないことを提供することで、私がもっとより成長することを願ってくれていたからでした。それは私への愛が動機であり、結果彼女の愛のおかげで私はより良い判断を下すことができたのです。

 

 そして何よりも不思議なことは、N姉妹はカルトの救出方法のノウハウなど全く知りもしないのに、カルト救出のその方法とほぼ同じようなアプローチで私の心を溶かしてくれたということです。

 

このように私の身に起こった実際のことを照らし合わせていくと、解放される方法にさえ、カルト的共通点があったことを認めることができます。

やはり私が教理の矛盾について発信し、一人でも多くの人の目に留まることを期待する方法は、あながち間違った方法ではないと思いました。

これは何に対しても言えることですが、より多くの情報を得て判断するなら、私たちはフェアなのだと思います。

患難期前携挙説と患難期後携挙説、どちらを支持していてもその人の救いは変わらない、全くその通りだと思います。私の敬愛する多くの牧師先生は患難期前携挙説を取っておられます。しかし私はこの思いから、患難期前携挙説の聖書との矛盾について発信し続けるのです。決して言い争いや議論の為ではなく、足りない情報によってコントロールされてしまっている兄弟姉妹がいるならと。

 そのような方が、このブログで投げかけた疑問によって思考停止の作用から解かれ、一度よく考えてみるきっかけが与えられるなら本当に幸いです。 

 

ここまでに至った過去の関連記事はこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

vitaminp81.hatenablog.com

vitaminp81.hatenablog.com

vitaminp81.hatenablog.com

 

最後まで読んでくださりありがとうございます。

マインドコントロールにみる共通点~その2~

前回からの続きになります。

まだの方はまずこちらの記事をどうぞ↓

vitaminp81.hatenablog.com

ハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)に、マインドコントロールの基本的構成要素のいくつかと共通した手法が見られたことをお伝えしましたが、私が問題解決に至った方法にも共通点が感じられました。



前回記事で触れたマインドコントロールの基本的構成要素「情報コントロール」の中にあった”現実世界は白か黒か、善か悪かの二者択一”となるカルト的心理について、まさに私はこの心理状態に陥っていました。つまり、私自身がそういった「白か黒か」の思考パターンにどっぷりはまっていたのです。

 

 私がHTMの解釈に矛盾を感じ初めた頃、私の教団の別教会のH先生が、突然私に直接会いたいと言って来られました。最初は、きっと「なんで牧師に内緒で聖書塾に行ったの?」などと、いろいろ責められるかもしれないと思っていました。

ところが「一生懸命で純粋な思いを、取られちゃったんだね…」と言われたのです。

 

「ああ、全部知ってくれているんだ…、私がただ正しいことをしたいという純粋な動機だけだったことも。私が教会の敵になりたかったわけではなかったことも…。」

 

その時、どっと涙が溢れました。それまでずっと孤独な闘いだったのです。教会の中で私の混乱を理解してくれる人は一人もいなかったからです。家族さえも問題の本質が分からず、お互いに何が問題なのかが全く理解できない状態でした。

 

そのあとも、矛盾に気づき混乱している私の状態をよく理解してくださり、対話の関係を保ってくださいました。「黙示録を今の時点でよいのでまとめてみることは後の益となります。わからないことがあれば質問してもいいですよ。」と言われやってみました。

私は尚も白黒つけたがっていました。正解を知り、不正解を排除したがっていました。黙示録の言葉の解釈を、「私はここをこう教えられていましたが今はこうだと思います。」と伝えると、先生は解答を仰らずに「本当ですか?じゃ、これは?」と次々と別の箇所の質問を続けられました。何度も何度もそのようなやりとりをし、私が「これはこうだと、今はそう受け止めています。」とついに言ったとき、先生が「Misaoさん!その気持ちこそ最も尊いことなのですよ!」と仰いました。私の白黒つけたい気持ちを単純に否定せず丁寧に扱い、私の口から断言しない言葉がでるまで忍耐し、様々にある解釈の内の一つを断言する事のおろかさを教えて頂いたのです。神のご計画を人間が掌握することができるのだという高慢こそ恐ろしい事だと、そのときやっとわかったのです。

H先生は丁寧に思想コントロールの「抜き」の作業を行ってくださったのだと、後になって分かりました。

 

引き続き著書には、 カルトのマインドコントロールを解く鍵が以下のように項目化されています。※( )内は内容筆者補足

①親密な関係と信頼関係をきずく。

②目標重視のコミュニケーションをする。(相手を理解する)

③人格のモデルを作り上げる。(彼自身と彼の理想モデルを想像し、返答パターンを想定する)

④カルト以前の人格に触れる。

⑤現実世界をいろいろな角度から眺めさせる。(たとえば相手の立場になって考えさせてみる)

⑥間接的に情報を与えて、思考停止の作用をさける。

⑦カルトのそとでのしあわせな未来を思い描かせて、恐怖の教え込みを解く。

⑧マインドコントロールとは何か、また破壊的カルトとは何かを具体的に説明してやる。

(266項)

私を回復させてくださったのは、実はH先生だけではありませんでした。

配剤された人々によって、上記項目の7、8以外は全て私に働き(8については後に自ら本で学び)、健全な考え方に戻ることが出来たと感じています。

その配剤された人々とは、母教会からの信友N姉妹と、彼女とは全く連絡を取っていないはずのU兄弟でした。

 

次回へ続く…

マインドコントロールにみる共通点

どうして多くの人がハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)にひきつけられていくのか。

自分の経験を分析してみるという方法によって、そこに感じた共通点をみていこうと思います。

 

 

思うところがあって、また導きもあって、私は『マインドコントロールの恐怖』(スティーヴン・ハッサン/著 浅見定雄/訳)という本を手にしています。

そこには、マインドコントロールに自分だけはかからないと思っていることは危険であり、誰もがマインドコントロールにかかる可能性があるという現実を以下のように忠告してくれています。

”人々は、カルトの犠牲者を見ると、よくまちがってこう言う。「なんと弱い精神の持ち主なんだろう。あの人は自分の責任から逃避して、自分の人生を他人にコントロールしてもらう道を探していたのに違いない」こうして人々は、同じことが自分にも起こりうるという現実を認めないのである。カルトのマインドコントロールの犠牲となった何百万の人々よりも、自分は強くて立派だと信じたいので、「それは自分には絶対起こらない」と信じる。”(87項)  

ですから、私はマインドコントロールされてしまう人に誹があるのではないと言いたいし、マインドコントロールされる人が格段特別な背景や性格をしているのではないことも、まずお伝えしておきたいのです。

 

そして、マインドコントロールされた本人(著者はもちろん私も)は、何も分裂を生み出そうとかいう思いは一切なく、

”ただ、正しいことをしたかっただけである。”(45項)

 という心理状態だったのです。

 

 

以下、

この著書の本文をかいつまみながら、私が経験したこととHTMに感じることを重ねる形で記してみます。

 

 【マインドコントロールを達成するための…三つの段階「解凍・変革・再凍結」】 

  1. 解凍 

    ”混乱はふつう、矛盾する情報が一見調和したかたちで伝えられるときに生じる。...長期間そのような混乱させる言語と情報を聞かされ続けると、だれでも自分の批判的判断を中止してしまうのがふつうである。そして、ほかの人々がみなやっていると思うものに自分を合わせてしまう。そのような環境では、ほとんどの人は相手よりも自分を疑い、集団の方に従う傾向がある。”(130項)

    「今まで聞いていた解釈は実は間違っていた。」いままでの解釈の常識を覆され、聞いたこともなかった「へブル的字義通りの解釈」と「ディスペンセーション主義による解釈」この二つの解釈によって、修正された解釈の方が聖書に調和しているように教えられました。「テレビ伝道でおなじみの中川先生が権威ある口調で語っている」「多くの人がこのメッセージをアーメンと頷きながら聞いている」このような状況で、今まで聞いていた自分の解釈の方を疑わないでおくことは難しいのではないでしょうか。

      

  2. 変革

     ”「変革」の過程では、この反復はみな、いくつかの決まった中心的テーマに集中する。新会員は、世界がどんなに堕落しており、また真理を悟っていない人々はどんなにそれを正す方法を知らないか、教えられる。”(132項)

    ”とくに政治家はいかに愚かで怠惰で堕落しているかとかたるのを聞く機会があった。”(64項)

     HTMのメッセージの中で、日本の諸教会がいかに正しい終末論を教えていないか、霊的に死んだような状態のクリスチャンが多いのはなぜかという投げかけが数多く聞かれました。

     

  3. 再凍結 

    ”「新しい」人間の最初でもっとも重要な仕事は、以前の自分をさげすむことである。”(136項)

     HTMに出会う前の以前の自分の信仰は聖書的で無かったと感じたり、過去の解釈を恥ずかしくさえ思うといった証言を複数聞いています。

     

    ”あるカルトのメンバーは、統一教会勧誘者の嘘を見つけるたび、それはたまたまその勧誘者の個人的な問題なのだと考えて、それを無視してしまったと話してくれた。”(145項) 

    ハーベストタイム傾聴者によって日本全国あちこちで教会に分裂をもたらす複数の出来事は、あくまでも彼らの個人的霊性の問題だと受け止められているようです。それは再凍結により自分と同じ解釈をするグループこそ正しいというところにとどまってしまい、その原因が自分たちの教理に問題がある可能性に気づくことができない状態になっているからではないでしょうか。

 

【マインドコントロールの基本的構成要素】

心理学者のリアン・フェスティンガーは、構成要素は「行動コントロール」「思想コントロール」「感情コントロール」の三つを挙げていますが、著者はこれに調査経験を踏まえ、「情報コントロール」を付け加えて提議しています。

 

【思想コントロール

  1. 教義こそ現実

    ”それゆえ教義は、漠然としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければならない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる。”(149項)

     中川氏は聖書塾において「聖書を正しく理解した結果、ディスペンセーション主義の解釈になるのです。」と、この結論にしか至らないという力強さで断言されていました。

     

    ”マインドコントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作り上げることにかかっているので、カルトの教義はきまってあなたは自分自身を信じてはならないと要求する。”(149項)

     キリスト教は、信頼できるものは神のみであるという教義であるため、カルトの温床になる可能性が大いにあると言えると感じました。

     

    【情報コントロール

  2. 現実世界は白か黒か、善か悪かの二者択一

    ”…複雑な状況を単純化してそれにレッテルをはり、…このレッテルこそ、詰め込み言語を具体的な言葉に表したものなのだが、それが、ある状況でメンバーがどう考えるかを支配する。”(118項)

     リベラル派や、置換神学を「聖書的でない」とか「危険な私的解釈」という言葉で片付けるのを聞き、そのような考えを持っていたらリーダーやメンバーに一蹴されてしまうのだと自戒するようになっていました。しかし批判対象となっているリベラル派の実際は、そんな簡単に片付けられるものではないだろうし、置換神学についても、そもそも批判対象となるような古い考えを持った神学者はもはや存在しないのです。置換神学という言葉さえ聞いたことのない信者は、そんな聖書の真実を隠してしまうような恐ろしい神学があるのか、とその存在を調べもせずに批判もろとも鵜呑みにしてしまうことはではないでしょうか。

     

    ”どんなに複雑に見えるカルトの教義でも、煎じ詰めれば、現実世界を白と黒、善と悪、霊的世界と物質的世界、「我々」と「彼ら」といったふたつの基本的な対極に還元してしまうものである。”(149項) 

    真の聖書理解をしている普遍的教会のメンバーである「我々」と、正しい聖書理解ができていない堕落した地域教会の「彼ら」。

    言葉にせずとも、心の奥ではそのような構図が知らぬ間に出来上がっていました。

     

     【カルトの心理状態 

  3. エリート心理

    ”ここで与えられたエリート的地位のため、私は特別なのだという気持ちになった。”(49項)

    聖書塾を卒業すれば、自由に開拓伝道を行える準備が整います。それは、自分が神様に用いられているという特別感を生み出してくれるものです。私は主の直接の弟子になったのだという気持ちです。私は卒業しませんでしたが、そんな特権が与えられるならと、いつかその機会が与えられたときにお役に立てるようにと、その特権を求めてどんな反対があろうとも卒業したいと必死でした。

    しかしどうでしょう。私が求めていたものは神の栄光の座の近くに、自分が座ることだったのではないかと思いました。ヤコブヨハネが天における栄光の座で、左右に座る特権を求めた時(マタイ20:21)、イエス様はどうたしなめられたでしょうか。

     

    ”私は、何百人もの人々の前で立ち上がって日曜礼拝をしたり、統一原理の講義をしたり、またメンバーが私を素晴らしい霊的人物像として見あげるときに感じる気分を好きになってきた。”(53項)

     再臨待望聖会の中で、その直近に聖書塾の卒業を迎えられた期生の卒業式が恒例のように行われていました。

    中川氏がとても誇らしげな様子で証書を一人一人に渡されていましたが、あのような場で証書を受け取ることができたらどんな気持ちになるか想像してみてください。

     

    ”私は――とそのときは思った――地上における神の代理者の承認を受けたのだ。”(54項)

    それはまるで、私たちこそ霊のたたかいのまっただ中にいる神の軍隊ー前線に出て毎日サタンとたたかうことができる唯一の人間たちであるかのような感じだった。”(55項)

    ハーベスト聖書塾に所属しながらも教会にとどまり続ける意義は、その教会という霊的最前線で真の聖書理解を広め、心からの善意で教会員たちを「覚醒」させてあげることだと考えていました。

     

  4. 集団の意志か、個人の意志か

    ”皮肉なことに、カルトのメンバーたちはおたがいに他のカルト集団に入った者を見下げている。”(151項)

     HTMはカルトへの警戒を促す働きを別に作って警告を発し続けています。

     

    ”「全体目的」が焦点でなければいけない。”(152項)

    普遍的教会の立て上げこそ私たちの最終の目的。自分の教会の繁栄だけに目を向けることは神の全体の計画が見えていない、非常に視野が狭いことだと反省させるメッセージが語られています。

     

    【感情コントロール

  5. 恐れと罪責感による操作 

    ”メンバーは、グループの安全圏を離れると自分は破滅してしまうのだと本気で信じる。自分が霊的、知的、情緒的に成長する道はほかにないと考える。”(92項)

    恐怖心を用いている点については、真の信仰を持っていなければ携挙から漏れ、患難に合うという教えを通して、携挙こそクリスチャンの希望であるとしている事です。そして真の信仰は真の聖書理解からくるとメッセージから読み取れ、真の信仰を持っていないこと(つまり真の聖書解釈をしていないこと)を恐れるようになっていくのではないでしょうか。

    患難後携挙説はそもそも信仰があれど患難に合うという考えですが、神は私たちを耐えられない試練に合わせることなく、逃れる道を備えてくださるという神の言葉に信頼する故、患難を恐れない信仰を持つことができるのです。その方法が例え死という方法であったとしてもです。なぜなら、聖書は「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)と教えているはずだからです。イエスご自身が十字架の死にまで従い、それを体現してくださいました。

     

 

他にも要点は続きますが、私が感じた共通点で、特執すべき項目は上記のような点でした。

 

なぜ、カルトの手法が存在するのか。その鍵を読み解く点も教えられました。

”権力というものは極端な中毒になりうるものであり、事実そうなっている。”(181項)

”多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、...神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を創作しコントロールするのに使われているのである。”(183項)

ここにはリーダーによる意図的な悪用は一切ないと思っています。冒頭で引用した通り、

” ただ、正しいことをしたかっただけである。”(45項)

なのです。

人間のエリート扱いを心地よく感じてしまう心理や、権力欲のほんの少しの隙間に入りこもうとする闇の力に、その善意を「結果的に」悪用されてしまったと感じます。自分では気づかぬうちにその力の支配に身を任せてしまうことは、人間である限り起こり得ると思うのです。

  

しかしながら、そもそも問うべきことは、

”理想世界を作るのに、神がサタンと同じ戦術を使わなければならないのか」という大きな疑問が沸いてきた。”(63項)

 と著者がこのように書いているように、もしそこにマインドコントロールに似た手法が存在しているのが事実ならば、私たちが信じる神様はマインドコントロールという方法をお使いになる必要があるだろうか?ということです。愛なる神は、人々の思想をコントロールして信仰者を獲得することをどう思われるでしょうか。

日本の伝道には確かに行き詰まり感はあったでしょう。しかしHTMによって多くの人が信仰を回復、あるいは持つようになった側面があると思います。例えば教会から一度離れてしまったクリスチャン、教会に躓いたクリスチャンが多くの影響を受けているように思います。

何故これほどの数の人々が取り込まれるのか。中川氏の話術と説教内容に相当な魅力があるからなのか。表面的にはそうだと言えるでしょう。しかしその本質には、思想コントロールにに共通した手法が潜んでいたと感じるのです。

 

”もし人々が文鮮明をメシアだと信じたいのなら、それも彼等の権利である。しかしながら――そしてこれが決定的瞬間の点なのだが――文鮮明をメシアだと信じ込ませる過程からは、人々は保護されなければならない。”(75項)

人々が自由な意思でHTMこそ真理を教えている団体だと信じたいのなら、その権利は奪われるべきものではありません。しかし、このような思想コントロールのような影響からは守られて自由に判断しなければならないと、私も思います。



私が問題解決に至った方法にも、共通点がありました。次はその点を追っていこうと思います。

次回へ続く…

患難期の「聖徒」に対する聖霊の様々な約束は例外的か(3-2)

※シリーズの第14回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 

  課題3教会論に関わる問題

3-2

(1)患難期の聖徒と教会を区別して考えることはできるのか。

(2)患難期の聖徒を教会と区別しない場合、それは患難期前携挙説にどのような影響を及ぼすのか。

(3)患難期の聖徒を教会と区別する場合、信者に対する聖霊の働きについて、他の聖句と矛盾なしに説明することは可能なのか。

以上3つの問を順に考察していきます。

 

まずは(1)(2)について。

患難期前携挙説の立場では、黙示録4章以降に「教会」という文字が一切出てこないことも、患難期の前に教会(真の信者)が天に挙げられることの根拠の一つになっていると説明されています。

しかし「聖徒」という言葉は出てくるので、この問が投げかけられているわけです。

 

教会という言葉と、聖徒という言葉の使い分けについては、特定の地域や土地にある集会や家での信者の集いを指す場合、または秩序としての組織を指す場合は「教会」、それ以外はほとんど「聖徒」「聖徒たち」が使われているように思います。

それぞれの例を見てみたいと思います。

 

「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」(Ⅰコリント12:28)

信者はキリストのからだの一部であることを説明するために、「教会」という秩序の中でどのようであるべきかを語っています。



「しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。」(ローマ15:25)

パウロは、「教会」という組織に奉仕するのではなく、信者一人一人(つまりキリストのからだ)に仕える考えから、「聖徒たち」を使っていると思われます。これはとても大切な考えだと思います。冷静になって考えていただきたいのですが、このような考えは黙示録を含めどの書簡においても、神との関係が個人の問題である場合、「教会」ではなく「聖徒」が使われている感じます。それが、たまたま黙示録4章以降に「教会」が登場しない理由の可能性もあります。

 

このように、「聖徒」「教会」の使い方にそもそもの区別があります。

その為(1)は、患難期の「聖徒」「教会」の区別というより、『患難期の(黙示録4章以降に登場する)「聖徒」と黙示録以外の書簡で登場する「聖徒」を区別して考えることはできるのか』という問に置き換えなければならなくなると思われます。

確かに、詩編歴代誌ダニエル書エペソ書ローマ書コリント人への手紙テサロニケ人への手紙...その他諸々の箇所に登場するのと同じ「聖徒(旧לַחֲסִידָֽיו・ἁγίων/<旧新共に英訳は saints>)」という言葉が黙示録4章以降にも出てきます。

ではこの2つの「聖徒」に区別があるかと問われると、原語の上では何の区別も無いと言えます。

しかしこの「聖徒」という言葉は、『この世の人とは異なる人、信者、清い人』という意味で使われているので、患難期にも救われる人が起こされるという考えからいうと、黙示録4章以降に登場する「聖徒」がその他の書簡に登場する「聖徒」と区別不可能だということが、教会の患難期前携挙を否定する根拠にはならないと言えます。

また、「聖徒」という言葉が区別出来ないからといって、患難期後携挙説を肯定する事も出来ません



(1)の結論は、原語においては区別出来ないと考えられる。

(2)の結論は、区別しない場合でも患難期前携挙説に何の影響も与えない。

ということになります。

 

次に(3)について。

問では『患難期の聖徒を教会と区別する場合、...』とありますが、(1)(2)の結論を踏まえますと、患難期の「聖徒」と他の書簡の「聖徒」を、ある仮定をもって区別する場合...』と言い換えることにしても問題はないと思います。つまり、『他の書簡で登場する聖徒とは別に、患難期にも患難期の聖徒が誕生すると仮定するならば、信者に対する聖霊の働きについて、他の聖句と矛盾なしに説明することは可能か?』という問いになり得るかと思います。

 

患難期前携挙説においては、反キリストの登場を「引き止めているもの」が信者の内に宿る聖霊であるとします。その信者である教会が携挙されてしまうため、「引き止めている者」が地上から無くなり、反キリストが登場するといいます。

その根拠となっている聖句は以下です。

「不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。」(Ⅱテサロニケ2:6,7)

 

以上のことを前提にするなら、患難期には聖霊の働きは仮にペンテコステ以前の様な状態になるとしても、患難期の信者に聖霊が内住することはなくなるということになります。

 

では聖霊の働きについての聖句を確認してみます。

 

「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』」(使徒2:38,39)→この約束は、患難期に誕生した信者には無効ということになってしまいます。そのように限定的に捉えるための他の聖句はあるでしょうか。

 

「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:13)→患難期の信者は、いくら父に求めても聖霊は内に与えられないことになります。神様のご性質は、患難期においてだけ変わってしまうのでしょうか。神の永遠の普遍性に矛盾するように感じます。患難期は神の怒りの期間であり例外だとするなら、やはり神は信者を御怒りに遭わせることはないという約束とも矛盾します。患難期の信者だけ特別なの…?

 

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:11)→患難期の信者は殉教しても、これとは別の原則によって復活することになってしまいます(旧約時代の信者と同じ原則に戻るのなら、イエスの十字架と復活の希望は、患難期の信者にはないことになります)。

 

「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:13,14)

患難期の信者にはこの保証を内に頂いていないため、自分が本当に神の国を受け継ぐかどうか分からない不安の中を生きることになりますつまり希望が無い、そんなクリスチャンが殉教の死を遂げることが果たして可能でしょうか

聖霊が与えて下さる希望(ローマ15:13)によって弟子たちは殉教の死をも厭いませんでした。

 

「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。」(エレミヤ31:33,34a)

→この約束は聖霊の内住によって成就したと考えますが、もしそうなら、この契約の中に入れていただける恵みは最後の七年間だけは例外(恵みの時代は携挙で終わる)と書かれている箇所は恐らく見当たりません。

 

「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」(ローマ8:9)

→十字架と復活後、御霊の内住はクリスチャンであるための原則となっています。やはりキリストが患難期も共にいてくださらないなら、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)の約束とも反します。御霊の内住のないクリスチャンは、もはやキリストのものではないのではということになります。(じゃ、黙示録に登場する「聖徒」って誰や??とういうループに突入!)

 

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(ヨハネ7:39)

エスを信じる者は御霊を受ける。この原則が終わりの七年間だけ例外であるとする根拠は、ダニエル9:27「彼は一週の間多くの者と堅い契約を結び」「彼」を反キリストであるとし、七年間の患難期が来るというシナリオへの信仰のみです。

※このダニエル預言の第七十週について詳しく書いた過去記事はこちら↓ まだの方はぜひともクリックを…。

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もし、御言葉の約束通り患難期にも信者の聖霊内住はある、とするなら「引き止めているもの」が信者に内住する聖霊とは言えない、ということにならないでしょうか。(またもやループに突入!)



キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。」(ローマ8:10)

→身体の守りより、霊が生かされる事に焦点があたっているように思います。



(3)の結論は、

患難期の直前に「引き止めている者(信者に内住する聖霊=「教会」が取り除かれると仮定するなら、患難期に誕生する信者には聖霊の賜物が与えられるという約束、内住の御霊によって復活するという原則が当てはまらないことになり、矛盾してしまいます

聖霊による希望が与えられない信者に殉教の死を遂げる力があるのなら、ペンテコステまで怯えていた弟子たちの状態とは矛盾してしまいます

また、患難期においては信者に対する聖霊の内住の約束は例外的である(患難期の信者に対する聖霊の働きが、ペンテコステ以前のように限定的になる)と判断できる聖句を見出すことも困難です

となります。

 

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)