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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

証~ハーベストタイムミニストリーズの何が問題なのか?について~

連載シリーズの小休止です。

ハーベストタイムの問題点が、結局何なのか分からない、という方がほとんどなのではと思います。

実際その教えの中に入っていた経験のある私が、どなたにもわかりやすくその問題点を語るようにとのチャレンジを受けました

 

これは、ある教会員がハーベストタイムの働きの方に行かれてしまい、痛みを体験されたある教会の礼拝で実際にさせていただいた私の証です(コロナ禍のため代読していただきました)。

 

「大切な愛する兄弟姉妹が何故、自分たちの群れから去ってしまったのか?」

 

その疑問に的確にお答えできるものであることを願っています。

尚、同じような疑問を持たれている方、また同じ痛みを経験された教会でも、某信徒の体験の証として用いて頂ければ幸いです。

(音読で10分程度です)

 

~以下・証~

 

私は小学生の時にイエス様を信じて以来、聖書の全てが分からなくとも、ただイエス様を信頼して歩んでまいりました。

今から数年前、乳飲み子や幼児を抱えて聖会はおろか、毎週の礼拝さえもゆっくり聞くことが難しい日々が続きました。

そんな中、場所や時間的制約なく、いつでも聖書のメッセージを聞けるネット配信のハーベストタイムのメッセージステーションを見つけました。かつてテレビ伝道されていた中川氏には親しみもあり、体系的に深く聖書を学びたいという期待に答えてくれました。そんな経緯で、むさぼるように無料で公開されている全てのメッセージを聞きはじめました。

教会の牧師が警戒しているように感じましたが、一つ一つのメッセージは素晴らしく、どこが問題なのか全くわかりませんでした。むしろ聖書が一本の筋を通したように分かるようになると感じ、聖書を学ぶことが楽しくなったのです。

 

中川氏は「ハーベストタイムで聖書がよく分かるようになったという声をよく聞く理由は、教会は正しい理解をしていないゆえに正しい終末論を教えて来なかったからだ」とメッセージの中で言っていました。「ユダヤ的・字義通りの解釈と、教会とイスラエルの一貫した区別で解釈しなければ、正しい聖書理解は得られない」

「正しい聖書解釈によって霊的覚醒が起こる」との訴えに、突き動かされるようになりました。

 

しかし、すぐに私の心の中に他の変化が現れました。

牧師のメッセージを素直に聞けなくなったのです。教会生活がダブルスタンダードで苦しくなりました。

何故ならハーベストタイムが主張する解釈による教えとは異なったことを教会が教えていたからです。

中川氏は有名な牧師であるし、とても熱心に学ばれていることもよくわかりました。その上で「この箇所のこういう解釈の仕方は間違っている」と自らの解釈を断言し、他者を指摘したり批判されるので、客観的視点を与えてくれる信頼できる人物であると理解するようになっていきました。

結果的には神のみを信頼すべき信仰から、人への妄信になってしまっていたのです。

 

更に私はノンクリスチャンにではなく、クリスチャンに、真の信仰を伝えなければと重荷を負うおかしな信仰者になっていきました。

中川氏がメッセージ内で批判するように、「本当の解釈はこうなのに…」と自分も他者を心の中で批判するようになっていきました。

"自分だけがこの「正しい聖書理解」を知っていてはいけない" と使命を感じ、近くでの開講を期にハーベスト聖書塾に入学し学び始めました。

しかし学びを進めていく中でも何故、牧師の話を素直に聞けなくなったり、兄弟姉妹を愛せなくなってしまうのだろう?

良い学びであるはずのハーベストタイムの教えを教会はなぜ受け入れてくれないのだろう?と、私の中にこのような苦い思いがはびこっている理由が分からずにいました。

 

夫も、教会が議題に上げている問題の対象が妻であることに困惑しきって、二人でまともに会話ができない状態に陥りました。

その原因は、教会が頑なで間違っているからなのか、ハーベストタイムが間違っているからなのか、当時は真実が分からず本当に苦しいところを通っていました。

教会が議題に上げていた問題とは、ハーベストタイムに所属する教会員が教会に対してボイコット的な行動をとるということが、全国各地で起こっており、そのような問題を起こす団体に私が所属しているということでした。それゆえ私が懸念の対象となっていることは理解できました。

 

今は、はっきりと言えます。その教えが真理かどうかは、「実」で判断しなさいとイエス様は言われました。

私の実はつまり「党派心、分裂」だったのです。それはガラテヤ5:19-20にある通り、平和との対局にある肉の行いの実です。そしてこのようなことをしている者たちは神の国を相続できないとあります。

しかしそれは、ただ単に主義や神学が違うだけだというような簡単な理由から来る問題ではありませんでした。

 

私は聖書塾に通い続けながらも、終末論の御言葉の解釈で納得がいかない点もあったので、その一点の解決を得ようと、ひとりで聖書を調べ続けました。今まで心地よくはまってきたボタンが、最後の一点ではまらなかったのです。それは、第七のラッパが鳴る時に起こる、しもべや預言者たちに告げていた奥義とは何か?という一点です。

そしてそのボタンがはまらないのは、聖書が明確にしていないことであるにも関わらず、あたかもそのことが既存の事実でもあるかのように、そのことを前提として御言葉を読んでいたからだという事に気付きました。その前提とは、黙示録において第七のラッパが吹かれるのは7年の艱難期の中間あたりであるという中川氏の解釈による前提です。それは、ダニエル9章の第七十週の「彼は多くのものと堅い契約を結ぶ」の彼を、キリストではなく終末の反キリストとする不確かな解釈から始まっています。結果、最後のラッパは黙示録の第七のラッパではなく、患難期の前に象徴的に吹かれるラッパによってクリスチャンは天に携挙されるという結論を導き出していたのです。

 

その前提がどう読んでも絶対的に正しくはないことがわかると、今まで構築してきた聖書解釈の体系が見事に音を立てて崩れていきました。

この場で、その解釈の問題点の全てをお伝えすることは時間の制約上できないのですが、私のブログには詳しく記しましたので読んで頂けると感謝です。主義や神学による解釈という目を通してではなく、聖書そのものを素直に読むことで、はっきりとこの主張の問題点に気付いていきました。

ただの間違いではないのです。ハーベストタイムがとるデイスペンセーションという立場は、終末論で患難期前携挙説をとり、これこそクリスチャンの希望であるというところに行き着きます。表面上は十字架の贖いを希望としているのですが、信仰生活は正しい終末論によって動機づけされると何度も訴え、患難期前携挙説に立たなければ、生きた信仰生活を送ることはできないと強く断定するかたちで結論づけているのです。

 

しかし私は問題のある解釈を断定的に教えられたという義憤から、聖書を徹底的に調べ直してみましたが、イエス様も弟子たちも、第七のラッパが吹かれるのは7年の艱難期の中間あたりであるという仮説を除くと空中再臨があると断定可能な箇所は一つもないと言う結論に至りました。患難期の前に携挙されるという教えは、私たちに患難に対する備えを失わせる可能性があります。

さらに、この希望に立たされたクリスチャンは、患難期の前に携挙が起こらなければ多くの方は混乱し、そう約束されたと信じていた神を見失うのではないかと思うのです。

 

「あくまで神学的仮説のひとつにとどまる患難前携挙説の断定」

これも、ハーベストタイムが犯してしまっている恐ろしい問題点であると思います。

多くの人を終末に背教させてしまいかねないのです。それならば、携挙はいつ起こるかわからないと主に委ねているクリスチャンの方が、信仰的なのではないかと今感じています。

 

こんなにはっきりと聖書を読めばわかることがなぜ分からず、私がこの教えに惹かれて行ったのか、今はお答えできます。

それは、中川氏は「聖書の学びによる信徒の自立」を訴えつつも、「正しい解釈」という名のフィルターを与えて、素直に聖書を読めなくさせているからです。聖書は既に訳者の誤った神学が入り込んでいると言って自らの解釈を断言して他の考えを排除し、神の言葉以上に自身が唱える「解釈」に信頼をおくようにさせています。いとも簡単に神学者達の築き上げた研究や知識をないがしろにしてしまうのです。その結果私もハーベストタイム以外の書物はおろか、聖書の引照さえも信頼して読むことができなくなっていました。これはまさにカルト的手法ではなかったかと感じています。

更に、なぜ異端でもないこの学びが問題を産んでしまうのかを調べていく中で、終末論のみならず、根本的問題に気づき始めました。

ヤコブ 3:18に、

「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」とありますが、

「正しい聖書解釈」という剣を投げ込み、教会を目覚めさせようとするところに平和は造りだせないないということです。

中川氏の「聖書を字義通りに正しく読んだ結果、この主義になる」の言葉は、その他一切の主義神学を否定しています。

 自分達こそ正しいとするところに、他者を理解し、共に神の国を立てあげるという姿勢はありません。

神の主権・神の栄光を聖書から読み解くことによって信仰が成長すると訴えていますが、神が私たちと本当に築きたいと願っておられる関係は、権威の提示による主従関係ではなく、愛の関係です。その最も重要な点を見失なわされていたことに気づかされたのです。

ハーベストタイムは異端ではないため、教会はその存在を良いとも悪いとも言えない状態に立たされています。

しかし、歴史の中で、ディスペンセーション主義がどのような背景から生まれ、神学者達にどのように評価されているのかなど、一般の信徒が知るよしもありません。

神学に対して何の武装もしていない一般の信徒は、聖書をもっと学べるという甘美な声にいとも簡単に惑わされてしまいます。

しかしもし、この団体を客観的に判断できる材料があり、助言者がいれば、ここまで傷を負うことはなかったのではと思います。

私は家庭が傷つけられましたし、信仰生活が苦しくなり、教会を去る決断をせざるを得ない状況にまで追い込まれました。その時の心身のストレスは本当に耐え難いものでした。それでも尚誤りに気付き、立ち返ることができたのは、ただただ神の恵みとしか言いようがありません。

 

私と同じように大きな問題が内包されている教えに陥って苦しみ、イエス様への純粋な信仰を刈り取られてしまう方が起こらないように、また諸教会がこれ以上大きな傷を負うことがないことを願い、主から証をするという使命を与えられたことを感謝しています。

 

 

以上です。尚、関連の過去の記事はこちらになります。

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