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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

本当の蛇(悪魔)の罠

創世記3章の、エバに対する蛇の欺きの記事を思い出して頂けるでしょうか。

蛇は神が全能であることを知っていました。人間も、全能である神を信頼していました。ですから、蛇が神の全能性を否定することによって神への信頼を揺るがすことなど到底できませんでした。
しかし、全能な神に信頼している人間を欺かせる方法が一つだけありました。
それは、神の『業』を否定することです。
「そこで蛇は女に言った。『あなたは決して死にません』」(創世記3:4)
「『それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」(創3:5)

蛇は全能である神の『業』(約束が成就する計画)を、見事に歪めて見せました。
蛇は『わたしは知っています』ではなく、「神は知っているのです」(創3:5)と言ったのです。神が全知全能であることを否定してはいません。

そしてなんと、食べた直後は死ななかったのです。蛇の「決して死にません」が目下成就しました。蛇が歪めた方の神の約束は一見正しく映ります。
『決して死なないことも、神はご存知なのです。ほら、こうして目が開けたではありませんか。』
さらには蛇の言ったとおり、目が開けて裸であることがわかるようになったのです。アダムとエバは、蛇が伝えた通りの『神がご存知なこと』が、自分の身に成就したことを体験しました。
神の全能性を否定することなく、神のなさる『業』(約束の成就)を否定させることに成功しました

しかし、その実を食べる時、神は「必ず死ぬ」(創2:16)と言われたのは、即座の死ではなく、霊的に死んだ結果やがて死にゆく存在となるということでした。
歪められた神の約束を信じてしまった場合、本来の神の約束が成就した時に、『わたしが間違っていました、神様ごめんなさい。』となるでしょうか?それとも、
『約束された神は真実ではなかった!』となるでしょうか?
後者になった場合、蛇はその人を本当に獲得できたことになります。

蛇による罠がいかに巧妙であるかを感じます。






さて、
ハーベストタイム・ミニストリーズは、字義通りのイスラエルへの神の約束の成就は、神の真実性の証明であることを強調しています。
ダビデ契約はキリストにおいて成就し、新しい契約もキリストにおいて成就しました。しかし、イスラエルの土地の回復についてはまだであり、神の真実性を証明するためには、それが地上で果たされる必要があるとされているからです。

(※本当に今も、字義通りのイスラエルとの契約は、字義通りのイスラエルに果たされる必要があることを聖書は示唆しているかどうか?については、こちら↓)
vitaminp81.hatenablog.com


ですので、契約の当事者である民族的イスラエルが消滅してしまったり、艱難時代の幕開けに必要な、反キリストと契約を結ぶイスラエル国が消滅してしまったりすることはあり得ないことなのです。
イスラエルが、あくまでも教会とは別に存在していなければ、この契約の成就は無いのですから、神への信頼は、ここにかかってくると言っても過言ではないでしょう。



ディスペンセーション主義はほぼ100%艱難期前携挙説に至るということを、前の記事でも書きましたが、艱難期の前に携挙が起こらなくてはならない理由とは何でしょうか?

質問を変えてみます。再臨と同時にイスラエルと教会の区別なく、携挙されてしまったらどうなるでしょうか?
民族的イスラエルが地上からいなくなってしまいますから、民族的イスラエルに対する土地の契約が果たされないことになりますね。

ですから、教会の携挙は艱難の前に起こり、黙示録7章で額に印を押される144,000人のユダヤ人は、艱難の中も神の守りによって生きながらえ、肉体を持ったまま千年王国に入る必要があるのです。
艱難の中殉教した人たちは生き返って、「その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」(つまり艱難をくぐり抜けて生き延びた144,000人のユダヤ人を含む人たち)とともに「千年の間王と」(黙示録20:4)なれば、神の約束が果たされることになるからです。

そしてなんとも見事に、彼らが主張している通りのすべての主張を、御言葉に読み込むことが可能なのです(※しかし、それについての疑問の投げかけを、当ブログでは行っています)。
イスラエルも建国され、イスラエル人も奇跡的に存在し、目下成就しています。


HTMでは、過去の預言成就の御業によって神がいかに信頼できるお方かを学び、未来の聖書預言についても成就されるであろう『業』にこそ、神の真実性がかかっていることに強調点をおかせています。意図せぬうちに神の成される『業』に注目することを要求されているのです。そして、『業』の正しさを証明するために聖書を用いていきます。
神の『業』の真実性が、神そのものの真実性の証明になることは、全くその通りでしょう。人に置き換えて考えてみれば、人が信頼に足る人物かどうかは、その人の行いによって判断できるからです。

しかし、神そのものへの信頼が、神の業への信頼へとすり替えられていることの危険性に、どれだけの人が気付けるでしょうか。
神の計画(業)を歪めて映し出し、『これこそ、神がご存知の計画なのです。』と提示され、そこに信頼をおいた場合、神の業が歪められたのとは違う方向に向かった時に、人の心はどのように反応するでしょうか。
『わたしが間違っていた、神様ごめんなさい。』でしょうか?
『約束された神は真実ではなかった!』でしょうか?


本来はそんなシナリオにではなく、キリストによって贖われ、一つの身体、神の民とされた恵みにこそ、焦点を置かなければならないのです。


聖書の学びは良いことです。しかし、不確かな神学による学びによって分かるようになった神の約束が成就するという『業』が神への信頼の土台となるなら、その土台が崩れ去るようなことになった場合、信仰も崩れていくことになります。


どうか、神学を通して学んできたあなたの御言葉が、歪められた真理ではないかどうかを今一度確認してみて下さい。
そしてそれを土台として行く場合、その土台が確かなものであるかを確認する一番良い方法は、聖書そのものに向き合うことです。中でも、自分の主張に相反する聖書の御言葉に向き合い(そのうちのいくつかを、当ブログでとりあげていますので参考にしてください)、もし御言葉から反論できなければ、御言葉を土台に神学をうちたてていなかったことに気付くでしょう。なぜなら、神学を土台に御言葉を証明してしまっているからです。
私はこの作業で、このことに気付かされていきました。

神そのものではなく、神学によって歪められた神の『業』(約束の成就)を土台にさせる事こそ、蛇(悪魔)の本当の罠なのではないでしょうか?


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