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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

さばき主は二度「戸口」のところまで来られるか?

ごぶさたしてしております。

いつも”○○休み”は家族ファーストにするのを心掛けているのであしからず…。

 

さて、小休止をはさみながらSNSでも話題となっていた「患難期前携挙説」について長い期間詳しく深堀りしてきました。

その一覧のリンクをここに貼ります。

艱難期前携挙説主義者が取り組む必要のある諸問題 カテゴリーの記事一覧 - Misao’s bible diary (hatenablog.com)

患難期前携挙説の何がおかしいのよ?という方はぜひともこれらの記事に対してご自分の聖書を開きながらじっくりと向き合ってみていただきたいと思います。

 

以前もお伝えしているのですが、私はその人自身が患難期前携挙説か患難期後携挙説かはどちらでも構わないと思っています。それは、キリストイエスに信頼することこそ最も価値のある事で、終末論について緻密に調べていないことが不信仰につながるとは全く思わないためです。しかし、聖書をよく調べた結果患難前携挙説しかありえないと言われると、「ちょっと待って!」となるわけです。

この「患難期前携挙説者が取り組む必要のある問題」について一つ一つ取り組んできたわけですが、それでも納得できないという方に、まだ更に取り組んでいただきたい課題があります。今回はその一つを記します(もう一つは次回に)。

 

 私は自分の解釈の主張をして分裂を促進しようとしているわけではなく、むそろこれこそ真の聖書解釈として非ディスペンセーション主義の教会内に剣を投げ込まれ、分裂と破壊が起こっている実情を知る者としては、該当者がこの疑問にしっかりと向き合うことがキリストの教会が一つになるために肝要であると考えます。(ディスペンセーション主義の教会にももたらされた分裂と破壊の被害については、「主の弟子・祭司とは何か?」について問い直す必要があると考えます。)

  

その他にも、「新約で明らかにされたことを通して旧約を再解釈することは妥当なのか?」「永遠の掟である安息日について」「ダビデの王座とは何か?」など、まだまだ取り組んでみたい他の課題がありますが、これらについてはまた追々書いていきたいと思います。

 

 

 

【戸口のところまで来られるさばき主】

ヤコブの手紙は「離散している十二部族の人々へ」という書き出しで始まる手紙ですが、ヤコブ5:9「さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。」は、彼らに空中再臨(携挙)の警告を語っているのでしょうか。

ハーベストタイムメッセージステーション「60分で分かる旧約聖書(20)ヤコブの手紙」(↑リンク有、メッセージアウトライン参照)によると、この警告は「携挙」の希望のことを語っていると位置付けています。

 

このように、ヤコブの手紙における「離散している十二部族」ユダヤ人クリスチャンと解釈する一方、黙示録のイスラエルのあらゆる部族」(黙示録7:4-8)は患難時代に残されるユダヤ人、すなわち患難時代前は不信仰だったユダヤ人と解釈する、という二重基準が生まれているのではないかと感じます。

黙示録のイスラエルの十二部族が患難時代に救われるユダヤ人を指しているとするなら、ヤコブの呼びかける「離散している十二部族」もそう解釈すべきではないでしょうか。そうすると、少なくとも両方の「戸口」まで近づく時期が一方は患難期前の携挙の時、もう一方は地上再臨の時で、主は二度戸口までこられるのだという聖書に矛盾した考えはなくなるでしょう。さらには、イスラエルとはそもそも神の恵みによって選ばれた、神と共に歩む民のことを指している(つまり民族の枠組みを超えたクリスチャン)と理解するなら、この「戸口」までイエスが来られる時が携挙のときであると同時に、地上再臨のときでもあるという結論に達するのではないでしょうか。

しかし、文脈では黙示録7章は封印が解かれた後の患難時代の描写であるからだと言うなら、その文脈が確かに終わりの日から逆算した七年間の大患難時代であるといえる根拠や、封印が解かれるのが未来の出来事であると解釈する根拠を見直さなければなりません。また、マタイ24章33節の文脈は患難期前携挙に取り残された七年間を生きるクリスチャンに語られているのだとする根拠をです。

そうするとどれも最終的にダニエル書の一週の間多くの者と堅い契約を結ぶ「彼」(ダニエル9:27)とは誰か?という不確かな解釈に行き着くのです。

「彼」(ダニエル9:27)は祭壇からいけにえとささげものを取り払った(take away)反キリストか、いけにえとささげものをやめさせた(Cease)キリストか。ダニエル9:27では後者の「やめさせる(Cease)」が用いられており、ダニエル11:31はっきりと反キリストだと説明されている「彼」には「取り払い(take away)」が用いられています。

「彼」の解釈に関する詳細はこちらの記事の後半をご参照下さい→ダニエルの七十週の預言(2-5) - Misao’s bible diary (hatenablog.com)

 

それでも尚、ヤコブの手紙にある「戸口」が携挙の希望を指しているとするなら、

マタイ24:33「これらすべてのことを見たなら人の子が戸口まで近づいている...」は、前携挙説では大艱難時代を通り抜けるユダヤ人へ語っている地上再臨の希望であると位置づけられていますが、果たしてイエスご自身がご自分が二回「戸口」のところまで来られると語っていたでしょうか。語っていなかったとすれば、ある箇所の「戸口」を携挙の希望と捉え、ある箇所の「戸口」は地上再臨の時だと捉える確たる根拠の御言葉があるでしょうか。(※これらすべてのこと=マタイ24:4-28の大患難時代のこと。参照:ハーベストタイムメッセージステーション「メシアの生涯(169)―オリーブ山での説教(5)―」アウトラインより)

 


ディスペンセーション主義によると、さばき主は戸口のところまで来られ、携挙後(御座の裁き)、再臨後(羊と山羊の裁き)、新天新地直前(白い御座の裁き)の三段階でそれぞれのさばきがなされると考えるようですが、テキストはそれを否定させるものです苦しみと安息の報いは、主イエスが『現れる(アポカリュプセイ)ときに』同時に起こると伝えています

 

「神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。」(Ⅱテサロニケ1:6,7)

※参考…ディスペンセーション主義における三つの裁き

「キリストの御座の裁き」(Ⅱコリント5:10)・・・携挙の直後、教会時代の信者がその行いによって御国で受ける報酬を決めるもの。

「羊と山羊(国々の民)の裁き」(マタイ25:31-36)・・・大患難時代の後イエスが再臨される時、誰が千年王国に入るかを定めるもの。

「大いなる白い御座の裁き」(黙示録20:11ー15)・・・千年王国の後、未信者が自分の行いにしたがって火の池での永遠に続く刑罰に処される。

 

もしくは、教会は携挙後天で結婚式を挙げながら『さばき』としての安息の報いを七年間待っていると解釈する場合、携挙を境にいつまでも主と共にいるというのは、安息という報いそのものではないと、どの御言葉を持って裏づけることができるでしょうか。

 

「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:17)

 

次回へ続く…

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)