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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

思考コントロールを感じるメッセージ

書塾を卒業された方が、完全に中川氏と同じ解釈かというと、そうではないことがわかってきました。ハーベストタイム(以下HTM)での学びを足台として、さらにご自分の見解を展開されている方が一定数おられるということをお見受けします。というのは、いつまでもHTMから学び続ける信徒を作るのではなく、イエス様の直接の弟子作りをHTMは目的としているため当然で、その意味では成功者のようです。それゆえHTMの解釈に異論を投げかけたところで、「いや、それについては今私は中川師と別の解釈をしています。」状態で、相手のいないところに異論の矢を放っていることもあったのかもしれません。

そうした中でも、リーダーとなった卒業生が私的解釈などに陥らないように自立と共生を掲げ、各地フォーラムはゆるやかに繋がりを保っていると思われます。

HTMのスタンスはそもそも、『信徒がいつまでも牧師からしか栄養をもらえない霊的乳飲み子ではいけない。今は一人一人が聖書を正しく理解し、直接神様から栄養を貰うことができる万人祭司の新約時代にいる。』と教えているからです。

今は一人一人が聖書を読むことが出来る時代ですから、一見何の問題もない教えのように思えます。しかしこの『正しい理解』というのが、HTM的ヘブル的字義通りの解釈のみを指しているということは、HTMの展開する膨大な数のメッセージを聞けば聞くほど分かってきます。ここにも解釈の唯一性への訴えがあり、分裂の遺伝子をはらんでいると感じます。ちなみに、先に説明した自立と共生をもって緩やかに抑制している『HTM的私的解釈』とは、この解釈の土台から外れた解釈を指します。

 

そして独立していった祭司たちは、HTM的へブル的字義通りの解釈が唯一の土台と理解して、それぞれに独自の解釈を展開していっておられるのです。

 

ディスペンセーション神学に基づく学びは一つのベクトルを持っていて、ディスペンセーション解釈の枝葉がそこから様々にあるにしても、それらは全て一つの終末論へ導くと思っています。

それは、教会時代はイスラエルの中に挿入されたものであり、終末は民族的イスラエルが舞台の主役になるため、教会が患難前に取り除かれるということ。これは中川氏が訴える通り、患難前携挙こそがディスペンセーション主義にとって最も矛盾の無い解釈と言えると思います。

 

しかし、私の場合はそもそもディスペンセーション主義の解釈自体が数あるうちの一つの解釈であり、不確かなダニエル解釈に基づいてすべての聖書箇所を解釈していくものだと気付いたのです。それはもちろん、不確かさ故にその解釈が確実に間違っていると断定することはできないのですが、少なくとも私にとってはディスペンセーション主義への信頼の根幹を揺るがすものでした。

そして、ディスペンセーション主義がもし間違っていたら、終末論のベクトルも間違った方向を指していくことになります。

勿論それで救いを失うことはないです。しかしHTMの場合、このベクトルの違いをもって教会の中に分裂を招いているのは確かです。礼節をもって、「この度私たちの教会とは違う神学を学びたいので聖書塾に行きます」と牧師の許可を得て推薦状を頂くという、その大前提を飛び越えて入学できるシステム。むしろそのように導いていると感じる数々のメッセージ。信者の人間的な未熟さの前に、周りの意見を客観的に判断させなくする思考コントロールがあったと思います

教会は間違った解釈をしている堕落したものであると。そして別のメッセージでは、真理を知った私たちは、まだ覚醒していない人々や教会に真の聖書解釈(ユダヤ的解釈)を伝えるべきだと奨励しているのです。真理のためなら礼節を破ることも致し方ないとする心理状態へと導かれかねません。

 

前回記事で教会内で起こる大小の問題を通して聖化させていただくと書きましたが、それでも人間の不完全さゆえ様々な教派や教団が存在することが許されていると思います。なので問題の質によっては、通う教会を変わることもあっていいと思います。しかしその場合は、教会内に異なる教えを持ち込んで革命を起こしたり、無断で去るのではなく、礼節を保って牧師と話し合い籍を移して去るのは、信者としての前に社会人として守るべきモラルでしょう(※その教会がカルト化していなければですが)。

 

じゃ本当に、思考コントロールするようなメッセージが具体的に語られているの?という声も聞こえてきますので、例を一つ以下にご紹介します。

 

【具体的な問題だと感じるメッセージ箇所】

58分あたり~最後(リンクを張っていますので、お時間のある方はお聞きになってみてください)

ユダヤ的視点を失った解釈の例を上げて、教会にこの視点が失われていることが、弱点となっていると言っています。

・クリスチャン生活の動機は終末論にある。と説明した後、

ユダヤ人の救いを論じなくなった時、以下のような事が起こったとの説明に入ります。

①教会時代が千年王国であるという認識

②終末論に対する興味の喪失

③キリストの再臨に対する無知

④クリスチャン生活の動機の喪失

⑤Ⅰテサロニケ5:4~5の『その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません』の『その日』は携挙に始まる大患難時代を指しているとし、暗闇は真理を見えなくする、と締めています。

 

つまり、①~④は悲惨な結果の例として挙げ、ユダヤ的解釈でなければ暗闇の中にいて真理がわからなくなり、間違った解釈や喜びのないクリスチャン生活に陥ってしまうのだと訴えています。そして、唯一、ユダヤ的視点に目覚めて再臨待望を語っている団体こそハーベストタイムであると訴えています。

 

テレビなどの公共波は真実を伝えていない、悪魔の支配下にあるとする反ワクチンの世界観に通ずるものを感じます…。いずれも家庭や人間社会に、分裂や愛の冷え込みをもたらしていると感じます。

教会にもたらす問題の経緯の共通点

ーベストタイムについての話題を続けます。私が都合よく勝手に被害者になっているだけだ、と冷ややかな見方をしている方もおられるかもしれません(もちろん読者さんや、フォロワーさん以外にです)。

また、ハーベストタイム(以下HTM)が教会に分裂をもたらしているという事について、全く見たり聞いたことがない方々にとっては、『私はそうは思いません』と答えるのは当前だと思います。当事者になってみなければ見えてこない側面というのも事実だからです。

しかし、私自身の身に起こったことを勇気をもってブログで証させていただいた結果、実際に問題にあわれた複数の当事者の方々から直接実態を聞く機会が増えるようになりました。(※追記:教会から連絡を頂いたのではないので『当事者』と変更。2021/9.26)もちろんここで詳細について一切述べることは差し控えますが、私がこの件でお世話になったH先生の教会をはじめ、私が直接お聞きしたいくつかの問題事案には一定の共通点がみられる事がわかってきました。

 

①私の知る限りすべて健全な教会で、大きな原因(カルト化や、牧師の権威体制など)はない教会で起こっている。

②元々教会内に派閥など、牧師と信徒との信頼関係に問題があった。

③牧師の解釈への不満をきっかけに、元々牧師不信だった人たちにも不満が広がる。

④ハーベストタイムの解釈とは違う、あるいは否定的な牧師を、退任に追い込む。

⑤それが無理なら(④を経てか、あるいは経ずに)仲間と共に退会する。

⑥教会内に、なぜ兄弟姉妹が突然去ったのかという混乱が残る。

 

金太郎飴のように、経緯が同じなのです。

特に②は、問題の本質が何なのかをわからなくさせています。元々の問題に複雑に神学的問題が絡み合ってくるため、問題の渦中にいる人々にとっては、HTMが全ての原因ではないと思えます。しかし、そもそも教会は人間の集まりですから、何の問題もないなんてことはほぼないのが現実だと思います。

 

 

ここで考えて頂きたいのですが、どうでしょうか。教会に問題があることは教会として悪いことでしょうか。

大きな教会ほど、様々な考えの人が集まりますから、大小の問題は起こるのは当然だと思います。問題にぶち当たりながらも、相手を愛する選択をしていくことを通して、お互いがキリストにあって一つだということを確認していくことが大切だと、私は思うのです。

また、問題を通して相手を愛せない自分を見させていただいて、よりキリストにすがらせていただくことを通して聖化されていくと思うのです。

それも、教会生活を通して十字架を共に負わせていただくことの一つではないかと思います。

 

しかし、HTMの教えに深くはまった方々によって、問題がそのようにプラスに働くことなく、ベクトルが必ずと言っていいほど分裂へと向かってしまうのです。ある意味一致を失って弱体化しているところにHTMの教えが入り込み、分裂を決定的なものにしていっているようにさえ感じます。それがサタンの知恵だと思います。

HTMは異端ではないので、その語られる福音は本物ですが、携挙こそ信者の希望と語り、その教えを受け取った人のうちには、良い麦と同時に毒麦も撒かれていると感じます。(参照:本当の蛇(悪魔)の罠 - Misao’s bible diary

その人が兄弟姉妹のうちに愛という霊の実を結ぶのか、分裂をもたらす肉の実を結ぶのか。

神様との個人的な関係が死の直前(特に携挙の前に患難やこの世の終わりが来た場合)に神へのへりくだりとなるか、神への呪いの叫びとなるか。

いずれも後者を産む危険性をはらんでいる教えではないかと思います。そして実際幾人かは教会に分裂という実をもたらし、SNS上でもそのような言動をお見受けします。このように、共に撒かれた毒麦は、刈り取ろうとすると必ず良い麦も刈り取ってしまうほどに巧妙に紛れ込んでいます。

 

私たちの信仰がなくならないようにという、イエスのとりなしの祈りに信頼すべきですが、サタンも一人でも地獄へ引きずり落そうと必死だからこそ、私たちは信仰をはじめとする武具をとって戦う必要もあるのです。

 

このような共通点を見出していくときに、果たして私が訴えている問題が単なる被害妄想であるのか、私たちが戦うべきサタンの罠が紛れ込んでいないか、今一度吟味してみる必要があるのではないでしょうか。

牧師として、人々を一つの社会的思想へ導く事について

覧になられている方も多いでしょうか。

 

ハーベストタイムの動画をチェックする事はしなくなっていましたが、新チャンネルについての噂をお聞きし、拝見することにしました。



さまざまに存在する聖書解釈のうちのごく一部の解釈を社会現象にそのままあてはめ、「光の国であるアメリカに、必ず神の喜ばれるリーダーが誕生すると信じる」このように動画の中でつぶやく中川牧師。



光はアメリカ、闇はタリバンを始めとする武装組織によるアフガニスタン、という単純二極化思想。そこには、なぜタリバンのような組織が誕生しなければならなかったのか?という彼らの社会的背景を知ろうとする考えは全く存在しないのです。個人の社会的思想は自由でしょう。しかし、牧師としての発言を通して人々を一つの社会的思想に導いてしまうのは非常に危険な事だと感じます。ましてや特定の人物を賞賛し、片方をけなすような配慮に欠ける言動は、果たして本当に隣人を愛するという律法を守るクリスチャンのあるべき態度なのでしょうか?

 

ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。」(Ⅰコリント10:32)

 

とても単純なこの教えを破壊してしまっていると感じます。

 

私には全くこのような否がないとは勿論言えませんが、少なくともその影響力ある立場を持ってこのような発言はすべきではないと思います。




ハーベストタイム(以HTM)では、エゼキエルの預言にあるように、民族的イスラエルユダヤ人)は約束の地に、一度目は彼らの罪が裁かれるため、二度目は救いのために集められるといいます。一度目は捕囚という形でさばきに遭ったユダヤ人たちは、今度は患難時代に救いを受けるために今エルサレムに帰還してきていると確信しているのです。そのような聖書解釈から、将来は必ずユダヤ人はエルサレムに帰還するのだから戦争もやむを得ないとする、根底に静かに流れるシオニズム

 

正しい聖書解釈が霊的覚醒をさせ、人々を真の救いに導くとするHTMの教えは、確かに特定の国や政治を支持させるように導いています。アメリカこそ光であるとし、彼らの軍が人々を殺す事も聖戦のように思わせる『大義』を抱えています。




ある時「Misaoちゃんがハーベストタイムに傾倒していたとき、仮にイスラエルパレスチナ・イランが戦争になっていたら、どんな風に思っていた?」と信友N姉に聞かれました。

 

勿論、いよいよ終末の最終段階である反キリストの登場への足がかりが作られていくと感じていたと思います。表面的には戦争反対ですが、心情的にそれは聖書の預言・神のご計画故致し方ないとし、受け入れ難いものではなかったでしょう。「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)の御言葉通り、民族的イスラエルユダヤ人)は患難期に突入すれば、患難の間守られ救われるはずだと信じていたからです。それ故間違いなく、私がHTMに傾倒し続けていれば、民族的イスラエルが守られるように、つまりイスラエルが勝利し神の計画が前進するよう祈っていたと思います。

 

当時はそう信じて疑いませんでしたが、このような政治的発言によって、いかに恐ろしい思想を内包しているかを、今まさに実感しているのです。

 

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

黙示録6章の赤い馬は、世界大戦と区別される未来の大艱難時代の戦争を指しているのか?

前回は、信者への安息が携挙によって再臨の裁きより先に与えられるものではないことを、Ⅱテサロニケ1:7の、苦しみと安息の報いは炎の中に御使いたちとともに天から現れ」(602apokalupsis)る時に起こるという聖句を通して指摘しました。

 

また、再臨によって与えられる信者への報いを、携挙によって天で待っているのでもないことをⅠテサロニケ4:17の、引き上げられた瞬間から主とともにいるという安息の希望との矛盾から指摘しました。

 

エス様は勿論聖書記者たちでさえ、私たち信者が望むべきは空中再臨による携挙ではなく、キリストの目に見える形での再臨であると語っています。

 

Ⅰペテロ1:13「キリストが『現れ』(602apokalupsis)るときに与えられる恵みを待ち望みなさい」

 

Ⅰコリント1:7「あなたがたは...熱心に私たちの主イエスキリストの『現れ』(602apokalupsis)を待ち望むようになっています」

 

テトス2:13「イエス・キリストの、栄光ある『現れ』(2015epiphaneian)を待ち望むように教えています。」

 

Ⅱテサロニケ2:8「不法の者が現れますが、主イエスは...来臨の『輝き』(2015epiphaneian)をもって滅ぼされます。」

 

Ⅰテモテ6:14「主イエスキリストの『現れ』(2015epiphaneian)の時まで...命令を守りなさい」

 

Ⅱテモテ4:8「主の『現れ』(2015epiphaneian)を慕い求めている人には、だれにでも(栄冠を)授けてくださるのです。」



【黙示録6章の赤い馬は、今の時代の世界大戦と区別される未来の大艱難時代の戦争を指しているのか?】

 

ハーベストタイム(以下HTM)では、偽キリストの出現や戦争の勃発は教会時代の特徴であると認めています。にもかかわらず、黙示録6:4「人々が互いに殺し合うようになるため」出て来る赤い馬は、今まさに起こってきた世界大の戦争とは区別される未来の戦争を示していると言い切るのです。

 

もし第一次、第二次世界大戦などが黙示録6:4の赤い馬の象徴だとしてしまうと、黙示録6章以降が教会が携挙されたあとの七年間の大艱難時代であるというディスペンセーション的説明が崩れてしまいます。

となると、さらには赤い馬よりも先に登場してくる黙示録6:2の白い馬に乗る者も、大艱難時代の幕開けとなる反キリストではなくなってしまいます。

しかし、反キリストは既に多く現れています。

「今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。」(Ⅰヨハネ2:18)

 

私の目には黙示録6章以降は携挙後の七年間の大艱難時代の幕開けではなく終わりの時、つまりイエスの言われた『産みの苦しみの始め』のようです。

 

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始めなのです」(マタイ24:7,8)

 

なぜこんなにも人々が殺し合っているのに、黙示録の赤い馬が未来の出来事だと断言できるのでしょう。

黙示録は、本当にHTMが示しているような時系列と挿入句の構図であるという読み方で本当に正しいのかどうか、吟味してみる必要はないでしょうか?

 

黙示録の読み方についての過去記事はこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com





聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

さばき主は二度「戸口」のところまで来られるか?

ごぶさたしてしております。

いつも”○○休み”は家族ファーストにするのを心掛けているのであしからず…。

 

さて、小休止をはさみながらSNSでも話題となっていた「患難期前携挙説」について長い期間詳しく深堀りしてきました。

その一覧のリンクをここに貼ります。

艱難期前携挙説主義者が取り組む必要のある諸問題 カテゴリーの記事一覧 - Misao’s bible diary (hatenablog.com)

患難期前携挙説の何がおかしいのよ?という方はぜひともこれらの記事に対してご自分の聖書を開きながらじっくりと向き合ってみていただきたいと思います。

 

以前もお伝えしているのですが、私はその人自身が患難期前携挙説か患難期後携挙説かはどちらでも構わないと思っています。それは、キリストイエスに信頼することこそ最も価値のある事で、終末論について緻密に調べていないことが不信仰につながるとは全く思わないためです。しかし、聖書をよく調べた結果患難前携挙説しかありえないと言われると、「ちょっと待って!」となるわけです。

この「患難期前携挙説者が取り組む必要のある問題」について一つ一つ取り組んできたわけですが、それでも納得できないという方に、まだ更に取り組んでいただきたい課題があります。今回はその一つを記します(もう一つは次回に)。

 

 私は自分の解釈の主張をして分裂を促進しようとしているわけではなく、むそろこれこそ真の聖書解釈として非ディスペンセーション主義の教会内に剣を投げ込まれ、分裂と破壊が起こっている実情を知る者としては、該当者がこの疑問にしっかりと向き合うことがキリストの教会が一つになるために肝要であると考えます。(ディスペンセーション主義の教会にももたらされた分裂と破壊の被害については、「主の弟子・祭司とは何か?」について問い直す必要があると考えます。)

  

その他にも、「新約で明らかにされたことを通して旧約を再解釈することは妥当なのか?」「永遠の掟である安息日について」「ダビデの王座とは何か?」など、まだまだ取り組んでみたい他の課題がありますが、これらについてはまた追々書いていきたいと思います。

 

 

 

【戸口のところまで来られるさばき主】

ヤコブの手紙は「離散している十二部族の人々へ」という書き出しで始まる手紙ですが、ヤコブ5:9「さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。」は、彼らに空中再臨(携挙)の警告を語っているのでしょうか。

ハーベストタイムメッセージステーション「60分で分かる旧約聖書(20)ヤコブの手紙」(↑リンク有、メッセージアウトライン参照)によると、この警告は「携挙」の希望のことを語っていると位置付けています。

 

このように、ヤコブの手紙における「離散している十二部族」ユダヤ人クリスチャンと解釈する一方、黙示録のイスラエルのあらゆる部族」(黙示録7:4-8)は患難時代に残されるユダヤ人、すなわち患難時代前は不信仰だったユダヤ人と解釈する、という二重基準が生まれているのではないかと感じます。

黙示録のイスラエルの十二部族が患難時代に救われるユダヤ人を指しているとするなら、ヤコブの呼びかける「離散している十二部族」もそう解釈すべきではないでしょうか。そうすると、少なくとも両方の「戸口」まで近づく時期が一方は患難期前の携挙の時、もう一方は地上再臨の時で、主は二度戸口までこられるのだという聖書に矛盾した考えはなくなるでしょう。さらには、イスラエルとはそもそも神の恵みによって選ばれた、神と共に歩む民のことを指している(つまり民族の枠組みを超えたクリスチャン)と理解するなら、この「戸口」までイエスが来られる時が携挙のときであると同時に、地上再臨のときでもあるという結論に達するのではないでしょうか。

しかし、文脈では黙示録7章は封印が解かれた後の患難時代の描写であるからだと言うなら、その文脈が確かに終わりの日から逆算した七年間の大患難時代であるといえる根拠や、封印が解かれるのが未来の出来事であると解釈する根拠を見直さなければなりません。また、マタイ24章33節の文脈は患難期前携挙に取り残された七年間を生きるクリスチャンに語られているのだとする根拠をです。

そうするとどれも最終的にダニエル書の一週の間多くの者と堅い契約を結ぶ「彼」(ダニエル9:27)とは誰か?という不確かな解釈に行き着くのです。

「彼」(ダニエル9:27)は祭壇からいけにえとささげものを取り払った(take away)反キリストか、いけにえとささげものをやめさせた(Cease)キリストか。ダニエル9:27では後者の「やめさせる(Cease)」が用いられており、ダニエル11:31はっきりと反キリストだと説明されている「彼」には「取り払い(take away)」が用いられています。

「彼」の解釈に関する詳細はこちらの記事の後半をご参照下さい→ダニエルの七十週の預言(2-5) - Misao’s bible diary (hatenablog.com)

 

それでも尚、ヤコブの手紙にある「戸口」が携挙の希望を指しているとするなら、

マタイ24:33「これらすべてのことを見たなら人の子が戸口まで近づいている...」は、前携挙説では大艱難時代を通り抜けるユダヤ人へ語っている地上再臨の希望であると位置づけられていますが、果たしてイエスご自身がご自分が二回「戸口」のところまで来られると語っていたでしょうか。語っていなかったとすれば、ある箇所の「戸口」を携挙の希望と捉え、ある箇所の「戸口」は地上再臨の時だと捉える確たる根拠の御言葉があるでしょうか。(※これらすべてのこと=マタイ24:4-28の大患難時代のこと。参照:ハーベストタイムメッセージステーション「メシアの生涯(169)―オリーブ山での説教(5)―」アウトラインより)

 


ディスペンセーション主義によると、さばき主は戸口のところまで来られ、携挙後(御座の裁き)、再臨後(羊と山羊の裁き)、新天新地直前(白い御座の裁き)の三段階でそれぞれのさばきがなされると考えるようですが、テキストはそれを否定させるものです苦しみと安息の報いは、主イエスが『現れる(アポカリュプセイ)ときに』同時に起こると伝えています

 

「神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。」(Ⅱテサロニケ1:6,7)

※参考…ディスペンセーション主義における三つの裁き

「キリストの御座の裁き」(Ⅱコリント5:10)・・・携挙の直後、教会時代の信者がその行いによって御国で受ける報酬を決めるもの。

「羊と山羊(国々の民)の裁き」(マタイ25:31-36)・・・大患難時代の後イエスが再臨される時、誰が千年王国に入るかを定めるもの。

「大いなる白い御座の裁き」(黙示録20:11ー15)・・・千年王国の後、未信者が自分の行いにしたがって火の池での永遠に続く刑罰に処される。

 

もしくは、教会は携挙後天で結婚式を挙げながら『さばき』としての安息の報いを七年間待っていると解釈する場合、携挙を境にいつまでも主と共にいるというのは、安息という報いそのものではないと、どの御言葉を持って裏づけることができるでしょうか。

 

「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:17)

 

次回へ続く…

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

花嫁が亜麻布をまとって用意ができたと宣言されるのが、再臨のタイミングであるという問題(4-2)

※シリーズの第17回目、いよいよ最終回になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 その他の諸問題

4-2子羊の婚宴のタイミングについての問題:黙示録の構造という問題の中で、黙示録19:1–10の位置付けを考える必要がある。

 このシリーズもとうとうこれで最終回となりました。

一時は「まだ設問がこんなにある💦」と思っていましたが、たっぷりと聖書と向き合う大変幸せな時間を過ごすことができ感謝でした。

この設問も、本当に鋭いです。

 

【黙示録の構造の問題】

設問に『黙示録の構造という問題の中で』とあるように、黙示録の構造について再確認したいと思います。

私はハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)でしか患難前携挙説のディスペンセーション神学を学んでいないため、HTMにおける理解についてご紹介します。

HTMでは、『黙示録は、旧約聖書の様々な預言を時間順に並べたものである』と解釈しています。時間順としては整理できない7章、10章~14章(11:15-19を省く)、17章、18章は挿入句として扱っています。

それらの挿入句を省く6章から20章3節までを、再臨をクライマックスとした七年間の大艱難時代の時系列の描写とし、20章4~6をメシア的王国、20章7~15節をその後の出来事、21章1~22章5節を永遠の御国の描写としています。

このような考え方は非常に分かりやすく、黙示録をとっつきやすいものにしてくれると感じます。

しかしそのように黙示録を挿入句と時系列として捉えた時、説明できない矛盾の問題を抱えてしまうのが現状です。

 

では、その問題を抱えてしまう部分を見ていきたいと思います。

黙示録を読んでいると、同じ表現が何度も出てくることに気付きます。これは同じ事が何度も起こるからなのでしょうか。

以下、HTMで挿入句と見られている箇所には  下線を引かずに書き出してみます。

 

〈一致した表現1〉

8:5-雷鳴、声、稲妻、地震

11:15,19-声、稲妻、雷鳴、地震、大粒の雹

16:1,18-21-声、稲妻、雷鳴、地震、大きな雹

 

〈一致した表現2〉

6:12,14-「太陽は毛織りの荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」「天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。」

16:20「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」

20:11「地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」

21:1「以前の天と地は過ぎ去り、もはや海もない。」

 

〈一致した表現3〉

4:8,10-四つの生き物と24人の長老たちの礼拝

5:11-12,13,14-多くの御使いたちの賛美、すべての造られたものの賛美、四つの生き物と24人の長老たちの礼拝

7:9,11-白い衣を着た諸国民の賛美、御使いたちの賛美

11:15,16天の大声の賛美、24人の長老たちの礼拝

19:4,6-24人の長老たちと四つの生き物の礼拝、天の大群衆の賛美

 

〈一致した表現4〉

9:2-3-底知れぬ所から出てきたいなご(破壊者を王としている者たち9:11)

11:7-底知れぬ所から上ってくる獣

13:1-海から上ってくる一頭の獣

20:3,7-底知れぬ所(=その牢)から解き放たれるサタン

 

〈一致した表現5〉

14:8-大バビロンが倒れた

16:19-諸国の民の町々=大バビロンは倒れた

18:2-大バビロンは倒れた

 

以上5つの例を見ても、下線部が時系列であると見るならば、何度も同じようなことが起こっているということになってしまいます

 

では、黙示録の構造をどのように見るべきなのでしょうか。

聖書はヘブル的文化の中で書かれたことを踏まえれば、他の書にも見られるヘブル的再記述法だと見るのが自然であると思われます。

HTMのメッセージアウトラインに、再記述法についての説明が記載されています。

.再記述の法則とは

(1)ひとつの長い記述を終えると、再びその記述に戻り、情報を追加する。

①ある部分を取り上げ、そこに詳細な説明を加える。

②その部分は、聖書記者(聖霊)が重要だと判断している箇所である。

(2)二度目の記述は、最初の記述の要約であったり、解説であったりする。...

 

黙示録は「また私は、~見た。」という書き出しで場面が次々と変わり、ある箇所では鳥瞰図的に、同じ出来事をある箇所では地上的視点で詳細に、ヨハネが御霊によって見せられる幻という形態で書かれていると考えられます。

これが再記述の一つの形態であると理解するのが、同じ記述が何度も繰り返される理由の説明として、矛盾のない黙示録の構造の捉え方ではないでしょうか。

再記述のタイミングを、他の聖句と照らし合わせて時系列に並べたものがこちらになります。↓

vitaminp81.hatenablog.com

 

 

【花嫁誕生のタイミングの問題】

次に黙示録19:1–10の位置付け、つまり子羊の婚宴のタイミングで花嫁が輝くきよい亜麻布をまとい、用意ができたと宣言されている問題について考える必要があります。

患難前携挙説によれば、大患難期の前に教会は第三の天に挙げられ、患難の間結婚式を挙げていると考えられています。

黙示録を『挿入句と時系列の預言による構成』であると捉えたとしても、19章1節~は大患難時代の最後、クライマックスである再臨の出来事として捉えられている箇所です。そのタイミングで、花嫁は用意ができたと宣言されているのです。

設問の内の聖句が長いので、一部をここに引用します。

「また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。

  『ハレルヤ。私たちの神である主、

  全能者が王となられた。

  私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

  子羊の婚礼の時が来て、

  花嫁は用意ができたのだから。

  花嫁は、輝くきよい亜麻布を

  まとうことが許された

  その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』

 御使いは私に、『子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい』と言い、また『これらは神の真実なことばである』と言った。」(黙示録19:6-9)

 

患難期前携挙説においては「子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができた」「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。」と宣言されるタイミングが、患難中天で行われる結婚式の後、かつ婚宴である千年王国の前ということになります。

後で詳しく見ますが、黙示録では艱難期の殉教者が、この「亜麻布」をまとうシーンが書かれています。

教会時代と大患難期それぞれに別々の花嫁が誕生するのでしょうか?だとすると、教会時代の花嫁は大患難期の花嫁を待たずして患難中先に結婚式を挙げていることになります。

 

患難期前携挙説では、黙示録の十四万四千人は患難期を通り抜けるユダヤ人であると解釈しますが、黙示録14:4では紛れもなく彼らのことを「童貞(παρθένον=a virgin)、つまり夫であるキリストに捧げられる初穂だと言っているのです。

この人たち(十四万四千人)は、女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞(παρθένον=a virgin)である。彼らは、子羊が行く所、どこにでもついて行く。彼らは、神と子羊に献げられる初穂として人々の中から贖い出されたのである。」(黙示録14:4)

 この箇所で「童貞」と訳された「παρθένον=a virgin」が使われているⅡコリント11:2では、「処女(παρθένον=a virgin)として夫であるキリストに捧げられるのは、私たち信者であると語っています。

「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女(παρθένον=a virgin)として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」(Ⅱコリント11:2)

この二つの「παρθένον=a virgin」としてキリストに捧げられる人物は同じであると私は受け止めます。もし同じではなく、あくまで教会時代と患難期それぞれに誕生する別々の捧げものだと仮定するなら、字義通りのイスラエルと区別している教会が花嫁であるという仮定も崩れることになります(十四万四千人のユダヤ人もvirginとしてキリストに捧げられる、すなわち花嫁であるため)。キリストと結び合わされて一つのからだにされるという預言との調和も崩してしまいます

「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、…」(エペソ3:6)

キリストと一つになるのは、婚宴のに招かれることによってではなく結婚によるとあります。

 「『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私はキリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ5:31,32)

 

 

ではさらに「輝くきよい亜麻布」について見てみます。

「その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙示録19:8)

→聖徒たちの正しい行いとは、イエスキリストを主と認めて従いその義をまとわせていただくことであるのは、他の多くの箇所から明らかです。「一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」(ローマ5:18)

 

「天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。」(黙示録19:14)→きよい亜麻布とは、白いことがわかります。

 

「すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」(黙示録6:11)

→患難期を通過して殉教した信者に、白い衣が与えられています。

 

「すると、長老の一人が私に話しかけて、『この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか』と言った。

そこで私が『私の主よ、あなたこそご存じです』と言うと、長老は私に言った。『この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」(黙示録7:13,14)

→白い衣は、子羊(イエスキリスト)の血によって白くされました。

 

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」(黙示録3:5)

→白い衣を着せられる人とは、死の支配に勝利した者、義と認められて救いを得た者のことです。

「あなたの祭司たちが義をまとい、あなたにある敬虔な者たちが喜び歌いますように。」(詩篇132:9)

「その祭司たちに救いをまとわせる。その敬虔な者たちは高らかに喜び歌う。」(詩篇132:16)

 

「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

→十字架の購いを信じ受け入れた私たちは、イエスキリストの血潮により緋のように赤く染まった罪も白くされます。同じように患難を通過し殉教した信者も、十字架の贖いにより白く輝くきよい亜麻布をまとうと、複数の箇所が語っています。

 

いのちに定められているすべての人がこの衣をまとったときに、「花嫁は用意ができた」と宣言され、子羊の婚礼を迎えるのではないかと私は受け止めています。

 

 

【子羊の婚礼とは結婚式のことではなく婚宴を指していると区別可能か】

この「子羊の婚礼の時」「γάμος  τοῦ  Ἀρνίου =marriage of the Lamb」は婚宴であって結婚式ではないと、区別可能なのでしょうか。

"wedding feast”のように、食事を示す”feast”を加えて訳されている箇所と、"marriage ""wedding"単体に訳されている箇所はどちらも原語は同じ(γάμος)なのです。

同じ原語が文脈から判断され訳されています。

 

つまり、結婚式と婚宴を原語上は区別していないということです。食事がもてなされる婚宴のことを強調して「δεῖπνον(supper)」「γάμος」に付加している黙示録19:9などは、確実に食事が振る舞われる披露宴の事を指しているでしょう。

婚宴の食事が強調される理由は、これこそイザヤ25:6-8マタイ8:11の成就だからです。「δεῖπνον τοῦ γάμου τοῦ ἀρνίου(supper of the marriage of the Lamb)」(黙示録19:9)

このように旧約の預言のみならず、イエスが示した神の民の希望のピークは、結婚式ではなく婚宴(宴会)を含む結婚なのです新約で明らかにされた奥義は、民族として選ばれたイスラエルだけでなく、異邦人も共にこの食卓に招かれるということです。イエス『携挙による天での結婚式の希望』を指し示されたことは一度もないのです。

 

HTMは患難前携挙の根拠をユダヤ式結婚の中に見いだそうとするあまりに、婚宴が結婚式とは別であるはずだと、聖書からではなく文化から聖書解釈の前提として読み込み過ぎてしまっているように感じます。「γάμος」が結婚の婚宴(披露宴)だけを指していると判断する事は実は不可能であり、聖書の原語の使われ方を見て判断する限り、二人が結び合わされる事全体を「γάμος」と広く表しているに過ぎません。

結婚(γάμος)がすべての人の間で尊ばれ、...」(ヘブル13:4)



【結論】

よって結論は、

・黙示録に出てくる『一致した出来事の記述』は『同じ出来事』を指している再記述の構造であると捉えるなら、時系列構造と見た時に患難期に何度も同じ事が起こるという矛盾の問題は無くなります。

 

 

・花嫁が亜麻布をまとい、用意ができたと宣言する黙示録19:1–10の位置付けは再臨のタイミングであり、もし再臨の前に天で子羊と教会の結婚式が挙げられると仮定するならば、花嫁の準備が整う前に結婚式を挙げていたことになる。あるいは、二種類の花嫁(教会時代の花嫁と患難期の花嫁)が誕生することになり、キリストにあって一つとされるという聖書預言と矛盾してしまいます。

 

・「子羊の婚礼の時が来た」との宣言は、結婚の式と宴会を含む結婚全体を指しており、「子羊の婚礼」が結婚式を含まない結婚の披露宴だけを指している言葉であると判断することは、他の複数の箇所における同原語の用いられ方からして不可能です。

  

となります。

 

 聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

また本ブログは、解釈の違いを訴えて分裂することを目的としているのではなく、唯一真理の解釈を訴えて既存の教会に分裂と破壊をもたらしている組織に対して、その分裂を修復することを目的としています。

栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題(4-1後半)

※シリーズの第16回目の後半になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 その他の諸問題

4-1(後半)栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題:これが

(1)イザヤ書65:20や

(2)黙示録20:7–10の釈義から導き出せるのかどうか、考える必要がある。

 前半記事はこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

本記事では(2)を扱います。

 

さっそく、ディスペンセーション主義で『再臨後の千年王国』の後の描写であると受け止められている黙示録20:7-10を見てみます。

「しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、

地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。

彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。」(黙示録20:7-10)

 原語と照らし合わせ、この箇所が再臨後の千年王国であると見るならば、気になったのは以下の二点です。

 

①悪魔が縛られて解き放たれるまでの千年間に、悪魔に惑わされてしまう諸国の民ἔθνη(nations)」(20:8)、つまりゴグマゴグ(神への敵対者たち)が地上に海の砂の数ほど存在するようになること。しかもここで諸国の民と訳されている原語は、他の多くの箇所で異邦人「Gentiles」とも訳されている言葉。

 

②惑わされるnationsとは区別される聖徒たちἁγίων(saints)も存在すること。

 

つまり、罪人・神に敵対する国々の民が地上に満ちあふれています。

キリストに贖われた人々は一つの国民とされるはずではないのでしょうか?

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(第一ペテロ2:9)

 

この 黙示録20~が、『再臨後におこる地上の千年王国とその後』の描写であると位置づけておられるハーベストタイムでは、惑わされる罪人が千年王国に存在するようになる理由は、肉体を持ったまま千年王国に入る者がいて、肉体の罪の性質が残っているからだと説明されています。

なんとももっともらしい説明なので、当時は、へ~!と思いつつも少し違和感を感じてもいました。

 しかし『千年王国が再臨後地上に起こる、肉体をもった者も入る国』という前提が、他の聖句と比較してどうなのか?を問い直さなければなりません。

 

前半でも確認したとおり、『死』はキリストにある死者がよみがえる時に完全に滅ぼされると書かれています。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。…そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15:54-55)

「そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」(Ⅰテサロニケ4:16,17)

 

死のみならず、天地も再臨の時に消え去ると、多くの御言葉が語っています。

 「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10)(主の日=盗人のように来る日・再臨の日・終わりの日)

※「主の日」についてはこちら↓

旧約聖書における「主の日」とは(2-3) - Misao’s bible diary

「主の日」と患難期の関係(2-4) - Misao’s bible diary

 「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。…天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:30,35)(マルコ13:24-25,31)(ルカ21:29-30,33)

「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。」(イザヤ34:4)

主の日、つまり再臨の日に天地は消え去り、キリストにある死者の復活によって死が完全に滅ぼされるのです。キリストの死者の復活の後に、患難時代を入れ込む余地はありません。なぜなら患難時代には殉教のがあるからです。さらには、再臨と新天新地の間に、「死」の存在する「地上の」千年王国を挿入する余地を見つけることもできないのです。

※キリストにある死者についての過去記事はこちら↓(『キリストにある死者』が、『新約時代に亡くなった信者』のみを指し、旧約時代に亡くなった信者は艱難期後~千年王国が始まるまでのどこかの地点で復活するという解釈について検証)刈り取り - Misao’s bible diary

 

黙示録19:19-20で獣たちが火の池に投げ入れられた後に、黙示録20で悪魔が鎖に繋がれたと読めない理由はもう一つあります。

それはちょうど創世記で出てくる『トルドット』(○○のその後の展開)のような記述法と考えられるからです。トルドットの例としては、創世記6:9,10「これはノアの歴史である…ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤフェテを生んだ」です。この前の章5:32で「ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ」と既に書いてありますが、同じ出来事をノアについての展開6:9~で詳しく再記述しています。同じように、黙示録20章からは悪魔の『トルドット』について記述してあると読めます。これは聖書の他の箇所にもよく見られるへブル的記述法です。

となると、「彼ら(悪魔に惑わされた多くのゴグマゴク)は地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。」(黙示録20:9)は、再臨後もう一度起こる事ではなく、すでに前の章19:20にて記述されている出来事を悪魔についての展開で再記述していると思われます。

 

黙示録20:1から底知れぬ所に悪魔が千年間繋がれますが、繋がれたタイミングについては他の記者がこのように書いています。

「神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄(タータラス)に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。」(Ⅱペテロ2:4)

「またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために。永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。」(ユダ6)

悪魔をはじめ罪を犯した御使い達を、鎖につないで閉じこめられたと過去形で記しています。ということは、千年間の縛りは未来に起こることではなく、過去に既になされた事であることを示唆しています。

罪を犯した御使い達が裁きの日までつながれたのは、以下の箇所から子羊が彼らに打ち勝った時、つまり十字架の死と復活の時であると推測されます。

今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されますわたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(ヨハネ12:31,32)

「彼ら(獣に権威を委ねた王たち)は子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。」(黙示録17:14)

子羊が彼らに打ち勝つことが、イエスの十字架と復活のことだということが、神の右の座につかれたという以下の二つの御言葉から判断できます。

「勝利を得るものを、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示録3:21)

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、…」(ローマ8:34)

子羊が打ち勝った相手は『罪を犯した御使い達』とではなく『獣とともに一時だけ権威を受けた王たち』(黙示録17:14)と表現されていますが、彼らが縄目から解かれる時にその正体がわかります。

この穴の鍵が解かれる描写は黙示録9:1~で、中から出てきたのは「いなご」ですが、これが文字通り昆虫のいなごでないことは黙示録9:7-11からわかります。

「いなごたちの姿は、出陣の用意が整った馬に似ていた。頭には金の冠のようなものをかぶり、顔は人間の顔のようであった。...いなごたちは、底知れぬ所の使いを王としている。その名はヘブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオンという」(黙示録9:7-11)

アバドンとアポリュオンは聖書注釈には「破壊者」と記されています。これは悪魔の多くの呼び名の一つと思われます。(※悪魔の他の呼び名の例:試みる者(マタイ4:3)、誘惑者(Ⅰテサ3:5)、悪い者(Ⅰヨハネ5:19)、この世を支配する者ヨハネ12:31)、この世の神(Ⅱコリント4:4))

つまりいなごとは、悪魔を王としている者たち=悪霊たち=罪を犯した御使い達を現していると考えられます。

破壊者である悪魔を「底知れぬ所の使い」(黙示録9:11)と表現しており、悪魔も底知れ所(穴)にいることが暗示されています。

 ※黙示録の読み方が時間順ではないことについてはこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

千年間の縛りがイエスの十字架と復活によるとするならば、そこから二千年以上たっているため、千年王国とは文字通りの千年ではないと予想できます。私は個人的に『無限ではなく有限であるけれども、人間の感性でいえば非常に長い期間であることを現す数字』と受け止めています。

となると、千年王国とはいつのこと?!ということになりますが、その鍵となる御言葉を、実はイエスご自身も語っていました。

「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。『神の国は、目に見える形で来るものではありません。

「見よ、ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。』」(ルカ17:20-21)

 「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

エスキリストが地上に来られ、人々の間に住まわれ、昇天後神の右の王座に着いて聖霊を下し使徒2:30-33)、臨在の主・聖霊によって私たちを全く新しく作り変えてくださいました。それは地上にあっても、キリストにある私たちが、神の国の国民であるということではないでしょうか。そのことについて、ダニエルがはっきりと預言しています。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます。」(ダニエル2:44)

これを発見した時、鳥肌が立ちました。神は王たちの時代に一つの国を起こし、再臨によって他の国々は滅ぼされてもこの国だけは永遠に続くというのです。「主は地のすべてを治める王となられる。その日(主の日)には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」(ゼカリヤ14:9)

私たちは未来のメシア的王国を待たずして、神の国は既に私たちのただ中にあるということ、今エスは神の右の王座に座っておられ、私は既にその王国の国民であるということを思いました。

エスは人々が神の国がすぐに現れると思っていた」(ルカ19:11-13)ため、神の国について教える例えを多く語りましたが、それらの中に、地上を理想的な状態に整えたら主人(王、花婿)が帰って来た、という内容のものは一つもありません。むしろ与えられた賜物の用い方は様々で、良かろうが悪かろうが主人は帰って来てそれぞれに報いる、というパターンです。待っている人にとって、待っている間中も、到着する人物は主人であり、彼らはその支配下にある(しもべ、国民、花嫁である)のです。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)

 

 

今の私の結論は、

多くの御言葉が、再臨の時「死」と「天地」は完全に滅ぼされることを示唆しており、千年王国が再臨後に地上に起こる肉体を持った者も入る国であると断定する事はできません。

イザヤ65:20はヘブル的対句法により新天新地をエルサレムと言い換えており、新天新地においては死が完全に滅ぼされることを述べていると考えられます。

黙示録20:7-10は悪魔についての展開を再記述する『トルドット』と見られ、再臨後の千年王国の後に起こる事についての記述ではなく、同じ出来事の再記述であると考えられます。

よって、栄光の身体を持っていない人々が千年王国に入るというのは、イザヤ65:20、黙示録20:7-10の釈義から導き出すことは不可能です。

となります。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

また、この解釈の違いによって分裂するべきではありません。イエス様の言葉を一人一人が神学的解釈なしに与えられたまま受け取ることが最も素晴らしいことだと思うからです。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)