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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題(4-1前半)

※シリーズの第16回目の前半になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 その他の諸問題

4-1(前半)栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題:これが

(1)イザヤ書65:20や

(2)黙示録20:7–10の釈義から導き出せるのかどうか、考える必要がある。

 

この議題はディスペンセーション主義に限らず、千年王国前再臨説をとる方も考える必要のある議題となっております。今回も2回に分けて本記事は(1)、次回に(2)を扱いたいと思います。



御言葉の本意を探る前に、まず設問の背景にあるディスペンセーション主義による前提を確認する必要があります。

神の契約には八つの契約があり、そのうち五つの無条件契約は人間の側の違反によって破棄される事はなく、現在も有効と考えられています。そのうちの一つがイスラエル民族と結んだ土地の契約であり、この契約の成就は、神の真実さにかかっているとのことです(※ハーベストタイムのメッセージや聖書塾の解釈による)。

つまり神が真実な方であるなら、与えると約束された土地を必ず地上でイスラエル民族に与えられるはずであると考えます。こう言うわけでユダヤ人は大患難時代を耐え抜き、肉体を持ったまま地上に立てられる千年王国に入り、約束が字義通り成就する必要があると考えるのです。

 

さて、設問にある千年王国とは『メシア的王国』とも呼ばれます。それはキリストが王として、ダビデの王座に永遠に座すと預言されている聖句から判断されています。

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。

  ひとりの男の子が私たちに与えられる。

  主権はその肩にあり、

  その名は「不思議な助言者、力ある神、

  永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、

  ダビデの王座に就いて、その王国を治め、

  さばきと正義によってこれを堅く立て、

  これを支える。今よりとこしえまで

  万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書 9:6,7)

 

「この方(人の子のような方)に、主権と栄誉と国が与えられ、

  諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、

  この方に仕えることになった。

  その主権は永遠の主権で、

  過ぎ去ることがなく、

  その国は滅びることがない。」(ダニエル7:14)

 

このメシア的王国について、千年間と記されている唯一の箇所が以下です。

「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」(黙示録20:4)


つまりメシア的王国とはキリストが王となって治める、とこしえに滅びることのない国のことです(※千年間という期間は、殉教した聖徒たちがキリストとともに王として治める期間を指していると私は受け止めています)。栄光の体を持っていない人々、すなわち朽ちる体は、朽ちない国を受け継ぐことは出来ないことは、次の箇所から判断できます。

「兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15:50)

 

新天新地には『死』が無いことは明らかです。

「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」(黙示録21:4)

 

ところが、『再臨後地上に立てられる千年王国』の描写であると受け止められている設問中の聖句には『死』が存在しているように書かれています。

「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、

  寿命を全うしない老人もいない。

  百歳で死ぬ者は若かったとされ、

  百歳にならないで死ぬ者は、

  のろわれた者とされる。」(イザヤ65:20)


確かに前後の文脈をみますと、新天新地の説明の中に突如、死についての記述が登場しているように思え、何とも不可解です。

この不可解さを解消するため、ここには朽ちないものだけではなく肉体を持った者も入るという点で、新天新地とは区別される千年王国の説明が挿入されているのだ、という考えについてどう思われるでしょうか。つまり再臨→千年王国→死を滅ぼす→新天新地という考えです。

しかし本当に、新天新地の説明の中に千年王国の説明(イザヤ65:20)が挿入されているのでしょうか?

 

次の御言葉によると、最後の敵である『死』を滅ぼされるのはキリストにある死者の復活の時であることがわかります。

「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』」(Ⅰコリント15:54)

 キリストにある死者の復活と携挙の日=再臨の日であると検証している過去記事はこちら→「主の日」「主イエス・キリストの日」「キリストの日」は同じ日?(2-8) - Misao’s bible diary

エスは、最後の敵である死を滅ぼす=すべての敵を足台とするまでは王として治めると書いてあります。

すべての敵をその足の下に置くまでキリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。」(Ⅰコリント15:26)

 

『主は、すべての敵を足台とするまでは神の右の座についている』という詩篇110:1のメシア預言を、イエスご自身も語っています。

「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」(マタイ22:44)

 

エス様が神の右の座に着くのは十字架の死と復活の後であることは、以下の箇所から判断出来ます。

「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(ヘブル1:3b)

「キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き

あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。」(ヘブル10:12,13)

 

つまり、エスキリストは十字架と復活の後、今まさに神の右の座について王となられ、再臨によって死に完全に勝利する時を待っておられるということにならないでしょうか。

 

神の右の座、つまりその王座から立ち上がられ、地上に来られるのはこの時です。

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。」(Ⅰコリント15:24)

 

イザヤ65:20が、挿入された『再臨の後に地上に立てられる千年王国』の描写であり、栄光の身体をもたない人々がその国に入る根拠だとするならば生じてしまう、

――再臨の終わりの日に滅ぼされたはずの「死」が再び登場するという矛盾――

これに、皆様ならどう立ち向かわれるでしょうか?

そこで、御言葉が一体何を伝えようとしているのか、その本意を調べ明らかにすることが重要になってくるわけですが、如何せん私は神学校を出たことのない『ひら信徒』で、『釈義って何?』状態です。なので以下の本意を探る作業を、お手柔らかに見守る、あるいは足りない要素をご教授頂けるとありがたいです。

ではイザヤ65:20の御言葉の本来の意味について確かめていきたいと思います。

 「そこ」(65:20)とは、直前のエルサレム」(65:19)を指しています。このエルサレムは前節で見よ。わたしはエルサレム創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(65:18)とあり、そのまた前節には見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する。…だから、私が創造するものを。いついつまでも楽しみ喜べ。」(65:17-18)とあります。ここから、『わたしは新しい天と新しい地、すなわちエルサレムを創造し、これを喜び、その民とともに楽しむ。』ということを二度言い変えているへブル的対句法と捉えることができます。同じことを異なる表現を用いて繰り返し語る手法

となると、そことはエルサレムと言い換えられた新しい天と新しい地を指しており、千年王国についての説明が挿入されているのではないと考えられないでしょうか。

 

וְזָקֵ֔ן   nor an old man 老人

יָמִים֙  [but a few] days 日

ע֤וּל an infant  子ども

ע֗וֹד  more まだ、継続し

מִשָּׁ֜ם from there  そこへ

יִֽהְיֶ֨ה shall [live]  落ちる、通り過ぎる、~となる、生きる

לֹא־ No いな

בֶּן־ old 息子

הַנַּ֗עַר the child 子ども、若者、青年、家来

כִּ֣י for それは、のために、いつ

יָמָ֑יו his days 日

אֶת־ -

יְמַלֵּ֖א has fulfilled いっぱいになる、埋めるために

לֹֽא־ not 無い

אֲשֶׁ֥ר who  (それは)

שָׁנָ֖ה years  年

מֵאָ֥ה a hundred 百

בֶּן־ [being] old 息子、子ども

וְהַ֣חוֹטֶ֔א but the sinner 見逃す、間違って行く、罪

יָמ֔וּת shall die 死ぬために

שָׁנָה֙ years 年

מֵאָ֤ה a hundred 百

יְקֻלָּֽל׃ shall be accursed 呪われる、軽蔑される

これを原語に近い形で私訳してみますと、

『老人や、数日しか生きない子供はそこにはいなくなる。寿命を全うしない息子や子供はいない。百年生きるものも子ども(若い)、罪人は呪われているので百年で死ぬ。』

 ....。💦

 

この一箇所以外の多くの御言葉が、再臨の時に『死』が完全に滅ぼされると示唆していることを見てきました。

そこで言えるのは、このたった一箇所の御言葉だけをもって、再臨の後に『死』の存在する千年王国が立てられると断定することは不可能ということです。

よって私個人としては、イザヤ65:20『罪の結果である死』というこの世の悲しみの極みの例を挙げて、そのような場合に味わってきた悲しみが、新天新地では一切なくなることを言っているように受け止めています。これをわかりやすく落とし込むとこんな感じの私訳になります。

『(前半同じ)地上で百年生きたものでさえ、永遠に生きられる新天新地においてはそれは子供のようなもの。死のない新天新地とは違って、地上では百歳まで生きられたとしても罪の呪いのもとにあるのでいずれ死ぬ。』※あくまで個人的私訳です!

 

 

訳の比較もしてみます。 

New American Standard Bible
"No longer will there be in it an infant [who lives but a few] days, Or an old man who does not live out his days; For the youth will die at the age of one hundred And the one who does not reach the age of one hundred Will be [thought] accursed.

King James Bible
There shall be no more thence an infant of days, nor an old man that hath not filled his days: for the child shall die an hundred years old; but the sinner [being] an hundred years old shall be accursed. 

『;For』でつながれた後半は、『例えばこんな風に』という内容補足的な感じにも思えます。

 

では次回は黙示録20:7-10について詳しく見ていきたいと思います。結論を言わないままモヤモヤしますが、

次回に続く…。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)