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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

花嫁が亜麻布をまとって用意ができたと宣言されるのが、再臨のタイミングであるという問題(4-2)

※シリーズの第17回目、いよいよ最終回になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 その他の諸問題

4-2子羊の婚宴のタイミングについての問題:黙示録の構造という問題の中で、黙示録19:1–10の位置付けを考える必要がある。

 このシリーズもとうとうこれで最終回となりました。

一時は「まだ設問がこんなにある💦」と思っていましたが、たっぷりと聖書と向き合う大変幸せな時間を過ごすことができ感謝でした。

この設問も、本当に鋭いです。

 

【黙示録の構造の問題】

設問に『黙示録の構造という問題の中で』とあるように、黙示録の構造について再確認したいと思います。

私はハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)でしか患難前携挙説のディスペンセーション神学を学んでいないため、HTMにおける理解についてご紹介します。

HTMでは、『黙示録は、旧約聖書の様々な預言を時間順に並べたものである』と解釈しています。時間順としては整理できない7章、10章~14章(11:15-19を省く)、17章、18章は挿入句として扱っています。

それらの挿入句を省く6章から20章3節までを、再臨をクライマックスとした七年間の大艱難時代の時系列の描写とし、20章4~6をメシア的王国、20章7~15節をその後の出来事、21章1~22章5節を永遠の御国の描写としています。

このような考え方は非常に分かりやすく、黙示録をとっつきやすいものにしてくれると感じます。

しかしそのように黙示録を挿入句と時系列として捉えた時、説明できない矛盾の問題を抱えてしまうのが現状です。

 

では、その問題を抱えてしまう部分を見ていきたいと思います。

黙示録を読んでいると、同じ表現が何度も出てくることに気付きます。これは同じ事が何度も起こるからなのでしょうか。

以下、HTMで挿入句と見られている箇所には  下線を引かずに書き出してみます。

 

〈一致した表現1〉

8:5-雷鳴、声、稲妻、地震

11:15,19-声、稲妻、雷鳴、地震、大粒の雹

16:1,18-21-声、稲妻、雷鳴、地震、大きな雹

 

〈一致した表現2〉

6:12,14-「太陽は毛織りの荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」「天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。」

16:20「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」

20:11「地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」

21:1「以前の天と地は過ぎ去り、もはや海もない。」

 

〈一致した表現3〉

4:8,10-四つの生き物と24人の長老たちの礼拝

5:11-12,13,14-多くの御使いたちの賛美、すべての造られたものの賛美、四つの生き物と24人の長老たちの礼拝

7:9,11-白い衣を着た諸国民の賛美、御使いたちの賛美

11:15,16天の大声の賛美、24人の長老たちの礼拝

19:4,6-24人の長老たちと四つの生き物の礼拝、天の大群衆の賛美

 

〈一致した表現4〉

9:2-3-底知れぬ所から出てきたいなご(破壊者を王としている者たち9:11)

11:7-底知れぬ所から上ってくる獣

13:1-海から上ってくる一頭の獣

20:3,7-底知れぬ所(=その牢)から解き放たれるサタン

 

〈一致した表現5〉

14:8-大バビロンが倒れた

16:19-諸国の民の町々=大バビロンは倒れた

18:2-大バビロンは倒れた

 

以上5つの例を見ても、下線部が時系列であると見るならば、何度も同じようなことが起こっているということになってしまいます

 

では、黙示録の構造をどのように見るべきなのでしょうか。

聖書はヘブル的文化の中で書かれたことを踏まえれば、他の書にも見られるヘブル的再記述法だと見るのが自然であると思われます。

HTMのメッセージアウトラインに、再記述法についての説明が記載されています。

.再記述の法則とは

(1)ひとつの長い記述を終えると、再びその記述に戻り、情報を追加する。

①ある部分を取り上げ、そこに詳細な説明を加える。

②その部分は、聖書記者(聖霊)が重要だと判断している箇所である。

(2)二度目の記述は、最初の記述の要約であったり、解説であったりする。...

 

黙示録は「また私は、~見た。」という書き出しで場面が次々と変わり、ある箇所では鳥瞰図的に、同じ出来事をある箇所では地上的視点で詳細に、ヨハネが御霊によって見せられる幻という形態で書かれていると考えられます。

これが再記述の一つの形態であると理解するのが、同じ記述が何度も繰り返される理由の説明として、矛盾のない黙示録の構造の捉え方ではないでしょうか。

再記述のタイミングを、他の聖句と照らし合わせて時系列に並べたものがこちらになります。↓

vitaminp81.hatenablog.com

 

 

【花嫁誕生のタイミングの問題】

次に黙示録19:1–10の位置付け、つまり子羊の婚宴のタイミングで花嫁が輝くきよい亜麻布をまとい、用意ができたと宣言されている問題について考える必要があります。

患難前携挙説によれば、大患難期の前に教会は第三の天に挙げられ、患難の間結婚式を挙げていると考えられています。

黙示録を『挿入句と時系列の預言による構成』であると捉えたとしても、19章1節~は大患難時代の最後、クライマックスである再臨の出来事として捉えられている箇所です。そのタイミングで、花嫁は用意ができたと宣言されているのです。

設問の内の聖句が長いので、一部をここに引用します。

「また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。

  『ハレルヤ。私たちの神である主、

  全能者が王となられた。

  私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

  子羊の婚礼の時が来て、

  花嫁は用意ができたのだから。

  花嫁は、輝くきよい亜麻布を

  まとうことが許された

  その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』

 御使いは私に、『子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい』と言い、また『これらは神の真実なことばである』と言った。」(黙示録19:6-9)

 

患難期前携挙説においては「子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができた」「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。」と宣言されるタイミングが、患難中天で行われる結婚式の後、かつ婚宴である千年王国の前ということになります。

後で詳しく見ますが、黙示録では艱難期の殉教者が、この「亜麻布」をまとうシーンが書かれています。

教会時代と大患難期それぞれに別々の花嫁が誕生するのでしょうか?だとすると、教会時代の花嫁は大患難期の花嫁を待たずして患難中先に結婚式を挙げていることになります。

 

患難期前携挙説では、黙示録の十四万四千人は患難期を通り抜けるユダヤ人であると解釈しますが、黙示録14:4では紛れもなく彼らのことを「童貞(παρθένον=a virgin)、つまり夫であるキリストに捧げられる初穂だと言っているのです。

この人たち(十四万四千人)は、女に触れて汚れたことがない者たちで、童貞(παρθένον=a virgin)である。彼らは、子羊が行く所、どこにでもついて行く。彼らは、神と子羊に献げられる初穂として人々の中から贖い出されたのである。」(黙示録14:4)

 この箇所で「童貞」と訳された「παρθένον=a virgin」が使われているⅡコリント11:2では、「処女(παρθένον=a virgin)として夫であるキリストに捧げられるのは、私たち信者であると語っています。

「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女(παρθένον=a virgin)として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」(Ⅱコリント11:2)

この二つの「παρθένον=a virgin」としてキリストに捧げられる人物は同じであると私は受け止めます。もし同じではなく、あくまで教会時代と患難期それぞれに誕生する別々の捧げものだと仮定するなら、字義通りのイスラエルと区別している教会が花嫁であるという仮定も崩れることになります(十四万四千人のユダヤ人もvirginとしてキリストに捧げられる、すなわち花嫁であるため)。キリストと結び合わされて一つのからだにされるという預言との調和も崩してしまいます

「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、…」(エペソ3:6)

キリストと一つになるのは、婚宴のに招かれることによってではなく結婚によるとあります。

 「『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私はキリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ5:31,32)

 

 

ではさらに「輝くきよい亜麻布」について見てみます。

「その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙示録19:8)

→聖徒たちの正しい行いとは、イエスキリストを主と認めて従いその義をまとわせていただくことであるのは、他の多くの箇所から明らかです。「一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」(ローマ5:18)

 

「天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。」(黙示録19:14)→きよい亜麻布とは、白いことがわかります。

 

「すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」(黙示録6:11)

→患難期を通過して殉教した信者に、白い衣が与えられています。

 

「すると、長老の一人が私に話しかけて、『この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか』と言った。

そこで私が『私の主よ、あなたこそご存じです』と言うと、長老は私に言った。『この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」(黙示録7:13,14)

→白い衣は、子羊(イエスキリスト)の血によって白くされました。

 

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」(黙示録3:5)

→白い衣を着せられる人とは、死の支配に勝利した者、義と認められて救いを得た者のことです。

「あなたの祭司たちが義をまとい、あなたにある敬虔な者たちが喜び歌いますように。」(詩篇132:9)

「その祭司たちに救いをまとわせる。その敬虔な者たちは高らかに喜び歌う。」(詩篇132:16)

 

「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

→十字架の購いを信じ受け入れた私たちは、イエスキリストの血潮により緋のように赤く染まった罪も白くされます。同じように患難を通過し殉教した信者も、十字架の贖いにより白く輝くきよい亜麻布をまとうと、複数の箇所が語っています。

 

いのちに定められているすべての人がこの衣をまとったときに、「花嫁は用意ができた」と宣言され、子羊の婚礼を迎えるのではないかと私は受け止めています。

 

 

【子羊の婚礼とは結婚式のことではなく婚宴を指していると区別可能か】

この「子羊の婚礼の時」「γάμος  τοῦ  Ἀρνίου =marriage of the Lamb」は婚宴であって結婚式ではないと、区別可能なのでしょうか。

"wedding feast”のように、食事を示す”feast”を加えて訳されている箇所と、"marriage ""wedding"単体に訳されている箇所はどちらも原語は同じ(γάμος)なのです。

同じ原語が文脈から判断され訳されています。

 

つまり、結婚式と婚宴を原語上は区別していないということです。食事がもてなされる婚宴のことを強調して「δεῖπνον(supper)」「γάμος」に付加している黙示録19:9などは、確実に食事が振る舞われる披露宴の事を指しているでしょう。

婚宴の食事が強調される理由は、これこそイザヤ25:6-8マタイ8:11の成就だからです。「δεῖπνον τοῦ γάμου τοῦ ἀρνίου(supper of the marriage of the Lamb)」(黙示録19:9)

このように旧約の預言のみならず、イエスが示した神の民の希望のピークは、結婚式ではなく婚宴(宴会)を含む結婚なのです新約で明らかにされた奥義は、民族として選ばれたイスラエルだけでなく、異邦人も共にこの食卓に招かれるということです。イエス『携挙による天での結婚式の希望』を指し示されたことは一度もないのです。

 

HTMは患難前携挙の根拠をユダヤ式結婚の中に見いだそうとするあまりに、婚宴が結婚式とは別であるはずだと、聖書からではなく文化から聖書解釈の前提として読み込み過ぎてしまっているように感じます。「γάμος」が結婚の婚宴(披露宴)だけを指していると判断する事は実は不可能であり、聖書の原語の使われ方を見て判断する限り、二人が結び合わされる事全体を「γάμος」と広く表しているに過ぎません。

結婚(γάμος)がすべての人の間で尊ばれ、...」(ヘブル13:4)



【結論】

よって結論は、

・黙示録に出てくる『一致した出来事の記述』は『同じ出来事』を指している再記述の構造であると捉えるなら、時系列構造と見た時に患難期に何度も同じ事が起こるという矛盾の問題は無くなります。

 

 

・花嫁が亜麻布をまとい、用意ができたと宣言する黙示録19:1–10の位置付けは再臨のタイミングであり、もし再臨の前に天で子羊と教会の結婚式が挙げられると仮定するならば、花嫁の準備が整う前に結婚式を挙げていたことになる。あるいは、二種類の花嫁(教会時代の花嫁と患難期の花嫁)が誕生することになり、キリストにあって一つとされるという聖書預言と矛盾してしまいます。

 

・「子羊の婚礼の時が来た」との宣言は、結婚の式と宴会を含む結婚全体を指しており、「子羊の婚礼」が結婚式を含まない結婚の披露宴だけを指している言葉であると判断することは、他の複数の箇所における同原語の用いられ方からして不可能です。

  

となります。

 

 聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

また本ブログは、解釈の違いを訴えて分裂することを目的としているのではなく、唯一真理の解釈を訴えて既存の教会に分裂と破壊をもたらしている組織に対して、その分裂を修復することを目的としています。