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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

患難期の「聖徒」に対する聖霊の様々な約束は例外的か(3-2)

※シリーズの第14回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 

  課題3教会論に関わる問題

3-2

(1)患難期の聖徒と教会を区別して考えることはできるのか。

(2)患難期の聖徒を教会と区別しない場合、それは患難期前携挙説にどのような影響を及ぼすのか。

(3)患難期の聖徒を教会と区別する場合、信者に対する聖霊の働きについて、他の聖句と矛盾なしに説明することは可能なのか。

以上3つの問を順に考察していきます。

 

まずは(1)(2)について。

患難期前携挙説の立場では、黙示録4章以降に「教会」という文字が一切出てこないことも、患難期の前に教会(真の信者)が天に挙げられることの根拠の一つになっていると説明されています。

しかし「聖徒」という言葉は出てくるので、この問が投げかけられているわけです。

 

教会という言葉と、聖徒という言葉の使い分けについては、特定の地域や土地にある集会や家での信者の集いを指す場合、または秩序としての組織を指す場合は「教会」、それ以外はほとんど「聖徒」「聖徒たち」が使われているように思います。

それぞれの例を見てみたいと思います。

 

「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」(Ⅰコリント12:28)

信者はキリストのからだの一部であることを説明するために、「教会」という秩序の中でどのようであるべきかを語っています。



「しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。」(ローマ15:25)

パウロは、「教会」という組織に奉仕するのではなく、信者一人一人(つまりキリストのからだ)に仕える考えから、「聖徒たち」を使っていると思われます。これはとても大切な考えだと思います。冷静になって考えていただきたいのですが、このような考えは黙示録を含めどの書簡においても、神との関係が個人の問題である場合、「教会」ではなく「聖徒」が使われている感じます。それが、たまたま黙示録4章以降に「教会」が登場しない理由の可能性もあります。

 

このように、「聖徒」「教会」の使い方にそもそもの区別があります。

その為(1)は、患難期の「聖徒」「教会」の区別というより、『患難期の(黙示録4章以降に登場する)「聖徒」と黙示録以外の書簡で登場する「聖徒」を区別して考えることはできるのか』という問に置き換えなければならなくなると思われます。

確かに、詩編歴代誌ダニエル書エペソ書ローマ書コリント人への手紙テサロニケ人への手紙...その他諸々の箇所に登場するのと同じ「聖徒(旧לַחֲסִידָֽיו・ἁγίων/<旧新共に英訳は saints>)」という言葉が黙示録4章以降にも出てきます。

ではこの2つの「聖徒」に区別があるかと問われると、原語の上では何の区別も無いと言えます。

しかしこの「聖徒」という言葉は、『この世の人とは異なる人、信者、清い人』という意味で使われているので、患難期にも救われる人が起こされるという考えからいうと、黙示録4章以降に登場する「聖徒」がその他の書簡に登場する「聖徒」と区別不可能だということが、教会の患難期前携挙を否定する根拠にはならないと言えます。

また、「聖徒」という言葉が区別出来ないからといって、患難期後携挙説を肯定する事も出来ません



(1)の結論は、原語においては区別出来ないと考えられる。

(2)の結論は、区別しない場合でも患難期前携挙説に何の影響も与えない。

ということになります。

 

次に(3)について。

問では『患難期の聖徒を教会と区別する場合、...』とありますが、(1)(2)の結論を踏まえますと、患難期の「聖徒」と他の書簡の「聖徒」を、ある仮定をもって区別する場合...』と言い換えることにしても問題はないと思います。つまり、『他の書簡で登場する聖徒とは別に、患難期にも患難期の聖徒が誕生すると仮定するならば、信者に対する聖霊の働きについて、他の聖句と矛盾なしに説明することは可能か?』という問いになり得るかと思います。

 

患難期前携挙説においては、反キリストの登場を「引き止めているもの」が信者の内に宿る聖霊であるとします。その信者である教会が携挙されてしまうため、「引き止めている者」が地上から無くなり、反キリストが登場するといいます。

その根拠となっている聖句は以下です。

「不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。」(Ⅱテサロニケ2:6,7)

 

以上のことを前提にするなら、患難期には聖霊の働きは仮にペンテコステ以前の様な状態になるとしても、患難期の信者に聖霊が内住することはなくなるということになります。

 

では聖霊の働きについての聖句を確認してみます。

 

「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』」(使徒2:38,39)→この約束は、患難期に誕生した信者には無効ということになってしまいます。そのように限定的に捉えるための他の聖句はあるでしょうか。

 

「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:13)→患難期の信者は、いくら父に求めても聖霊は内に与えられないことになります。神様のご性質は、患難期においてだけ変わってしまうのでしょうか。神の永遠の普遍性に矛盾するように感じます。患難期は神の怒りの期間であり例外だとするなら、やはり神は信者を御怒りに遭わせることはないという約束とも矛盾します。患難期の信者だけ特別なの…?

 

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:11)→患難期の信者は殉教しても、これとは別の原則によって復活することになってしまいます(旧約時代の信者と同じ原則に戻るのなら、イエスの十字架と復活の希望は、患難期の信者にはないことになります)。

 

「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:13,14)

患難期の信者にはこの保証を内に頂いていないため、自分が本当に神の国を受け継ぐかどうか分からない不安の中を生きることになりますつまり希望が無い、そんなクリスチャンが殉教の死を遂げることが果たして可能でしょうか

聖霊が与えて下さる希望(ローマ15:13)によって弟子たちは殉教の死をも厭いませんでした。

 

「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。」(エレミヤ31:33,34a)

→この約束は聖霊の内住によって成就したと考えますが、もしそうなら、この契約の中に入れていただける恵みは最後の七年間だけは例外(恵みの時代は携挙で終わる)と書かれている箇所は恐らく見当たりません。

 

「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」(ローマ8:9)

→十字架と復活後、御霊の内住はクリスチャンであるための原則となっています。やはりキリストが患難期も共にいてくださらないなら、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)の約束とも反します。御霊の内住のないクリスチャンは、もはやキリストのものではないのではということになります。(じゃ、黙示録に登場する「聖徒」って誰や??とういうループに突入!)

 

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(ヨハネ7:39)

エスを信じる者は御霊を受ける。この原則が終わりの七年間だけ例外であるとする根拠は、ダニエル9:27「彼は一週の間多くの者と堅い契約を結び」「彼」を反キリストであるとし、七年間の患難期が来るというシナリオへの信仰のみです。

※このダニエル預言の第七十週について詳しく書いた過去記事はこちら↓ まだの方はぜひともクリックを…。

vitaminp81.hatenablog.com



もし、御言葉の約束通り患難期にも信者の聖霊内住はある、とするなら「引き止めているもの」が信者に内住する聖霊とは言えない、ということにならないでしょうか。(またもやループに突入!)



キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。」(ローマ8:10)

→身体の守りより、霊が生かされる事に焦点があたっているように思います。



(3)の結論は、

患難期の直前に「引き止めている者(信者に内住する聖霊=「教会」が取り除かれると仮定するなら、患難期に誕生する信者には聖霊の賜物が与えられるという約束、内住の御霊によって復活するという原則が当てはまらないことになり、矛盾してしまいます

聖霊による希望が与えられない信者に殉教の死を遂げる力があるのなら、ペンテコステまで怯えていた弟子たちの状態とは矛盾してしまいます

また、患難期においては信者に対する聖霊の内住の約束は例外的である(患難期の信者に対する聖霊の働きが、ペンテコステ以前のように限定的になる)と判断できる聖句を見出すことも困難です

となります。

 

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)