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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

ダニエルの七十週の預言(2-5)

※シリーズの第8回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というべいりあん (balien)のブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

  

課題2患難期に関わる問題 

2-5ダニエル書における「七十週の預言」(9:24–27)について

第七十週を将来の特定の時期として解釈することはできるのか;第六十九週と第七十週の間に時間的ギャップを認めることはできるのか。

第七十週全体を患難期あるいは「主の日」と同定することはできるのか。

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「あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。それは、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うためである」(ダニ9:24)とあります。これは、将来起こることが含まれているでしょうか?それとも、七十週まですべては過去に成就した事なのでしょうか?

もし、すべてがキリストによって成就したと言えるなら、第七十週も、過去のこととなります。

しかしもし、成就が一部未完成であるならば、六十九週までのことは過去にイエス・キリストによって成就し、第七十週の預言は未来に成就すると仮定することが可能になり、第六十九週と第七十週との間に時間的ギャップがあると想定することができるようになります。

その上で初めて、第七十週全体が、未来に起こる患難期、あるいは「主の日」と同定することができるか?が、議論され得ます。(※しかし、過去の問において患難期と主の日は同定できないことを検証してきました。よってここでは、第七十週全体が患難難期と同定することができるか?という問について考えることに限定させていただきます。)

 

あなたの民と聖なる都について七十週が定められているのは、

①背きをやめさせ

②罪を終わらせ

③咎の宥めを行い

④永遠の義をもたらし

⑤幻と預言を確証し

⑥至聖所に油注ぎを行う

ためであるとあります。

 

 それは例えば、ある料理が出来上がるには(1)〜(6)の手順を踏まなければならないため、1時間かかると書いてあるならば、1時間のうちに(1)〜(6)の手順をします。

決して(7)の手順は入らないのです。(7)の手順がその料理を一時間で仕上げるために必要なのであれば、1時間のうちに(1)〜(7)の手順を踏まなければならない、と書かなければなりません。

 

であるなら、どうでしょうか。

 

あなたの民と聖なる都について①〜⑥のために七十週定められている。それゆえ、悟りなさい。それを成そうとする油注がれた者が来るまでに(七週と六十二週で)六十九週。その六十九週のあとに油注がれた者は断たれ、一週の間に多くの者と堅い契約を結ぶとあります。この69と1を足して70にするならば、定められている70週のうちに、①〜⑥の説明に無い⑦を入れるべきなのでしょうか? 

 

すなわち⑦とは、患難期前携挙説の方が考える反キリストによるイスラエルとの契約です。

 

料理の例えに戻って言えば、出来上がって完成〜と喜んでいたら、あとがきの補足文で卵も入れますと書いてあった、みたいな感じになってしまいます。それ初めに書いといて〜!です。

油注がれた者によって、あなたの民と聖なる都を七十週で完成させた、荒らす者が自分こそ神であると宣言して神殿(人間の体)に座るが、やがて荒らす者は滅ぼされる、と読むとそんなお粗末な話にはならないと思うのです。(※参照Ⅱテサロニケ2:4 

あなたの民=永遠に贖われた神の民

聖なる都=天のエルサレム「あなたがたのために場所を用意しに行く」ヨハネ14:2

  

 

「それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。

その六十二週の後、油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。

彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半周の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。」(ダニエル9:25-27)

 

 

はまず、①〜⑥はキリストによって成就したことなのかを、御言葉を引照しながら一つずつ見ていきたいと思います。

 

上記の御言葉は新改訳2017からの引用ですが、口語訳、新共同訳とはかなり訳文が異なっているため、以下に併記してみます。

 

①背きをやめさせ

 とがを終らせ(口語訳)

 逆らいは終わり(新共同訳)

 

 神は、私たちすべての咎をイエス・キリストに負わせました。それゆえ、私たちは自分の咎を負う必要はなくなったのです。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)

 

②罪を終わらせ

 罪に終わりを告げ(口語訳)

 罪は封じられ(新共同訳)

 

 動物の犠牲は永遠に罪を贖うことはできず、罪を終わらせられませんでした。しかし、完全な犠牲であるイエス・キリストの十字架の血によって、永遠の罪の赦しが与えられました。イエスは公生涯の中で「あなたの罪は赦された」と、何度も権威を持って宣言されました。

「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24:47)

 

③咎の宥めを行い

 不義をあがない(口語訳)

 不義は償われる(新共同訳)

 

「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。」(ローマ3:25)

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

 

④永遠の義をもたらし

 永遠の義をもたらし(口語訳)

 とこしえの正義が到来し(新共同訳)

 

キリストの十字架の死と復活によって、永遠の義がもたらされました。

「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。」(ローマ3:21)

「すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ3:26)

 

見よ、その時代が来る。

  ──主のことば──

  そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。

  彼は王となって治め、栄えて、

  この地に公正と義を行う。

  彼の時代にユダは救われ、

  イスラエルは安らかに住む。

  『主は私たちの義』。

  それが、彼の呼ばれる名である。」(エレミヤ23:5,6)

 

⑤幻と預言を確証し

 幻と預言を封じ(口語訳)

 幻と預言は封じられ(新共同訳)

幻と預言は多くの預言者や正しい人たちに封じられるということが、実現したことをイエスは弟子たちに明かされました。

わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。

こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。

  『あなたがたは聞くには聞くが、

  決して悟ることはない。

  見るには見るが、決して知ることはない。

  この民の心は鈍くなり、

  耳は遠くなり、目は閉じているからである。

  彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、

  心で悟ることも、立ち返ることもないように。

  そして、わたしが癒やすこともないように。』

まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。」(マタイ13:13~17)

この封印された預言(巻物)の 封印を解くことができる方は、死に勝利したイエスであることも書かれている為(黙示録5:1~5)、確実にイエスの復活より以前に封印されたと言えると思います。

 

⑥至聖所に油注ぎを行う

 いと聖なる者に油を注ぐ(口語訳)

 最も聖なる者に油注がれる(新共同訳)

 

イエス・キリストが油注がれた大祭司となられ、ご自分の血によって永遠の贖いを成してくださいました。

「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:12)

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(へブル10:19)

以上のように、あなたの民と聖なる都について①〜⑥のために、七十週が定められていて、それはキリストによって成し遂げられたと、聖書の記者たちは語っています

第七十週だけは未来に成就すると考えるならば、新約の記者たちが何と言っているかをもう一度よく吟味しなければならないと思います。

 

 

 さて、続いてダニエル9:27「彼」とは誰なのでしょうか?

そもそも、「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び」とある、この「多くの者」をなぜイスラエルの民に限定、もしくはイスラエルの国も含まれると考え、イスラエル建国がこの成就ための一歩だと考えるのでしょうか?

 それは、「彼」「次に来る君主(反キリスト)」と考えるからです。

契約に続いて「半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。」「忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。」の両方の主語を反キリストと捉えることで、常供のささげ物を現在も行っているイスラエル国家と神殿が、預言成就の為に再建されるはずだと考えるのです。

いけにえとささげ物をやめさせることが、ダニエル11:31「常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据える。」と同じであると捉えるからです。しかし「やめさせる」「取り払う」はどうも違うようです

ダニエル9:27「やめさせる」「Cease」ダニエル11:31「取り払い」「take away」です。Ceaseは”終わる”とか”停止”という意味で、take awayは”取り除く”、”撤去する”、”奪い去る”という意味です。

原語を調べればもっと明白でしょう。

 

また、「彼」の直前を見てみると、「戦いの終わりまで荒廃が定められている。」とあります。現状を見ると戦いは終わっていないので、『戦いが終わる=完全な平和が来る=御国が来る=この世が終わる時』まで、破壊された都と聖所に繁栄が戻ることはない、と読めます。この「戦いの終わりまで荒廃が定められている。」までの文で一旦世の終わりまでの預言を記していると捉えると、27節の「彼」とは、直前の「次に来る君主」ではなく「油注がれた者」の生涯についてを改めて詳しく預言していると、読むことができます。

その油注がれた「彼」は一週のうちに多くの者と契約を結ぶことになるが、3年半の公生涯でご自身を完全ないけにえとしてささげられるため、もはや罪の為のいけにえは必要ないものとされる、と。

 

イザヤ66を読むと、神殿へのいけにえとささげ物を終わらせ、やめさせることが神の御心の業なのか、悪魔の思惑の業なのかがはっきりとわかります。イザヤ66:1,2とは、ステパノが殉教するときに引用した言葉です使徒7:49,50イザヤ66:3イザヤ1:11と同じ真理を語っています。

 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。―主は言われる―わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。」(イザヤ1:11)

 

 よって今の結論は

ダニエル預言の七十週は、イエス・キリストにおいてすべて成就したと言え、第六十九週と第七十週との間に時間的ギャップを認めにくく、第七十週を将来の特定の時期として解釈することは困難です。それゆえ、第七十週全体を患難期と同定することも困難と考えます。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)