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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

「主の日」と患難期の関係(2-4)

※シリーズの第7回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というべいりあん (balien)のブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 

課題2患難期に関わる問題

2-4「主の日」と患難期の関係;「主の日」と患難期を同定することはできるのか。

(←サイトへリンク)

 

 患難期前携挙説の方々にとって「主の日」と患難期が同定できることを証明することは、「主の日が盗人が夜やって来るように来る…しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ5:2~4)の御言葉を自説の裏付けにするために必要不可欠です。

なぜなら彼らは、空中再臨(携挙)の日は誰もわからないが、地上再臨は7年の患難期の後来るため、時期が特定できると区別しているからです。

「主の日は近い。それは全能者からの破壊としてやって来る。」(イザヤ13:6)

主の日はthe day(単数形)であるにもかかわらず、主の日を患難期=神からの破壊の期間として解釈することによって、患難期の前に携挙される信者を主の日が盗人のように襲わないと言えることになります。

しかしもし、主の日はただ一つの日で、主が来られる日そのものだけを指しているとしたら、地上再臨も盗人のように突然くることを認めなければならなくなります。

それゆえ、この質問は前説の根幹を揺るがす最も大切な質問となります。

 

しかし、2-22-3において主の日=御怒りの日であると御言葉が示唆している事を検証してきました。 

検証の結果「御怒りの日」=「主の日」であることが言えるので、この設問は2-2患難期において「患難」と「御怒り」を区別して考えることはできるのか。とほぼ同じで、結論も同じく↓

・「主の日」は一日(時:とき)で、患難期は一定期間であり、「主の日」は患難期の最後に訪れる。よって「主の日」と患難期を同定することはできない。

となります。

 

しかしちょっと話が複雑で頭が混乱しそうなので、最もカギとなる御言葉をここでもう一度…。

 

「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。」(ヨエル2:31)※新共同訳はヨエル3:4

はい。

主の日は、太陽や月が光を失ってから来ると書いてあるのです。主の日が患難期を指すとするなら、患難期の前に太陽や月が光を失うことになります。

この大切な御言葉を見逃してしまっては、御言葉を土台にして神学を立て上げているとは言い難いのではないでしょうか。

それとも、主の大いなる恐るべき日(the great and awesome day of the Lord ※敢えてNASBより引用)とは、主の日(the day of the Lord)と別であると解釈されるのでしょうか。

 

主の日=御怒りの日であること、

御怒りの日は患難期の出来事(太陽や月が光を失う)の後に訪れること、

主の日は患難期の出来事の後に訪れること、

主の日はすべての聖なる者たちとともに主が来られる日であること、

などを御言葉から検証した過去記事です。↓

2-2患難期において「患難」と「御怒り」を区別して考えることはできるのか。

vitaminp81.hatenablog.com

 

2-3旧新約聖書において「主の日 yom Yahwe」とはどのような性質を持っているのか。

vitaminp81.hatenablog.com

 

 

最後に、

前回の2-3では旧約聖書における「主の日」の箇所だけを参照してきましたが、今回は新約聖書における「主の日」を参照してみます。

 

「さて兄弟たち。私たちの主イエスキリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」(Ⅱテサロニケ2:1,2)

→「来臨」と、「私たちが集められること」の二つを「主の日」に集約しています。

 

「まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。不法の者はすべて神と呼ばれるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」(Ⅱテサロニケ2:3,4)

→滅びの子が現れてから主の日が来る。

 

「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『平和だ安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが望むように、突然の破滅が彼らを襲います。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ5:1~4)

「その時と時期」とは、直前の話題となっている「主ご自身が天から下って来られ」る時を指しています。「その時と時期」「主の日」と言い換えているため、主の日とはイエスが来られる日を指していると思われます。

この示唆は

「見よ、主の日が来る。…主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。…私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。」(ゼカリヤ14:1〜5)

の旧約の御言葉とも一致します。

盗人のように突然、イエスは主の日にすべての聖徒たちと共に下って来られます。

ここで注意すべき点は「妊婦に産みの苦しみが望むように」という言葉が、「産みの苦しみの初め」(マタイ24:8)という患難期の前もしくは初期に起こる事を指す言葉と同じであることから、主の日が患難期を指していると結論付けてしまいそうになることです。

注目すべきは、その直後に「突然の破滅が彼らを襲います」と言っていることです。「産みの苦しみ」は患難期であって、突然の破滅ではありません。「産みの苦しみが望むように」とは、『予想もしない時に』ということを表現するために用いられているのです。

 

Ⅰテサロニケ4:13~18は携挙の説明で、5:1~は地上再臨のことに話題が変わっていると読んだとしても、とにもかくにも「主の日」は盗人のように誰も予想できない時にやって来ると書いてあります。「主の日」は苦難の日々の後、ただちに太陽が光を失ってからくる(マタイ24:29,33)ので、患難期を指しているのではありません。主の日すなわち地上再臨が、いつなのか誰も知らない時に盗人のように訪れることを、どうしたら否定できるでしょうか。

 

「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10)

※黙示録3:3、16:15にも「わたしは盗人のように来る」

→主の日は盗人のようにやって来る。主の日に天地は消え去る。

 

「主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。」(Ⅰコリント1:8)

→主の日には責められる=さばきがある。

 

「それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリント5:5)

→主の日は救いの日。

 

「あなた方の間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」(ピリピ1:6,10)

「良い働き」とは直前の「福音を伝えること」と思われる。つまり主の日までに福音宣教が完成する。

 

 また患難期に何が起こるのかについては、マタイ24章でイエスが説明しています。「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり…」といった出来事を含む「これらのことをすべて見」ることが、「人の子が戸口まで近づいていることを知」るための印となることを教えています。

Ⅰテサロニケ5:1Ⅱテサロニケ2:1ゼカリヤ14:1〜5の御言葉通り、「主の日」がイエスが来られる日を指しているなら、マタイ24章から「主の日」と患難期の関係は、患難期に起こるすべての出来事が「主の日」の時を悟るために印となることが導き出せます。

新約聖書における主の日の性質をまとめてみると、

主の日とは

エスが来臨される日

私たちが主の身元に集められる日

患難期のすべての出来事の後に来る

盗人が夜やってくるように来る(その時を誰も知らないという意味)

破滅の日

天地が消え去る日

さばきがある

救いの日

福音宣教が完成してから来る

上記の御言葉からの検証も加えて、主の日と患難期を同定することはできないと思われます。

 

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

 

〈追記〉2021/1/13

「主の日」がただ一つの日を指していると同時に、一定の期間をも示していることについて。
頂いたコメントへの返信が埋もれないために記事内に追記します。
ヘブライ語の「日」は【yowm;ヨム】で、意味は【日、また時や期間、時代、昼など】であり、複数形にも単数形にもに訳せる原語です。ゼカリヤ14:1の「主の日」は70人訳において複数形に訳されているそうですが、奪われた戦利品が自分たちの間で分配されるという希望に満ちた出来事は、主の日以降の一定の期間で行われると思われます。私たちの地上的理解を踏まえて70人は複数形に訳したのではないかと思います。

主の日を境に昼も夜もなくなるというのですから、「一日」というカウントすら存在しなくなり、12進法も、一年も無くなります。患難期を含まず、主の日を起点としたそれ以降の期間をも主の日と表現していると考えます。なぜなら、主の日は患難期の末期に起こる天体が光を失う現象を見て近いことを悟れと言われていますし、主の来臨の時、御元に集められる日、破滅と回復の時でもあるからです。その主の日から、光が沈むことも、闇が覆うこともなくなるからです。ハレルヤ☆