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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

患難期と主の日が今にもすぐ訪れる可能性があるなら、どのように受け止めればいいか?(2-9)

※シリーズの第12回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

  

課題2患難期に関わる問題 

2-9患難期(あるいは「主の日」)に関する聖句において、この概念のimminency(今にも起こりそうな緊迫した状態)を認めることはできるのか。認められるとすれば、どのように受け止めればよいのか。

 

前回の記事では、

旧約聖書「主の日」と、新約聖書「主の日」「主イエス・キリストの日」「キリストの日」「キリスト・イエスの日」は全て同義語で、患難期を指しているのではなく、イエスの来臨の時、イエスがもう一度来られる時、すなわち地上再臨の日を指すということを検証しました。

前回記事👇

vitaminp81.hatenablog.com

よって

「わたしはすぐに来る」(黙示録3:11、22:7,20)と言われたイエスの言葉は「主の日」に成就するのであり、それゆえその前に来る患難期はもちろん、主の日にもimminencyを認めることができます。

「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。」(マタイ24:42)の通り、

いつ主が来られても良いようにしてこのことを受け止めれば良い、というのが結論になります

 

~おまけ~

「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。」(Ⅰテサロニケ5:3)の御言葉を、平和だ安全だと言えるのは患難期が始まる前のはずだから、この聖句は患難期を指していて、信者は患難期の前に携挙されるから患難期に合わない、と考えておられる方がいるかも知れません。

しかし、産みの苦しみ=陣痛とは、絶え間なく痛いものではありません。激しい痛みと痛みの間に、全く痛みから解放され、楽になる時があります。イエスは、世界戦争や飢饉と地震「産みの苦しみの始まり」(マタイ24:8)と表現されました。陣痛が起こると、もう生まれるまで陣痛から解放されることはありません。もし陣痛が完全になくなったら、赤ちゃんは普通無事ではありません。

ということは…

 

そうです。イエスの言葉通り、御国を生み出すための陣痛はもう始まっており、その痛みは間隔を空けて今尚起こっています。そして御国を生み出す最後の絶頂の苦痛の日こそ、主の日だと受け止めています。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)