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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

「神の民」という概念における「教会」には特異性が認められるか?(3-1)

※シリーズの第13回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 

  課題3教会論に関わる問題

救済史、あるいは「神の民」という概念における「教会」には特異性が認められるのか。認められるとすれば、それはどのような特異性なのか。

 

 

何度も言いますが私は神学者ではないので、この事は神学的立場からしっかりと表現できる方にお譲りする議題ではあります。

しかし、神学の被害(?)を受けて「神学の目」を通さずとも聖書は聖書が解き明かしてくれる!ということを実感するために始めたリハビリのようなもので、思想は乏しいかもしれませんが、共にお分かちできれば幸いです。

 

であるためすみません、救済史から論ずることは今の私には不可能なため、「神の民」「教会」を聖書のみことばをもって再認識することを今回のゴールとさせてください。

 

今回の質問の背景には、教会に特異性が認められるならば、その特異性ゆえに教会だけが患難期の前に天に挙げられ、その直前に新約時代に亡くなった信者(つまり教会)の復活があるという解釈を裏付けることができる、という期待があると思います。


「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」(Ⅰテサロニケ4:16,17)

この「キリストにある死者」は患難期前携挙説においては、旧約時代の信者を含まないという考えのようです。

 

まず「神の民」という概念について

 

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」(ペテロの手紙 第一 2:9,10)

 

「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」(テトスへの手紙 2:14)

 

「それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。

  『わたしは、わたしの民でない者を

  わたしの民と呼び、

  愛されない者を愛される者と呼ぶ。」(ローマ人への手紙 9:25)

 

「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。」(へブル人への手紙 4:9,10)

 

「彼らは新しい歌を歌った。

  『あなたは、巻物を受け取り、

  封印を解くのにふさわしい方です。

  あなたは屠られて、

  すべての部族、言語、民族、国民の中から、

  あなたの血によって人々を神のために贖い、」(ヨハネの黙示録 5:9)

 

「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。

  『見よ、神の幕屋が人々とともにある。

  神は人々とともに住み、人々は神の民となる。

  神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」(ヨハネの黙示録 21:3)



これらが「神の民」について言及されているみことばの例です。

旧約時代において神の民となるかどうかは、モーセの律法に従うかどうかによって決まりましたが、キリストによって古い律法の壁は打ち壊され、キリストの律法に従うことによって異邦人である私たちも、神の民として招かれて一つの民となるということは以下の聖句からも明らかです。

 

「キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、」(エペソ2:14)

 

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

 

「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:11)

 




次に「教会」について

聖書はこのように記しています。


「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイの福音書 16:18)


「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」(テモテへの手紙 第一 3:15b)


「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒の働き 20:28)


「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」(Ⅰコリント12:27,28)

 

「キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。」(エペソ人への手紙 5:23)

 

「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ人への手紙 5:27)


これらの箇所から「教会」とは

キリストのからだであり、

キリストイエスによって贖われ

エスを主とする信仰告白の土台の上に立てられるものであることが分かります。

そして、イエスを主と告白することは聖霊によるとあります。

「また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3b)

このようにイエスを主と告白する私たちのからだは、聖霊の宮です。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(Ⅰコリント人6:19)

 

聖霊を内にいただいた者には、聖霊による賜物が与えられます。(Ⅰコリント12:4~12)それは「キリストのからだを建てあげるためです。」(エペソ4:11)

また聖霊による一が与えられます。

「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」(Ⅰコリント12:13)



教会には、聖霊の内住によってイエスをキリストとする信仰告白が与えられ、賜物を通してキリストのからだを建てあげる特権が与えられています。

ここに「神の民」という概念における「教会」の特異性が認められると思います。



その上で、このキリストによって一つにされた「神の民」を、『新約の信者(教会)は患難期前に、旧約の信者は千年王国前に復活する』というように、復活のタイミングが新約と旧約の民では異なると区別可能か?を、御言葉から判断しなければなりません。

その助けとなる次の言葉を見てみます。


「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです」(Ⅰコリント15:22,23)

 

ここに、キリストにあってすべての人が生かされると書かれてある以上、その来臨のときに生かされるキリストに属する人たちが、新約時代にキリストを信じたクリスチャン(つまり教会)だけに限定されると考えるのはどうなのでしょうか。

アダムが時間的制約を越えて私たちに影響を与えているように、キリストの贖いも、時間的制約を越えて私たちを生かすと、私は受け止めています。

不完全だった罪のための贖いを、十字架によって完全に成し遂げられたからです。

 「イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。」(へブル 7:27)

 

すなわち、それはⅠテサロニケ4:16キリストにある死者についても同じことが言え、どの時代の信者もキリストによって完全にあがなわれたからこそ、御国の民となり得るため、旧約時代の信者も含むのではないかと考えます。


~結論~

このように、教会には聖霊の内住という特権が与えられている点で特異性が認められるものの、神の民は一つであり、教会の復活時期と旧約時代の信者の復活時期を区別できるような聖句を見い出すことはできないと思われます。

 

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)