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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

思考コントロールを感じるメッセージ

書塾を卒業された方が、完全に中川氏と同じ解釈かというと、そうではないことがわかってきました。ハーベストタイム(以下HTM)での学びを足台として、さらにご自分の見解を展開されている方が一定数おられるということをお見受けします。というのは、いつまでもHTMから学び続ける信徒を作るのではなく、イエス様の直接の弟子作りをHTMは目的としているため当然で、その意味では成功者のようです。それゆえHTMの解釈に異論を投げかけたところで、「いや、それについては今私は中川師と別の解釈をしています。」状態で、相手のいないところに異論の矢を放っていることもあったのかもしれません。

そうした中でも、リーダーとなった卒業生が私的解釈などに陥らないように自立と共生を掲げ、各地フォーラムはゆるやかに繋がりを保っていると思われます。

HTMのスタンスはそもそも、『信徒がいつまでも牧師からしか栄養をもらえない霊的乳飲み子ではいけない。今は一人一人が聖書を正しく理解し、直接神様から栄養を貰うことができる万人祭司の新約時代にいる。』と教えているからです。

今は一人一人が聖書を読むことが出来る時代ですから、一見何の問題もない教えのように思えます。しかしこの『正しい理解』というのが、HTM的ヘブル的字義通りの解釈のみを指しているということは、HTMの展開する膨大な数のメッセージを聞けば聞くほど分かってきます。ここにも解釈の唯一性への訴えがあり、分裂の遺伝子をはらんでいると感じます。ちなみに、先に説明した自立と共生をもって緩やかに抑制している『HTM的私的解釈』とは、この解釈の土台から外れた解釈を指します。

 

そして独立していった祭司たちは、HTM的へブル的字義通りの解釈が唯一の土台と理解して、それぞれに独自の解釈を展開していっておられるのです。

 

ディスペンセーション神学に基づく学びは一つのベクトルを持っていて、ディスペンセーション解釈の枝葉がそこから様々にあるにしても、それらは全て一つの終末論へ導くと思っています。

それは、教会時代はイスラエルの中に挿入されたものであり、終末は民族的イスラエルが舞台の主役になるため、教会が患難前に取り除かれるということ。これは中川氏が訴える通り、患難前携挙こそがディスペンセーション主義にとって最も矛盾の無い解釈と言えると思います。

 

しかし、私の場合はそもそもディスペンセーション主義の解釈自体が数あるうちの一つの解釈であり、不確かなダニエル解釈に基づいてすべての聖書箇所を解釈していくものだと気付いたのです。それはもちろん、不確かさ故にその解釈が確実に間違っていると断定することはできないのですが、少なくとも私にとってはディスペンセーション主義への信頼の根幹を揺るがすものでした。

そして、ディスペンセーション主義がもし間違っていたら、終末論のベクトルも間違った方向を指していくことになります。

勿論それで救いを失うことはないです。しかしHTMの場合、このベクトルの違いをもって教会の中に分裂を招いているのは確かです。礼節をもって、「この度私たちの教会とは違う神学を学びたいので聖書塾に行きます」と牧師の許可を得て推薦状を頂くという、その大前提を飛び越えて入学できるシステム。むしろそのように導いていると感じる数々のメッセージ。信者の人間的な未熟さの前に、周りの意見を客観的に判断させなくする思考コントロールがあったと思います

教会は間違った解釈をしている堕落したものであると。そして別のメッセージでは、真理を知った私たちは、まだ覚醒していない人々や教会に真の聖書解釈(ユダヤ的解釈)を伝えるべきだと奨励しているのです。真理のためなら礼節を破ることも致し方ないとする心理状態へと導かれかねません。

 

前回記事で教会内で起こる大小の問題を通して聖化させていただくと書きましたが、それでも人間の不完全さゆえ様々な教派や教団が存在することが許されていると思います。なので問題の質によっては、通う教会を変わることもあっていいと思います。しかしその場合は、教会内に異なる教えを持ち込んで革命を起こしたり、無断で去るのではなく、礼節を保って牧師と話し合い籍を移して去るのは、信者としての前に社会人として守るべきモラルでしょう(※その教会がカルト化していなければですが)。

 

じゃ本当に、思考コントロールするようなメッセージが具体的に語られているの?という声も聞こえてきますので、例を一つ以下にご紹介します。

 

【具体的な問題だと感じるメッセージ箇所】

58分あたり~最後(リンクを張っていますので、お時間のある方はお聞きになってみてください)

ユダヤ的視点を失った解釈の例を上げて、教会にこの視点が失われていることが、弱点となっていると言っています。

・クリスチャン生活の動機は終末論にある。と説明した後、

ユダヤ人の救いを論じなくなった時、以下のような事が起こったとの説明に入ります。

①教会時代が千年王国であるという認識

②終末論に対する興味の喪失

③キリストの再臨に対する無知

④クリスチャン生活の動機の喪失

⑤Ⅰテサロニケ5:4~5の『その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません』の『その日』は携挙に始まる大患難時代を指しているとし、暗闇は真理を見えなくする、と締めています。

 

つまり、①~④は悲惨な結果の例として挙げ、ユダヤ的解釈でなければ暗闇の中にいて真理がわからなくなり、間違った解釈や喜びのないクリスチャン生活に陥ってしまうのだと訴えています。そして、唯一、ユダヤ的視点に目覚めて再臨待望を語っている団体こそハーベストタイムであると訴えています。

 

テレビなどの公共波は真実を伝えていない、悪魔の支配下にあるとする反ワクチンの世界観に通ずるものを感じます…。いずれも家庭や人間社会に、分裂や愛の冷え込みをもたらしていると感じます。