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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

キリストの再臨=パルーシアの意味について(1-1)

主にディスペンセーション主義について書いておられる

軌跡と覚書というべいりあん (balien)のブログを拝見させて頂く中で、

患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなりました。

私も疑いもなく患難期前携挙説であったときがありますが、これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。

他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、理解を深めたいとの期待によって検証したいと思っています(検証というほどのことでもない、ただの御言葉の引用ですが…)。

 

課題1イエス・キリストの再臨に関わる問題

1-1.再臨を教えている聖句で使われている用語(parousiaなど)は、どのような概念を啓示しているのか。(←サイトへリンク)

 

・まずはイエス様以外に関して【パルーシア(parousia)】が使われている箇所は、

Ⅰコリント16:17や、Ⅱコリント7:6などで、「来訪」または「到着」という意味で、使徒たちの動詞となっています。

 

・キリストの再臨に関して使われている箇所の例は以下です。

 

「生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることはありません。」Ⅰテサロニケ4:15


「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。」Ⅰテサロニケ3:13

 

「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。」マタイ24:27

 

「主が来られる時まで耐え忍びなさい。…あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。」ヤコブ5:7-8

 

「(嘲る者たちが)こう言います。『彼(キリスト)の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。』」Ⅱペテロ3:4

 

「その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは…来臨輝きをもって滅ぼされます。」Ⅱテサロニケ2:8

※輝き=エピファネイア

 

来臨の時には、敵をも滅ぼす輝き(エピファネイアを伴うと書かれています。

エピファネイアや、それと類似しているエピファネイアスなどが使われている箇所として、

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主でえるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトス2:13

※現れ=エピファネイア


「私たちの主イエス・キリスト現れの時まで、あなたは汚れなく、非難されるところなく、命令を守りなさい。」Ⅰテモテ6:14

※現れ=エピファネイア

 などがあります。

 

クリスチャンは、キリストの栄光ある【現れ】を待ち望んでいるのでしょうか、それとも秘密的な携挙を待ち望んでいるのでしょうか?

「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」ヘブル9:28

 

且つ、エピファネイアンやエピファネイアスはエピファニーの変化形であることから、これらはほぼ同義語であるといえるのではないでしょうか。

A'=A+B、B=Cなら、A'=A+Cという公式が正しいと仮定できるなら、

来臨(パルーシア)=輝きを持って来臨

輝き(エピファニ)ー=現れエピファネイアン)

来臨(パルーシア)=現れを持って来臨

となります。

 

したがって、『キリストの来臨は敵を滅ぼすような輝きのあるような現れを伴っている』ということになります。

 

パウロはコリントのクリスチャンが、キリストの【現れ】を待ち望んでいると言って、それを称賛しています。テトスに対しても、キリストの【現れ】が祝福に満ちた望みであると教えています。

「あなたがたは…熱心に私たちの主イエス・キリスト現れを待ち望むようになっています。」Ⅰコリント1:7

※現れ=アポカリュプシン

 

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主でえるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトス2:13

※現れ=エピファネイア

 

 

また次の聖句は、火で精錬されるような苦難が、キリストの現れるときに初めて終わることを示唆しているようです。 

「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」Ⅰペテロ4:13

※現れる=アポカリュプセイ

 

パウロは、私たちの信仰はキリストの【現れ】の時に、称賛と栄光と誉れをもたらすと次のように言っています。

「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリスト現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」Ⅰペテロ1:6-7

※現れる=アポカリュプセイ

 

キリストの再臨について表現されている『エピファニー』と『アポカリュプシス』についても、

クリスチャンが地上で待ち望むべきこと=エピファニー

クリスチャンが地上で待ち望むべきこと=アポカリュプシス

であることから、

エピファニー=アポカリュプシスであり、

両者に時間的隔たりがあるとは認めにくいと思います。

 

これらの事は、私が慕って読んでいるKinukoさんのブログ

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)の、ディスペンセーション主義者を理解する (by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大学、新約学) - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)の日本語訳文献を参照しながら書かせて頂きました。

その中から、教訓とする必要がある多くのことも改めて学びます。その内の一文を引用しますと、

より一般的に言って、聖書というのは、日常語(そして時には文芸語)で書かれたのであって、後代の組織神学者たちの用いるような技術的に厳密な言葉で書かれたのではないということを、すべての聖書解釈者たちは認識する必要があると思います。そして個々の単語の意味は無限に正確であるわけではなく、ある単語が持っている特定の意味というのはその直接的文脈と共に判断されなければなりません(参:Barr 1961, Silva 1982)。

 

上記の理由で、聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。

副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分と、今は心から思います。

 

来臨(パルーシア)について過去に書いた記事はこちらです↓

vitaminp81.hatenablog.com