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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

頑なな心(1)当時の思い (2)頑なにするもの

以前
贖いの日 - Misao’s bible diary

 のブログの冒頭で、
『私はこのブログを、主にネット上での曲解した神学の主張によって、イエスキリストに対する純粋な信仰を刈りとられてしまった人々をイエスキリストへの純粋な信頼に回復されることを目的に書いているからです。(これについてはまた別ブログで…)』
と書き記しました。
ようやくこのことについて表現できるようになったので、連載形式で記したいと思います。




~頑なな心~

(1)当時の思い
『教会は、神がイスラエルを通してなそうとしておられる計画の全貌を知らない。
信仰に覆いをかけられている。
比喩的解釈、私的解釈、間違った神学で聖書を教えているから、信仰が成長しない。』

ハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)の学びをどんどん進めていた当時の私は、地域教会をこのように思っていました。しかし、教会を愛していたので、教会が真理を知らないままではいけないと、
何とか教会が真理に導かれるように祈っていました。

HTMによると、信仰とは神の啓示に対する応答であるため、信仰の成長も神のことばを深く理解し、神の偉大さ、真実さを知るごとに増し加わると教えられました。
その結果どうなったでしょうか。
ディスペンセーション神学に基づいて聖書を学べば学ぶほど、一本の筋を通したように聖書が分かるようになると感じました。
しかし、学びをあまりしていないという信徒の方々、学んでおられてもディスペンセーション神学に基づかない学びをされている方々に対して、聖書を正しく学ばなければ信仰が成長しないのに!と、焦りを感じるようになったのです。
良く言えばそうです。
しかしこれは明らかに他者に対する軽視、優越の感情でした。
自分が所属している教派以外の教会に対しても、今までこのように感じたことはありませんでした。



(2)頑なにするもの

教派教団を問わず、HTMに関わられた兄姉が、教会に対してボイコット的な問題を起こしているという事実を受け、HTMに関わり始めた私は、我が教会からも一度よく考えて立ち止まるようにとの諭しを受けました。
そのような事件が全国各地で起こっていることを、当時の私は知らず、諭しを受けた時点で聞かされましたが、衝撃ではありませんでした。むしろ、そうなるのは仕方ないかもしれないと思えました。なぜなら、地域教会はHTMがいうところの、真理ではないことを教えているから。だとしたら、無言で立ち去るよりも、教会に真理を訴えようと立ち上がった人たちは、愛ゆえにそうしたのだと感じました。
そう感じた私は、このボイコットをした人たちと同じ線上にいて、行き着く先同じような事になりかねない根が、私にも無いわけではないことに気付きました。

そうして個人的に呼び出された事の方がショックで、もっと衝撃だったことは、帰り際に「祈っていますね」と言われたことでした。
「祈っています?」
祈っているのは私の方なのに…。
益々私は頑なになっていきました。この言葉に、「こちらが正しい、あなたは間違っています」というメッセージを感じたからです。

私の方が正しいことに、いつか気が付きますように。悲しくなり、悔しくなり、そう思いました。
もっと神様を知りたいと純粋に願って始めた学びが、なぜ分裂を生んてしまったのか…?なぜ苦い根が私の中にはびこっているのだろう。と悩みました。
教会のみならず、家庭でも分裂が起きました。

悩みの中にあった時に、信仰の友人は、自らの考えを持って私の意見を変えさせるようなことは全くせず、ひたすら私の気持ちを受け止めて共に悩みを負って下さり、祈り続けてくださいました。そうした中で、ディスペンセーションの解釈で納得がいかない点もあったので、その一点の解決を得ようと聖書研究を続けていました。今まで心地よくはまってきたボタンが、最後の一点(※1)ではまらなかったのです。
(※1:第七のラッパが鳴る時に起こる、しもべや預言者たちに告げていた奥義とは何か?という一点)
そしてそのボタンがはまらないのは、聖書が明確にしていないことを前提(※2)として御言葉を読んでいたからだという事に気付きました。
その前提・土台が確実に正しいと言えないことがわかると、今まで構築してきた聖書解釈の知識が見事に音を立てて崩れていきました。
(※2:黙示録において、第七のラッパが吹かれるのは7年の艱難期の中間あたりであるという前提 
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「私が間違っていた…」
その瞬間、カルトから目覚めたような感覚がありました。

続く…