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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

マインドコントロールにみる共通点

どうして多くの人がハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)にひきつけられていくのか。

自分の経験を分析してみるという方法によって、そこに感じた共通点をみていこうと思います。

 

 

思うところがあって、また導きもあって、私は『マインドコントロールの恐怖』(スティーヴン・ハッサン/著 浅見定雄/訳)という本を手にしています。

そこには、マインドコントロールに自分だけはかからないと思っていることは危険であり、誰もがマインドコントロールにかかる可能性があるという現実を以下のように忠告してくれています。

”人々は、カルトの犠牲者を見ると、よくまちがってこう言う。「なんと弱い精神の持ち主なんだろう。あの人は自分の責任から逃避して、自分の人生を他人にコントロールしてもらう道を探していたのに違いない」こうして人々は、同じことが自分にも起こりうるという現実を認めないのである。カルトのマインドコントロールの犠牲となった何百万の人々よりも、自分は強くて立派だと信じたいので、「それは自分には絶対起こらない」と信じる。”(87項)  

ですから、私はマインドコントロールされてしまう人に誹があるのではないと言いたいし、マインドコントロールされる人が格段特別な背景や性格をしているのではないことも、まずお伝えしておきたいのです。

 

そして、マインドコントロールされた本人(著者はもちろん私も)は、何も分裂を生み出そうとかいう思いは一切なく、

”ただ、正しいことをしたかっただけである。”(45項)

 という心理状態だったのです。

 

 

以下、

この著書の本文をかいつまみながら、私が経験したこととHTMに感じることを重ねる形で記してみます。

 

 【マインドコントロールを達成するための…三つの段階「解凍・変革・再凍結」】 

  1. 解凍 

    ”混乱はふつう、矛盾する情報が一見調和したかたちで伝えられるときに生じる。...長期間そのような混乱させる言語と情報を聞かされ続けると、だれでも自分の批判的判断を中止してしまうのがふつうである。そして、ほかの人々がみなやっていると思うものに自分を合わせてしまう。そのような環境では、ほとんどの人は相手よりも自分を疑い、集団の方に従う傾向がある。”(130項)

    「今まで聞いていた解釈は実は間違っていた。」いままでの解釈の常識を覆され、聞いたこともなかった「へブル的字義通りの解釈」と「ディスペンセーション主義による解釈」この二つの解釈によって、修正された解釈の方が聖書に調和しているように教えられました。「テレビ伝道でおなじみの中川先生が権威ある口調で語っている」「多くの人がこのメッセージをアーメンと頷きながら聞いている」このような状況で、今まで聞いていた自分の解釈の方を疑わないでおくことは難しいのではないでしょうか。

      

  2. 変革

     ”「変革」の過程では、この反復はみな、いくつかの決まった中心的テーマに集中する。新会員は、世界がどんなに堕落しており、また真理を悟っていない人々はどんなにそれを正す方法を知らないか、教えられる。”(132項)

    ”とくに政治家はいかに愚かで怠惰で堕落しているかとかたるのを聞く機会があった。”(64項)

     HTMのメッセージの中で、日本の諸教会がいかに正しい終末論を教えていないか、霊的に死んだような状態のクリスチャンが多いのはなぜかという投げかけが数多く聞かれました。

     

  3. 再凍結 

    ”「新しい」人間の最初でもっとも重要な仕事は、以前の自分をさげすむことである。”(136項)

     HTMに出会う前の以前の自分の信仰は聖書的で無かったと感じたり、過去の解釈を恥ずかしくさえ思うといった証言を複数聞いています。

     

    ”あるカルトのメンバーは、統一教会勧誘者の嘘を見つけるたび、それはたまたまその勧誘者の個人的な問題なのだと考えて、それを無視してしまったと話してくれた。”(145項) 

    ハーベストタイム傾聴者によって日本全国あちこちで教会に分裂をもたらす複数の出来事は、あくまでも彼らの個人的霊性の問題だと受け止められているようです。それは再凍結により自分と同じ解釈をするグループこそ正しいというところにとどまってしまい、その原因が自分たちの教理に問題がある可能性に気づくことができない状態になっているからではないでしょうか。

 

【マインドコントロールの基本的構成要素】

心理学者のリアン・フェスティンガーは、構成要素は「行動コントロール」「思想コントロール」「感情コントロール」の三つを挙げていますが、著者はこれに調査経験を踏まえ、「情報コントロール」を付け加えて提議しています。

 

【思想コントロール

  1. 教義こそ現実

    ”それゆえ教義は、漠然としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければならない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる。”(149項)

     中川氏は聖書塾において「聖書を正しく理解した結果、ディスペンセーション主義の解釈になるのです。」と、この結論にしか至らないという力強さで断言されていました。

     

    ”マインドコントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作り上げることにかかっているので、カルトの教義はきまってあなたは自分自身を信じてはならないと要求する。”(149項)

     キリスト教は、信頼できるものは神のみであるという教義であるため、カルトの温床になる可能性が大いにあると言えると感じました。

     

    【情報コントロール

  2. 現実世界は白か黒か、善か悪かの二者択一

    ”…複雑な状況を単純化してそれにレッテルをはり、…このレッテルこそ、詰め込み言語を具体的な言葉に表したものなのだが、それが、ある状況でメンバーがどう考えるかを支配する。”(118項)

     リベラル派や、置換神学を「聖書的でない」とか「危険な私的解釈」という言葉で片付けるのを聞き、そのような考えを持っていたらリーダーやメンバーに一蹴されてしまうのだと自戒するようになっていました。しかし批判対象となっているリベラル派の実際は、そんな簡単に片付けられるものではないだろうし、置換神学についても、そもそも批判対象となるような古い考えを持った神学者はもはや存在しないのです。置換神学という言葉さえ聞いたことのない信者は、そんな聖書の真実を隠してしまうような恐ろしい神学があるのか、とその存在を調べもせずに批判もろとも鵜呑みにしてしまうことはではないでしょうか。

     

    ”どんなに複雑に見えるカルトの教義でも、煎じ詰めれば、現実世界を白と黒、善と悪、霊的世界と物質的世界、「我々」と「彼ら」といったふたつの基本的な対極に還元してしまうものである。”(149項) 

    真の聖書理解をしている普遍的教会のメンバーである「我々」と、正しい聖書理解ができていない堕落した地域教会の「彼ら」。

    言葉にせずとも、心の奥ではそのような構図が知らぬ間に出来上がっていました。

     

     【カルトの心理状態 

  3. エリート心理

    ”ここで与えられたエリート的地位のため、私は特別なのだという気持ちになった。”(49項)

    聖書塾を卒業すれば、自由に開拓伝道を行える準備が整います。それは、自分が神様に用いられているという特別感を生み出してくれるものです。私は主の直接の弟子になったのだという気持ちです。私は卒業しませんでしたが、そんな特権が与えられるならと、いつかその機会が与えられたときにお役に立てるようにと、その特権を求めてどんな反対があろうとも卒業したいと必死でした。

    しかしどうでしょう。私が求めていたものは神の栄光の座の近くに、自分が座ることだったのではないかと思いました。ヤコブヨハネが天における栄光の座で、左右に座る特権を求めた時(マタイ20:21)、イエス様はどうたしなめられたでしょうか。

     

    ”私は、何百人もの人々の前で立ち上がって日曜礼拝をしたり、統一原理の講義をしたり、またメンバーが私を素晴らしい霊的人物像として見あげるときに感じる気分を好きになってきた。”(53項)

     再臨待望聖会の中で、その直近に聖書塾の卒業を迎えられた期生の卒業式が恒例のように行われていました。

    中川氏がとても誇らしげな様子で証書を一人一人に渡されていましたが、あのような場で証書を受け取ることができたらどんな気持ちになるか想像してみてください。

     

    ”私は――とそのときは思った――地上における神の代理者の承認を受けたのだ。”(54項)

    それはまるで、私たちこそ霊のたたかいのまっただ中にいる神の軍隊ー前線に出て毎日サタンとたたかうことができる唯一の人間たちであるかのような感じだった。”(55項)

    ハーベスト聖書塾に所属しながらも教会にとどまり続ける意義は、その教会という霊的最前線で真の聖書理解を広め、心からの善意で教会員たちを「覚醒」させてあげることだと考えていました。

     

  4. 集団の意志か、個人の意志か

    ”皮肉なことに、カルトのメンバーたちはおたがいに他のカルト集団に入った者を見下げている。”(151項)

     HTMはカルトへの警戒を促す働きを別に作って警告を発し続けています。

     

    ”「全体目的」が焦点でなければいけない。”(152項)

    普遍的教会の立て上げこそ私たちの最終の目的。自分の教会の繁栄だけに目を向けることは神の全体の計画が見えていない、非常に視野が狭いことだと反省させるメッセージが語られています。

     

    【感情コントロール

  5. 恐れと罪責感による操作 

    ”メンバーは、グループの安全圏を離れると自分は破滅してしまうのだと本気で信じる。自分が霊的、知的、情緒的に成長する道はほかにないと考える。”(92項)

    恐怖心を用いている点については、真の信仰を持っていなければ携挙から漏れ、患難に合うという教えを通して、携挙こそクリスチャンの希望であるとしている事です。そして真の信仰は真の聖書理解からくるとメッセージから読み取れ、真の信仰を持っていないこと(つまり真の聖書解釈をしていないこと)を恐れるようになっていくのではないでしょうか。

    患難後携挙説はそもそも信仰があれど患難に合うという考えですが、神は私たちを耐えられない試練に合わせることなく、逃れる道を備えてくださるという神の言葉に信頼する故、患難を恐れない信仰を持つことができるのです。その方法が例え死という方法であったとしてもです。なぜなら、聖書は「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)と教えているはずだからです。イエスご自身が十字架の死にまで従い、それを体現してくださいました。

     

 

他にも要点は続きますが、私が感じた共通点で、特執すべき項目は上記のような点でした。

 

なぜ、カルトの手法が存在するのか。その鍵を読み解く点も教えられました。

”権力というものは極端な中毒になりうるものであり、事実そうなっている。”(181項)

”多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、...神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を創作しコントロールするのに使われているのである。”(183項)

ここにはリーダーによる意図的な悪用は一切ないと思っています。冒頭で引用した通り、

” ただ、正しいことをしたかっただけである。”(45項)

なのです。

人間のエリート扱いを心地よく感じてしまう心理や、権力欲のほんの少しの隙間に入りこもうとする闇の力に、その善意を「結果的に」悪用されてしまったと感じます。自分では気づかぬうちにその力の支配に身を任せてしまうことは、人間である限り起こり得ると思うのです。

  

しかしながら、そもそも問うべきことは、

”理想世界を作るのに、神がサタンと同じ戦術を使わなければならないのか」という大きな疑問が沸いてきた。”(63項)

 と著者がこのように書いているように、もしそこにマインドコントロールに似た手法が存在しているのが事実ならば、私たちが信じる神様はマインドコントロールという方法をお使いになる必要があるだろうか?ということです。愛なる神は、人々の思想をコントロールして信仰者を獲得することをどう思われるでしょうか。

日本の伝道には確かに行き詰まり感はあったでしょう。しかしHTMによって多くの人が信仰を回復、あるいは持つようになった側面があると思います。例えば教会から一度離れてしまったクリスチャン、教会に躓いたクリスチャンが多くの影響を受けているように思います。

何故これほどの数の人々が取り込まれるのか。中川氏の話術と説教内容に相当な魅力があるからなのか。表面的にはそうだと言えるでしょう。しかしその本質には、思想コントロールにに共通した手法が潜んでいたと感じるのです。

 

”もし人々が文鮮明をメシアだと信じたいのなら、それも彼等の権利である。しかしながら――そしてこれが決定的瞬間の点なのだが――文鮮明をメシアだと信じ込ませる過程からは、人々は保護されなければならない。”(75項)

人々が自由な意思でHTMこそ真理を教えている団体だと信じたいのなら、その権利は奪われるべきものではありません。しかし、このような思想コントロールのような影響からは守られて自由に判断しなければならないと、私も思います。



私が問題解決に至った方法にも、共通点がありました。次はその点を追っていこうと思います。

次回へ続く…