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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

頑なな心(3)間違いの根本 (4)頑なな心を溶かすもの

(3)間違いの根本

神学を研究している神学者達は、なんの悪意もないはずなのです。これこそ真理だと確信して神に従い歩んでおられます。しかし不思議なことに、その研究の中に、学ぶ者の心に、学びを聞く者の心に、実に巧妙に悪魔が入り込み、罠をしかけていくと感じました。人間の持っている罪の性質(名誉欲、高慢、恐れ等…)を上手く利用されることによって、時に罠にかかってしまうのです。
まさにこの御言葉が私に迫ってきました。

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」Ⅰテモテ6:3-6

私がおかした間違いというのは神学を通して神を見上げる事そのものではなく、イエス様によって満ち足りる心を持たずにディスペンセーション主義にしがみつくことであり、しがみつくことでアイデンティティーが『イエスキリスト』から『神学』へと変わってしまったことです。同じアイデンティティーを持たない相手を、『敵』とさえ見なしてしまうことです。
アイデンティティーが『イエスキリスト』にない場合、自らの正しさを主張しようとし始めます。知識はまさに高慢を生み出し、いつでも私たちは罠と隣合わせにいることを覚えて、主に助けていただかなくてはいけないと思います。





(4)頑なな心を溶かすもの

今思えば、人の信仰というものは割れ物のようなもので、他人から曲げることなどできない取り扱いの難しい問題です。ですから、「その学びはうちの教会の教理と合いませんからやめなさい」と、パシッとい言わなかった教会側は、なんとか温和に、愛と祈りを持ってわたしの魂を取り戻したいと祈ってくださっていたのだろうと思います。
問題の渦中、主人は私が間違っているにも関わらず「Misaoが教会に居られなくなったら、僕もついていくから」と言ってくれました。

友人は、私が間違っているにも関わらず、私の気持ちを受け止め続けてくれました。
私が例えディスペンセーション神学にしがみつく考えから戻って来ることがなくても、私と関わり続けようと思ってくれていたそうです。

教会は私が間違っていたにも関わらず、今までと変わらず受け入れてくださいました。
人の心が頑なになっていくのは、まさに自分がもっているアイデンティティーを否定されたときです。
頑なな心を溶かしたのは、実に謙虚な愛の行動でした

例えあなたが間違っていても、あなたを愛しているからね、という態度。
これこそ、イエス様が私達に示してくださった愛でした。
例えあなたがわたしを十字架につけたとしても、「父よ彼らをお赦しください」という愛です。
私は、周りの方々を通したイエスキリストの愛に支えられていました。私も、イエス様の愛をもった態度を周りの人に取れているだろうか?と反省しました。

続く…