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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

信仰の成長~神学の一人歩き~

連載シリーズの再開を遅らせていますが、今回も別のテーマを数回連続して投稿します。

 

〈信仰の成長・神学の一人歩き〉

私たちは分かりやすい神学を求め、曖昧な解釈も断言される方を好みます。

多くの人が求めているものが、ハーベストタイム(以下HTM)の提供するところのヘブル的解釈、字義通りの解釈だったわけです。



ディスペンセーション主義の先生よりお聞きするところの本来のヘブル的解釈とは、緻密に分析して理解しようとすることではなく、そのままを矛盾など気にせず神の言葉として受けとり、仕えるという姿勢のことを言うのだそうです。しかし、HTMが提案するヘブル的字義通りの解釈は、一つ一つの言葉の持つ意味を深く掘り下げ、本来語られた対象への神の真意以上に言葉の持つ意味が一人歩きをするような、云わば究極のギリシャ的解釈となってしまっていると言います。

分裂や分断は、神を礼拝するよりも自分で神を把握しようとする試みによって生まれるとも教えて頂きました。その試みは、すでにバベルの塔で神に戒められたはずです。つまり、ギリシャ的姿が分裂や分断を助長していると言えます。(※一部教会で起こっている問題の事例・普遍的教会とは - Misao’s bible diaryへのコメント返信の再掲になります)



「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)

聖書の言葉の「いのち」は私たちが探し求める時、聖霊の助けによって、生きて私たちに迫ってくるものです。

 

自分の聖書研究によって信仰が成長し、神の御元に近づけると思うことは、結局は全く別の着地点に行き着くことになります。まさに「初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)という状態になりかねません。

 

私たちの信仰が成長することは神様が望まれていること、それは確かなことです。しかし、それは一切全て神の恵みによることです。



「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:23,24)

 

「あなたがたは...キリストを信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」(Ⅰペテロ1:21)

 

時間を、聖書を読むために聖別するという努力は必要かもしれません。しかしこの努力によって信仰が成長するのではないと思います。聖書研究により、魂の糧を頂くのです。

非常にまどろっこしい言い方ですが、この魂の糧を頂いた結果として、信仰の”頭の理解における部分”は成長するとは思います。人の聖書解釈ではなく、”聖書が何を言っているか?”を探ることは重要ですし、私もそうしています。しかしそれを信仰成長のためにしてはいないのです。

何というか、信仰成長のために聖書研究は必須という考えもまた違うような気がするのです…。

それゆえ本当の信仰成長は聖書研究によるのではないと、今は思います。もしそうなら、聖書がここまで普及していなかった時代の人々はどう評価されるのでしょう。

信仰の成長は救いと同様、全く神の恵みによると理解しています。

 

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(Ⅰコリント3:6)のみことばの通りです。

 

次回<教会の奥義>へと続きます...

 

こちら↓↓の過去記事では「信仰の成長は聖書研究によって」と信じていたころの心境を詳しく綴っています。

vitaminp81.hatenablog.com