page contents

Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

教会で起こっている問題の事例・普遍的教会とは

まで教会は何故、日本全国あちこちでハーベストタイム(以下HTM)によって引き起こされている問題を表面に出さなかったのか?

その理由は第一に、HTMに関わる兄弟姉妹が責められないようにするためです。

"彼らが気付いた時に、教会に帰ってくる道を閉ざしてはならない。”その思いがあるため公にしてこられなかったのです。

また公にしたとしても、単なる批判ととられかねないということもあったかもしれません。

 

一方なぜ、HTMによって問題が各地の教会で複数起こっていても、それらは例外的で、問題を起こした人の霊的高慢が原因であるとして済ませられるのか。

具体的事例を知って頂き、このようなことが本当に本人の霊的問題だけに起因するのか、社会的にみても許されるのか考えて頂きたいのです。



〈一つの事例〉

 ある方は、元々は私と同じように『もっと聖書を知りたい、そして教会や社会においてもっと用いられる良い働きをしたい』という動機で学びを始められたと思います。ところが、最終的には教会に籍を置きつつも、フォーラム運動のリーダーの一人となり、洗礼、聖餐が行える集会を運営することとなっていったのです。それが神様の喜ばれる御心であると信じて...。 

 

この方の心理状態は恐らく、当時の私と同じか似ていれば、この正しい解釈について牧師に質問したり、話してみたところ良い反応を示されず、『HTMが言うところの正しい解釈を教えていない教会牧師が、この教えを受け入れてはくれないだろう。』と確信し、教会に公にする事を躊躇ったのだと思います。

 

当時の私は『信徒がもっと聖書を学びたいということを、何故牧師先生は辞めさせようとするのだろう?信徒の、より深い聖書の学びの機会を奪い取ろうとするから問題が起こるのではないだろうか。』と、本気でそう思っていました。

 

自分が召されている『神の御心の働き』に反対する人達は神の御心の反勢力であると感じるため、やがて時が来ればこのことが正しいということを教会は分かってくれるはずだと信じ神様にゆだね、彼らには内密に事を進めざるを得ないのです。

 

このような事があったとは知らなかったという方もいらっしゃるでしょう。

HTMに関わっておられる方が問題の実態をあまりに知らないことは驚く事ではありませんし、その人の責任でもないと思います。実際私自身が入塾にあたって、そのような問題が起こっているという情報は少しも聞かされませんでしたから。

 

ハーベスト聖書塾へ入塾するにあたり、所属教会の牧師の推薦状は必要ありません。しかし、入塾や聖書フォーラムを立ち上げるにあたって、所属教会の牧師に公言しなかったことは、やはり本人の責任であると思われるでしょう。

しかし、聖書塾に入塾した生徒に対し、HTMの教理が所属教会の教理と異なる場合、中川氏がどのように指導しているか、これは中に入った者でしか知る由もありません。

『所属教会がある方はその教会において良い働きができるように。一気に広めると反発が来るから、ゆっくりやるように。』確かに中川先生はそう仰いました。

それは、反発を受けないように公にではなく個別に、しかしできる限りこの教えが教会に浸透するように、やがては教会が公にこの教えを受け入れることかできるようにやりなさいと言った意味であると受け止めました。

 

中川氏ご自身が、フォーラム運動が教会に受け入れられにくいものであることをよくご存知だったのでしょう。そして中川氏本人でさえも、それは正しい聖書理解を教えていない教会側に原因があると確信しておられると感じました。

 

 

〈ハーベスト聖書フォーラムは超教派団体か、教会か〉

何故中川氏はフォーラム運動の働きを所属教会の牧師と情報共有せず、内密に進めようとするのでしょうか。

 

 

教会籍(会員制度)について中川氏は、聖書に会員制度の命令はなくとも、会員制度は牧会活動において群れの境界線を把握するために必要なものであり、地域教会に属することは重要であると答えておられます(3分で分かる聖書「教会籍は必要ですか」への回答にて)。

とするなら、聖書フォーラムを運営している方が、地域教会にも籍を置いていることを黙認するということは、信者に二つの教会に籍をもつことを推奨しているということになります。

これは教会倫理を逸脱する行為と言われても致し方ないのではないでしょうか。

 

聖書フォーラムは会員制度の無い超教派団体なのでしょうか?

しかし実態は礼拝、洗礼、聖餐が行われており、そのような集会は制度的に見れば、もはや教会です。

ある聖書フォーラムでもその存在を明らかにしてこう記しておられます。聖書フォーラムは、宣教団体であるハーベストタイムミニストリーズとは独立した存在の、地域教会として個々に活動をしています。』そこで群れの一員としての扱いを受けるなら、その方が他の教会にも籍をおいて所属しているかの確認をとり、所属教会の牧師と連携をとるというのが本来の会員制度の目的を果たすことだと思われます。

 

ところが実際は、聖書塾への入塾には所属教会がある方の場合でも、その牧師の推薦状は必要ありませんし、卒業時にフォーラム運動の長老(リーダー)となる資格が与えられ、その活動を行える者となることも所属教会の牧師は知りません。さらには開所運営していても、所属教会の牧師には知らされないのです(聖書フォーラムはHTMとは独立しているとはいえ、その開所式は必ず中川氏が出向かれます)。

 

入塾案内には、卒業時に長老の資格が与えられ開拓伝道を行えるなどの明記はされていません。聖書塾Q&Aにおいても、

『ハーベスト聖書塾の学びは、基本的には弟子訓練を目的としており、牧師の資格を取得するためのものではありません。』

とあり、聖書塾は名目的にはキリストに直接つながった弟子訓練を目的としているため、教会を通して更に良い働きができるようにとの期待を持って入塾する方がほとんどなのではないかと思います。

ところが聖書塾Q&Aには続いて『学びが終了すると、他の人々を霊的に導いたり、自ら開拓伝道を行ったりするための準備ができたことになります。その段階で具体的な助けが必要であれば、アドバイスをさせていただきます』

とあり、実際に各地で聖書フォーラムという形で開拓伝道をするリーダーが排出されているのはHTM関連のサイトから判断できます。

 

 いつの間にか、教会信徒を引き連れて開拓伝道を行う家の教会へと変貌している事例があちこちで起こっているのです。

教会牧師やの教会信徒の知らないところで、教会員のある兄弟姉妹が求道者をフォーラム運動へ導いてしまう。そしてそのフォーラム運動は聖書フォーラムという『教会』なのです。

HTMと教会との軋轢が生じ始めて、もう何年も経っています。教会側の訴えが、たとえ水面下であっても一切中川氏の耳に入らなかったとは考えにくいです。であるのに、何の弁明もされてこなかったのです。このような事態の情報が耳に入りながら黙っておられるなら、二重教会籍の黙認であるとしか受け取れません。

これは本当に健全なあり方なのでしょうか?

 

 

 〈普遍的教会という教えに潜むカルト性 〉

私は教会に対して具体的な問題を起こしませんでした。しかし、問題を起こした方々が責められるなら、私も責められるべきです。

実際に問題を起こした方々だけでなく、私と同じように教会に留まりながらも兄弟姉妹の聖書理解を正してあげたいと思っている方々を、私は弁護したいのです。

 

HTMを最初から客観的に見ることが出来ている方は、聖書を自分で読まなかったから偏った教えに流されたと思うかもしれません。しかしよく聖書を読んでいる人は流されず、読んでいないから流されたという区別も実際のところは見られません。

 

HTMは『教会とは建物のことではなく、私たち信者一人一人のことである。自分たちは天に登録された普遍的教会(天の教会)のメンバーである』と教えています。それだけでなく、『私たちが地域教会という枠にこだわる事は狭い視野であり、教会全体を捉えて普遍的教会を立て上げていくことこそが重要。』と奨励しています。

 確かに聖書には、いのちの書に記されている者だけが救いに至るというメッセージがあり、普遍的教会の一員であるということは受け入れることができるものです。

しかし『地域教会の狭い視野を反省させ、普遍的教会を立て上げる』という教えにより、自分は所属教会のメンバーであること以上に、真の意味での普遍的教会のメンバーであるという意識を持つようになりました
救いについては、『救いの三要素を信じていれば、すでに普遍的教会の一員である』とし、その一方で教会のカルト化の問題をはじめ、信徒が喜びに満たされていないことに致るまで、その解決は『正しい聖書理解による霊的覚醒』が鍵であると訴えています。

これら別々のメッセージが聴衆の中で化学反応を起こし、『正しい解釈による聖書理解をしている自分たちこそ、普遍的教会の一員である』という理解が生まれます。

 更に、『ほとんどの教会は正しい聖書理解を教えていない、正しい解釈はこうだ』と語っています。ご自分の確信にかたく立つことは良いことですが、すでにキリストを土台として立てられている教会に対して、土台を揺るがすような薦めがなされているのはいかがなものかと思います。

こうして聴衆は、真の教会は普遍的教会であるので、地上の教会に問題があるのは仕方がないと判断し、自分をそこから分離させていく心理状態へと変わっていくのです。教会を離れる、もしくは教会に留まっていても心は分派的になります。あくまでも自分は普遍的教会のメンバーであるという意識が、教会の一部になりきれない自分を正当化する方向へと働きます。

 


 また、正しい字義通りの解釈を採択する判断が強制的にではなく、あくまでも聴衆側の自己採択になるよう、キリストの名における正義感に訴えておられます。

教会論や教理史のワクチンの無い人、正義感の強い人は格好の対象になると思われます(教会において正義がゆがめられているのをみたり、何かしら問題を感じている人は尚更でしょう)。

 聖書には訳者の誤った神学が既に入り込んでいると警戒を促されることで、まず聖書が素直に読めなくなりました。そして絶対的に正しいとは言い切れない正しい解釈という名のフィルターを絶対的として与えられ、そのフィルターを通して聖書を一度見てみようと学びはじめました。結果、普通に読んで理解できるはずの言葉も、正しい解釈ではどうなのか?といつも、中川師の吟味を聞かなければ判断できない状態になっていました

聖書フォーラムリーダーに私がわからないことを訊ねたときも、それは如実に現れていました。そのリーダーが答えられない質問には「中川先生なら答えられると思います」と仰っていたのです。

『自分にはまだ答えられないけれど、中川先生ならちゃんと答えられる』そう確信しておられました。

 

ここに、マインドコントロール的教えが存在しており、一種のカルト性を感じさせるのは否めないと感じます。

 

 HTMのフィルターの真偽は疑わせることなく、自分の目で聖書を調べた結果はっきり分かったのだからこの解釈は正しいのだと、「正しい所に立つ自分」という要塞を築き上げていってしまうのです。しかし、自分の正しさを放棄できるところに、本当の解放がある事を、キリスト者は見失ってはならないはずです。

 

 

 

以前、私のブログを紹介してくださったハウスチャーチを運営している某牧師先生が、実際に聖書フォーラムの開所式に立ち会った時の違和感について証言しておられます。↓

heaven.holy.jp

 

最後に、私は中川氏を辱めたいわけではありません。中川先生を信頼していたからこそ、誰にも相談せず、まずは直接意見を申しあげました。しかしそれには何の回答もくださらなかったのです。

キリストの体が引き裂かれているのを黙って忍耐してこられた先生方に対し、教会倫理の逸脱について、誠意ある対応を望んでいるだけなのです。