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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

証を読んでくださった方へ・謝罪と続証

この証を、多くの方の目にとめていただけたのは、牧会されている先生方が今まで愛と謙遜を重んじるがために公にしてこられなかったことを、私が神学者の立場にないゆえにはっきりと言えたからなのかもしれないと思います。

多くの人の目に留まるということは、必然的に批判の的となってしまうことも、避けられないことだろうと感じます。

しかし、私の本意とは違って受け止められ、終末論の議論のために用いられることがあるなら、私の表現の仕方に原因があったのではないかと思い、改めて本意をお伝えしておかなければならないと思いました(一応本意は簡単にプロフィールに記載しているのですが…)



ハーベストタイムによって、諸説あるうちのひとつに過ぎない解釈を『これこそ真の解釈であり、その解釈でなければ本当に聖書を正しく理解したとは言えない』と教えられていたことがわかった時、とてつもないショックに襲われました。

何せこの教えによって、一致していた夫婦の信頼関係が荒らされたからです。

そして、客観的に見ることができたきっかけとは

『神学の眼鏡を通さずに聖書を素直に読んだ結果、第七のラッパは、終わりのラッパであるという確信に至ったこと』です。

 

ここからがお伝えしたい大切なお話です

ハーベストタイムの問題の渦中におられない方にとっては、私がここまで第七のラッパの解釈にこだわることは、単に患難期前携挙説の批判あるいは、デイスペンセーション主義に対する批判ととられてしまうのも、無理からぬことだと思います。

私自身もあまりの怒りにより、一時は振り子が振れすぎそうになりました。しかし、ある牧師先生との対話を通して、ハーベストタイムの何が問題なのか?ということに目を向けさせて頂きました。その先生は答えを一切言わずに、私にただ質問を繰り返すという形で忍耐をもって導いてくださいました。私自身から答えが出るまでひたすら待ち続けてくださったのです。

その忍耐と愛の教育課程により、

『この問題の本質は、自分たちと違う神学(デイスペンセーション主義における患難期前携挙説)だからではない』という結論を出せました。

怒りの向かうべき的は、人間ではなく背後に働いている悪魔※』であることもはっきりと確信できました。(※人間の弱さにつけ込もうとする悪魔の存在:追記3/3)

 

冒頭に申し上げた通りに、問題の本質とは『諸説あるうちの一つを断定的に教え、これこそ真理、これを知らない人に伝えなければいけない』と教えられることです。

その結果、自分は誰も知らない真理を知ってしまった。教会の兄姉に伝えなければ、となってしまうのです。

そう思って教会を去っていく兄弟姉妹はある意味被害者だと思います。自分が真理と信じる解釈以外の他者を、批判せざるを得ない立場に、知らず知らずのらうちに追い込まれていくのです。それ故このように導いておられるリーダーの責任は、大変大きいと思います

 

ハーベストタイムの中で学んでおられた兄弟姉妹は、本当に純粋で熱心で優しい方々ばかりでした。中には私の友人が牧会している教会から出てこられた姉妹がおられました。

友人は姉妹が出て行ってしまわれたことに、心を痛めているに違いないと思います。

私たちの群れから兄弟姉妹が出て行ってしまっている...。この事実を思うと、本当に悲しくなり、私ができることをしなければと思わされたのです。

それゆえ、私たちの群れにいた姉妹のことに思いを馳せながら、『私自身が問題に気づくきっかけになった終末論の解釈が、姉妹にも”人への盲信”という間違いに気づくきっかけになるかもしれない。』と、終末論についてハーベストタイムの解釈だけが正解とは言えないことをブログで訴えてきました

私が一つの矛盾と感じる点をお伝えしても、姉妹はそれを疑問には思われなかったということもあり、様々な角度から矛盾と感じる点を挙げ、どれかが目に留まるかもしれないと期待しました。

また、神学の目を通さずとも聖書は理解できるのだ』という自身のリハビリにもなっていました。

 

しかし、読んでくださる方の中に、この本意が伝わっていない方もいらっしゃることに気付かされたので、ここで謝罪をしなければならないと、この記事を書くことにしました。



私が問題を含むと捉えているデイスペンセーションは、その主義のほんの一部に過ぎないと思います。であるのに、デイスペンセーション主義からすれば、様々な幅のある主義を十把一絡げに取り上げて、「ここが疑問、ここが問題では」と指摘されるのは、甚だ憤りを覚える事だったと思います。これについては弁明のしようがなく、申し訳なかったと謝罪するしかありません。

『デイスペンセーション主義者を理解する』(ヴェルン・ポイスレス著)という書籍を完読し、その主義を理解しようと努力を惜しまなかったことは知って頂きたいです。

 

『他者を批判しているのには変わりない。この人は何も変わっていない。ただベクトルが変わっただけだ。』そう思われても仕方がなかったかもしれません。

ただ、神学の眼鏡を外して聖書だけを見つめた結果、こう書いてあると確信に至たったことを述べることが批判になるのなら、私は自分の意見をいっさい言わない方が良いということになります。

しかし、私は何者でもないことをよくわかっているつもりです。ちりにすぎず、ただ主の恵みにより、意見を述べることができます。

私が改めてこの記事を書き続けるためには、皆様に本意を知って頂く必要があると感じました。

 

その本意とは、

一つの神学だけが正解ではないと気付いていただくため、自分の立場からの確信を表現しているということ

愛する兄弟姉妹に思いを馳せながら、ハーベストタイムの解釈への異論を述べているということです

それぞれの神学的立場からの正解など、人間が不完全であるが故に無数に存在すると、謙虚に受け止めなければならないということです)

ハーベストタイム聖書塾に行っている間、自分たちは普遍的教会(天の教会)のメンバーであり、地域教会へは遣わされているという意識がありました。

これは歪んだ選民意識と言えるかもしれません。

地域教会へは遣わされているのではなく、召されているという意識が非常に大事であることをある先生から教えられました。本当にその通りで、その思いがなければ自分たちが満足できる教会を探し、教会を乗り換え続けるという結果になりかねません。

私を含め、このような歪んだ選民意識を持つ方が少数なのであれば、その人自身の問題かもしれません。

しかし、この問題は日本全国あちこちで多く起こっており、デイスペンセーション主義の教会でも、ハーベストタイムのメンバーによって分裂がもたらされています。それゆえに単に『受け取った本人達の問題』では済まされない根がはびこっていると、判断せざるを得ないと思います

 

 

最後に、先程の夫婦間の信頼関係が荒らされた話の続きなのですが、

私が真理と信じる事を大切にするために教会を去りそうになったときに、夫はその真理に同意できないにも関わらず、私についていくと涙を溜めて言ってくれたため、幸い分裂することはありませんでした。

私は神様を第一としなければとの思いで、真理を選びました。しかし、夫は愛を選んでくれました。一見神様より妻を大事にしたように思われる局面ですが、真理のために愛を犠牲にするなら、そこに神はおられません。夫は神様に繋がっていた証拠に、愛を選んでくれたのです。それはぶどうの木に繋がった枝のように、ちゃんと神様に根ざしているからこそ愛という実を結んだのです。

 

 

真理のためなら平和が犠牲になっても仕方がないそれはキリスト教として譲れない点以外での解釈においてですが)という思いは、霊の思いではありません

 

 

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ 8:6 新共同訳)

 

 

愛が動機であれば、なぜこれほど多くの教会に傷をもたらすのでしょう。その「実」はなぜか、真理(と、その方が信じる解釈)とは違う解釈への批判や攻撃、分裂を教会にもたらしています。とても難しいのですが、間違いを指摘してあげる愛とは異質のものです。

 

もしハーベストフォーラム運動に加わった元教会員の方が、このことに気付いて悔い改めの実を示して教会に戻られるなら、神様が悔い改める者を赦し受け入れてくださるのと同じ愛の実を結ぶと思います。

たとえあなたが間違っても、あなたを愛していますと受け入れてくださると思います。そのような愛の実を結ぶことができる教会こそ、神様につながった教会なのだと思います。

 

 「気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、⾷い合ったりしているなら、互いの間で 滅ぼされてしまいます。」 (ガラテヤ5:15 新改訳2017)

 

最も大切なことを、諸先生方を通して教えてくださった神様に感謝します。