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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

教会の奥義

前回の続きになります。前回の記事はこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

 

教会の奥義とは何でしょうか。

結婚がその型となっていると、聖書に書かれてあります。

 

「『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ5:31,32)

 

(※『教会』という言葉は、建物や組織を指しているのではなく、二人以上の信者の集まりのことを指して用いています。)

 

聖霊を通してキリストと一体となり、教会がキリストの命に満ちあふれるようになること、これこそ教会の奥義であることが、エペソ書全体を読んでわかります(夫婦の関係がその型であり、つまりここから教会はキリストの花嫁とも理解されます)。



教会を通して、キリストにあって私たちが一つであることを体験的に知ることができます。また、キリストに仕えるとはどういうことかを学ぶことができます

 

先日、ある姉妹から「ウォッチマン・ニーの証し」をお借りし、読ませていただく機会がありました。

とても古い本でしたが、キリストにお仕えする情熱・砕かれることの本質を改めて教えられる大変な良書でした。

特に、兄弟姉妹と共に奉仕に携わっていく中で、『どう考えても自分が正しい。しかし相手の立場を立て、立場における礼と秩序を保なければないらい。』というような状況で理不尽な扱いを受けることがあっても、それこそ自分に与えられた十字架であると受け止める、という内容が最も印象的でした。

その十字架から逃れようと自らの正しさを自己弁護するのではなく、イエス様がなさったようにただ従うとき、本当に砕かれてゆくのだと思います。

 

 

教会あるいは地域において互いに仕えあうことがなければ、このような経験はできないでしょう。もし様々な都合上教会に行くことが叶わないなら、それが与えられている十字架なのでしょう。

しかし、人との交わりを面倒だからと避け、ただ主を見上げたいという信仰であるなら、あなたを愛しはしますが十字架はお断りします、ということになるかもしれません。

『銀を練る者の火はとても私には耐えられないので結構です』と、混じりけのない純粋な者にされるための主の訓練を避けてしまうことになるかもしれないと思うのです。

自分が砕かれることは本当に痛みの伴うことですが、その痛みが深ければ深い程、十字架の恵みを深く味わうことができるのだと思います。

 

 

私は錬られることを恐れます。まだ砕かれる必要のある者だからです。しかしそれがイエス様に従う道なのであれば、その道へ導かれることを願います。

 

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ人への手紙 5:26,27)

十字架の御業によって私たちをキリストの花嫁として召してくださいました。私たちはふさわしい純白の衣を着て、花嫁の準備をさせていただくのです。

 

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

  子羊の婚礼の時が来て、

  花嫁は用意ができたのだから。

  花嫁は、輝くきよい亜麻布を

  まとうことが許された。

  その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(ヨハネの黙示録 19:7,8)

 

 

次回<火のバプテスマ>に続きます...