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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

火のバプテスマ

一応前回からの続きです(今までのは前振りで、ここに結論を持ってくるための記事でした)。前回記事はこちら→教会の奥義 - Misao’s bible diary

 

火のバプテスマとは何でしょうか。

私たちはそれを受ける様に召されているのでしょうか。

それとも、

そこから逃れて守られるのでしょうか

 

このことを通しても、ハーベストタイム(以下HTM)の主張されている患難期前携挙説が聖書と照らし合わせて絶対的に正しいといえるのか?という問を投げかけたいと思っています。

もしこの説が絶対的に正しいわけではないことに気付くことができたなら、以前の私のようにHTMが最も正しい解釈で聖書を教えてくれている、という全信頼(つまりは依存)の状態から、一度自分を切り離してみる機会となることを願っています。



〈火のバプテスマを授ける方〉


「その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」(ルカ3:16)

 

バプテスマのヨハネがイエスを紹介した言葉です。

ある方がこう言われるのを聞いて、初めて気付きました。

聖霊バプテスマと火のバプテスマ、この2つは違う」

 

それまで、『聖霊が炎のように降った』とも書かれてあるので、同じバプテスマのことを言い換えているのだと何となく受け取っていたのです。

しかし、ちゃんと2つのバプテスマを授けられる方であると紹介されています。

聖霊で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」と。

 

ヨハネは何故、イエス火のバプテスマを授ける方であると宣言できたのかと問えば、聖書(旧約聖書)にそう預言されていたからではないかと思います。

マラキ3:3には、「この方は、銀を精錬する者、清めるものとして座につき」とあります。つまりイエスは(火で私たちを清める)神であるというイエスの神性宣言です。

 

バプテスマの意味は

〔~に〕洗礼を授ける[施す]、〔~を〕清める、始動させる、洗礼する

とあります。(by アルク



 

 

〈火のバプテスマとは何か?〉

 

火でバプテスマを授ける理由は私たちを清めるためですが、目的は2つあるのではないかと感じています。

一つ目は御国に入るため

二つ目は捧げものとなるため

です。

 

「火」に関する記載は数多くありますが、そのほんの一部を引用します。



Ⅰペテロ1:7で、試練で私たちの信仰が試されることは、金が火で精錬されることに例えられています。

 

イザヤ1:25で、イスラエルの金かすを灰汁のように溶かし、浮きかすをみな除くといわれます。

 

ゼカリヤ13:8,9にも、火の中に入れ、銀を錬り金を試すように全地に残った彼らを試すとあります。

 

詩篇66:10は、神が銀を精錬するように私たちを錬られた、と記しています。



マタイ3:10では、良い実を結ばない木は火に投げ込まれると言われ、

マタイ13:39〜43には、終わりの日に、御国の子以外は火で焼かれることが書かれています。

 

Ⅰコリント3:13〜15主の日に現れる火が、それぞれの働きがどのようなものであるかを試すとあります。誰かの建てたものが焼けても、その人自身は助かると。

 

イザヤ4:4〜6はとても興味深くて、主が焼き尽くす霊によりシオンの娘たちの汚れを洗い落とすとき、主ご自身がシオンに現れるすべての栄光の上に幕屋となり、仮庵は避け所となるとあるのです。

これは黙示録7:15~16と繋がっていて、大きな患難を経た魂が、幕屋であるイエスの御前に逃れて神の安息を得ている情景と重なります。

 

エスマタイ24:16〜17「山へ逃げなさい。…家にある物を取り出そうと下に降りてはいけません。」と言われました。もちろんこれは、紀元70年のエルサレム陥落でペラに逃れたユダヤ人キリスト信者が、全員助かったことで成就したことでもあります。二重預言として、終わりの時にイエスが幕屋となってかくまってくださる、シオンの山へ逃げなさいの意味ともとれるような気がします。家にあるものを取りに戻る行為は、この世のものに心惹かれて後戻りすることで、それを警告しているとも受け取れます。

 

このように、驚くべき火の預言が多くあります。

 

(1)御国に入るため

 

主は私たちを火で精錬するお方です。

私たちは聖められなければ聖い神様の御国へ入ることはできません。

 

「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36:25~26)

これによると、

水によって私たちはすべての汚れからきよめられるだけでなく、石の心を取り除かれ、肉のように柔らかい従順な心が与えられるとあります。

石の心を取り除くとは、パウロが言うところの「御霊による心の割礼」(ローマ2:29)です。

肉体の割礼に激しい痛みがあるのと同じように、石の心が取り除かれるときにも、痛みが伴うのは想像に難くありません。『イエス様信じます。』という喜びと平安の前に、私たちは石の心が引きちぎられ、激しい苦痛を経験する。それはキリストの死にあずかるバプテスマ」(ローマ6:3,4)とも表現されています。

私たちの石の心は、キリストとともに葬られなければ、復活の命をともに歩むことはできないとパウロは言います(ローマ6:4,5)

 

これこそ、バプテスマのヨハネが紹介した火のバプテスマ」(マタイ3:11)ではないかと思います。

 

 

 

 

(2)捧げものとなるため

 

「彼らは、神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から贖い出されたのである。」(黙示録14:4)

この箇所から、私たちは贖い出された神と子羊への献げものだということがわかります。

献げものは聖くなければならないはずです。

キリストの死にあずかるバプテスマにより全く砕かれることこそ、完全に聖くされるための道です。

 

大患難期の前に、クリスチャンが天に挙げられるのだと、本当に聖書は私たちに教えているのでしょうか?

大患難期を通ると考えているクリスチャンは、大患難がどんなに恐ろしいものかをわかっていないからだ。という意見を聞いたことがありますが、それでも十字架の死の苦しみを知っている主は、聖書を通してこう語っています。

 

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」ローマ8:35 (新共同訳)

 

全てのことを通して私たちを練り清め、キリストに似た者に、献げものとしてふさわしい者にしてくださるのです。

 

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)

 

大患難に耐える信仰は私にはありませんが、主がとりなしてくださり、耐え得るように聖霊をくださっていると信じています。

「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

 

清められる火のバブマテスマを恐れます。しかし、これを受けるように召されているのか、逃れるように守られるのか、聖書のことばからしっかり判断しなければなりません。

 「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、」(ピリピ人への手紙 3:10)

 

 

 

過去の関連ブログ↓

患難期は私たちが受けるよう召された火のバプテスマの一部ですが、御怒りはその一部ではなく区別されることを、御言葉から検証しています。

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