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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

聖書に書かれている『患難』には区別があるか?(2-1)

※前回の続きになります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というべいりあん (balien)のブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 

課題2患難期に関わる問題

2-1信者が一般的に経験する患難と、患難期における患難を区別して考えることはできるのか。(←サイトへリンク)

 

まずはじめにこの質問の背景には、『患難期における患難を区別できれば、その特定の患難から逃れるために携挙され得る根拠の一つとなる期待』があると考えられます。

 

「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく」(Ⅰテサロニケ5:9)の御言葉から、信者である私達は御怒り=患難期の患難にはあわないのだ、と結論づける説教を聞いたことがありますが、そもそも御怒りが患難期の患難全体を指しているのか?がまず問われなければなりません。

御怒りとは何を指すのか、患難とどう区別されるのか?という問は次回の質問であるため、そちらの回答に譲ります。

 

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)

 

「その箱舟に入ったわずかの人たち…は、水を通って救われました。」(Ⅰペテロ3:22)

 

エジプトにいたイスラエルの民やダニエルの3人の友は、患難の只中にあって守られました。

エスの弟子たちは患難をもろともせず受け、殉教の死を遂げました。

何より、エスご自身が十字架という患難を通られました

 

このようなところから、患難の苦しみの度合いによる守りの区別はない、と言えると思います。どのような患難にも「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には(エク)、わたしもあなたを守る。」(黙示録3:10)「あなたがたを耐えられない試練に合わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)が適用され得るからです。

「全世界に来ようとしている試練」から守る方法は携挙しかありえないというのは、個人の主観による判断であって、御言葉から導き出せる結論ではないと思います。

 

「彼らをこの世から(エク)取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から(エク)守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17:15)

 

一つ例外を付け加えると、ロトがソドムの外へ逃れたのは、患難ではなく破滅から守るためでした。

 

聖書が貫いている原則からみると『患難からの救いの約束』とは、『患難の只中にあっても伴ってくださる約束』であると理解することができます。そしてそれはどのような患難においても約束されていることが分かります。

 

つまり患難についていえば、患難度4までなら地上で耐えられるよう守るけれど、患難度5(世の終わりレベル)なら地上から携挙して守ります、というような区別はされていないということです(※御怒りについては次回!)

どのような試練の時にも「わたしは、あなたとともにいる」(イザヤ43:2)のです。

  

「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(黙示録2:10)

 

究極の守りとは、身体に対するものではなく、霊と魂に対するものであることは聖書が示す重要な真理です。

「耐え忍ぶことによって魂を勝ち取るであろう。(口語訳)」(ルカ21:19)

「片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。」(マタイ18:8)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、…また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)



しかし『この世の終わりの印』として、一般に起こる患難と区別される患難期があるということを、聖書は何度も教えてくれています。それは守りにおける区別ではなく、世の終わりを見極めるための区別です。

 

産みの苦しみの始めである終わりの時代から、世の終わりの直前に起こるいわゆる『患難期』までを含めて説明しているのが、マタイ24:6~14でしょう。

「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。

 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。

しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」(マタイ24:6~14)

 続くマタイの個所、

「それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。」(マタイ24:19)「それらの日」は、患難期を指していると思われます。

「それらの日」の到来の印は預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしい者』が聖なるところに立っているのを見」ることです。

「それらの日」とは、産みの苦しみのピークのことを指していることが続きからわかります。「そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。」(マタイ24:21、22)

 

同じような、患難期についての警告は旧約聖書にも見られます。

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難のときが来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。」(ダニエル12:1,2)

「それは闇と暗闇の日。雲と暗黒の日。数が多く、力の強い民が、暁とともに山々の上に進んで来る。このようなことは、昔から起こったことがなく、これから後、代々の時代までも再び起こることはない。」(ヨエル2:2)



そして患難期の絶頂の場面であろう預言が黙示録16:18〜21にあります。

「そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来いまだかつてなかったほどの大きな地震であった。」(黙示録16:18)

しかし、

「その日が盗人のようにあなた方を襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ5:4)

 ※ここでの「その日」は文脈から判断して主が再び来られる時=主の日=突然の破滅を指していると察します。

「その日」「盗人が夜やってくるように来る」のに、盗人のようにあなた方を襲うことはありません」。それはどうしてか?信者は時を見極めていつも備えをしていられるからです。

「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」(マタイ24:32,33)

いちじくの木からの教訓とは、他の患難とは区別される患難期の患難から時を判断せよということです。患難期の患難の到来は、主が来られる日が近いことの印となると教えてくれています。

その備えは主への信頼をゆるぎないものとし、魂が守られ命に至るために有効です。

 

ですから私の今の結論は、

一般的に経験する患難と患難期における患難の、神の守りにおいての区別はないが、世の終わりのしるしとしての区別はある

となります。

 

 

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)