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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

再臨は2つに区別可能な出来事か?(1-3)

※前回の続きになります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というべいりあん (balien)のブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

課題1イエス・キリストの再臨に関わる問題 

1-3終末論において歴史的一般的に再臨として捉えられてきた出来事を、携挙と地上再臨に分割して捉えることは可能なのか;携挙と再臨が同時に起こる同一の出来事だと仮定せずに論じることは可能なのか。(←サイトへリンク)

 

この質問文は引用そのままですが、もう少し簡単に言い換えると、つまり再臨とは、空中再臨(携挙)と地上再臨とに区別可能な出来事か?ということになるでしょうか。

 

過去にも題が若干かぶってそうなのですが、書いた記事はこちらになります。

「空中で主と会うのです」Ⅰテサ4:17「会う」が、十人の乙女が花婿を「出迎える」マタ25:1と同じギリシャ語である事と、「来臨(パルーシア)」Ⅱテサ2:8Ⅰテサ4:15の本来の意味が、『入ってくる』である事の2点を根拠にした内容です。

 

では、『再臨は携挙と地上再臨に区別可能な出来事か』について示唆を与えてくれそうな御言葉を探していきます。

 

 「だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。」マタイ13:30

ここから、収穫の刈り入れは2度無いことを示唆されている事が分かります。刈り入れの収穫の時まで、毒麦も麦も、育つままにされると、譬えの中で言われているからです。

 

バプテスマのヨハネも、収穫のたとえを用いてキリストによる最後のさばきがある事を教えています。

「(私の後に来られる方は)また手に箕を持って、ご自身の脱穀場を隅々まで掃き清められます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」マタイ3:12

 

そして、いよいよ刈り入れられる預言が黙示録にあります。

「すると、別の御使いが神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に大声で叫んだ。『あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。地の穀物は実っています。』

雲の上に座っておられる方が地上に鎌を投げると、地は刈り取られた。

 それから、もう一人の御使いが天の神殿から出て来たが、彼もまた、鋭い鎌を持っていた。

すると、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ御使いに大声で呼びかけた。『あなたの鋭い鎌を送って、地のぶどうの房を刈り集めよ。ぶどうはすでに熟している。』

御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。」黙示録14:15-19

 

以上三箇所を比較すると、イエス様の譬えだけは毒麦→麦の順に説明しておられますが、しもべたちが「毒麦を抜き集めましょうか」と聞いてきた質問に対して主人が答えている場面ですから、焦点が毒麦にあるためだと思われます。

 

とにもかくにも、収穫の刈り取りはただ一度であり、麦(信者)はイエスに刈り取られ、御使いによって熟したぶどう(神に従わない悪い者)が刈り取られること。そして、御使いの収穫物はより分けられることなく、すぐさま神の憤りの大きな踏み場に投げ入れられることが分かります。良い麦も悪い麦も同時に刈り取られるのです。麦は倉に納められ、毒麦、あるいは殻は焼き尽くされます。

 

しかし、キリストはまず信者である者に携挙という報いを与え、悪い者へは艱難時代という報いを与えられると考えられるかもしれません。もしくは悪い者への最終的報いは艱難の後の最後におとずれるのだと考えるならば、艱難の間にも救われる者が起こされるという主張通り、御使いが刈り取った熟したぶどうの中からも、良い実を分けなければなりません。

 

別の御言葉を参照します。

 

「主は、私の主に言われた。『あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたのをあなたの足台とするまで』」詩篇110:1(マタイ22:44)

 

「キリストは、罪のために一つのいけにえを捧げた後、永遠に神の右の座に着き、あとは敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。」ヘブル10:12,13

 

すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、です。」Ⅰコリント15:25,26

 

この最後の敵であるが滅ぼされるのは、御座に着いておられる方によるさばきの後であることが、次の御言葉から分かります。

 

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。」黙示録20:14

 

つまり「敵を足台とする」とは、最後の敵である死を滅ぼされることであり、その時まで、キリストは神の右の座に着いておられるということです。

使徒3:21には万物の改まる時までキリストは天に留まっていなければならないとあるので、死が滅ぼされる時は、すなわち万物の改まる時ということになります。


前記事の課題1-1、1-2への回答で引用した御言葉も回答となり得るため、合わせてまとめると、以下のようになります。


1-1に対する回答で引用した御言葉から得る示唆をまとめると、

『来臨(パルーシア)』の意味は『来訪』や『到着』であり、どこの『来臨』も、区別なく同じ単語が使われています。キリストは『来臨』の時にその『輝き』によって敵を滅ぼすと書かれています。信者はキリストの『輝き』や『現れ』を待ち望んで地上生涯を過ごすべきだと随所で奨励されている為、わたしたちが待ち望むのは、秘密的な携挙ではなく、稲妻が東から西に閃くような『輝き・現れ』を伴った『来臨』であるということになります。『輝き・現れ』を伴う『来臨』が、区別された2回目の地上再臨の時だけであるなら、天上にすでに挙げられているクリスチャンがどうして尚も『現れ』を待ち望む必要があるのでしょうか。

「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」ヘブル9:28

 旧約時代の信者には、キリストの初臨と再臨が一つに見えていたように、現代の私たちにも、この「二度目」が2つの出来事であるのに一つに見えているだけなのだ、という主張は、一見あり得そうな展開ではありますが、御言葉が果たしてそれを本当に示唆しているか?ということを良く吟味してみなければなりません。

 

1-2に対する回答で引用した御言葉は要約すると、

キリストはすぐに、報いを携えて来ると言われています。その報いは、天から栄光を帯びて御使いと共に現れるときに与えられると書かれており、さらには良い報いと悪い報いは、み怒りの時に同時に起こる、とも書かれてあります。 

 

これらの示唆により、

キリストの再臨を携挙と地上再臨に分割して捉えることは大変難しいと考えます。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。

副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分と、今は心から思っています。