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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

信者へ(キリストの御座)の裁きはⅠコリ3:10-15、Ⅱコリ5:10等と矛盾なく説明可能か(3-3前半)

※シリーズの第15回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 課題3教会論に関わる問題

3-3(前半)

(1)信者への裁き(キリストの御座の裁き)について、患難期前携挙説はIコリ3:10–15やIIコリ5:10などと矛盾しない説明を提示することができるのか。

 

(2)できるとすれば、他の携挙論における説明よりも優位性があるものなのか。また、その優位性はどのように説明されるのか。

今回はこの設問を上のように2つに分けて今回は(1)、次回(2)について投稿致します。

 

(1)

信者も未信者も、最後にはキリストによって、その行いに従って裁かれるということを聖書は明確に語っています。しかしディスペンセーション主義によると、神の裁きは一回ではなく、三段階に分けて行われると考えられています。


ディスペンセーション主義における三つの裁きを紹介しておかないと前に進めないので、ここで簡単に…。

「キリストの御座の裁き」(Ⅱコリント5:10)・・・携挙の直後、教会時代の信者がその行いによって御国で受ける報酬を決めるもの。

「羊と山羊(国々の民)の裁き」(マタイ25:31-36)・・・大患難時代の後イエスが再臨される時、誰が千年王国に入るかを定めるもの。

「大いなる白い御座の裁き」(黙示録20:11ー15)・・・千年王国の後、未信者が自分の行いにしたがって火の池での永遠に続く刑罰に処される。

 

この三つのうちの、「キリストの御座のさばき」は、Ⅱコリント5:10が根拠となっているわけですが、その理由は教会時代の信者のさばきについて言及しているからです。

 

「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(Ⅱコリント5:10)

この聖句は、間違いなく教会時代の信者を含む「私たちはみな」が、キリストのさばきの座の前に出て、行いに応じて報いを受けることを語っています

しかし「私たちはみな」教会時代の信者だけを指している(旧約時代の信者と艱難期に救われる信者を除く)と判断する根拠は何でしょうか

「私たち人類は」という可能性はないのでょうか。「善であれ悪であれ」とあるとおり、悪い行いに対しても報いを与えられる事がわかりますが、ここで注意する点は、「悪の報い」が、信者に対するご褒美の軽減措置だとは書いていないということです。これが携挙直後になされる、教会時代の信者だけを対象とした御国での報酬を決めるさばきであると結論付けるのには、決定的判断に値する御言葉がない限り少々飛躍があると感じます。

 

次に、設問のⅠコリント3:10-15も、教会時代の信者のさばきについて言及していますパウロコリントの信者が受けるであろう神のさばきについての希望と警告を、彼らに向けて書いています。その点を踏まえて、この聖句とも矛盾なく説明できるかを見ていこうと思います。


直前の9節「あなたがたは神の畑、神の建物です。」に続いて、

 「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、

それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」(Ⅰコリント3:10-15)

Ⅰコリント書を通してパウロは、ただ栄光は神にあり、私たちが受けることになる最後の神の正しい裁きに照らし合わせて、私たちの地上の行いはどうかを吟味させています。

肉に属する人たちのように互いに言い争いをしていることを戒める文脈の中で、イエスキリストの土台の上に建てられた建物(=私たち)が、「その日」に現れる「火」によって明るみに出され、試され、報いを受けると言っています。

 

さて、火とともに現れる「その日」(Ⅰコリント3:10-15)とは患難期前携挙の直後でしょうか

次の御言葉を見てみます。


「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。

  だれが、この方の現れるとき立っていられよう。

  まことに、この方は、精錬する者の

  布をさらす者の灰汁のようだ。

  この方は、銀を精錬する者、

  きよめる者として座に着き、

  レビの子らをきよめて、

  金や銀にするように、彼らを純粋にする。

  彼らは主にとって、

  義によるささげ物を献げる者となる。」(マラキ3:2,3)

※現れる=רָאָה(appear:目に見える形で現れる)

キリストのとともに現れる「その日」に神に選ばれた彼ら(イスラエル)が精錬され純化され、義の捧げものをする者となると語っています。初臨と再臨、どちらも目に見える形でキリストが現れるため、この預言は二重預言であると受け止めています。

 

「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」(Ⅰコリント4:5)

主が来られる時、主によって私たちのすべてが明らかにされ、称賛という報いが与えられると語っています。

 

「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリスト現れるとき称賛と栄光と誉れをもたらします。」

(Ⅰペテロ1:7)

※現れる=ἀποκάλυψις(revelation:現し示す、発現)

キリストが再臨される時、洗練された金よりも高価な信仰が、称賛と栄光と誉れをもたらすという報いを受けます

「火」とともに現れる「その日」とは、すべての行いが明らかにされる日主が再び来られる世の終わりの日のことを指していると、以上の箇所から推測されないでしょうか。

 

 

その日(Ⅰコリント3:10-15)が携挙の日を起点とする患難期を指しているとするならどうなるでしょうか?信者は火とともに現れるその日に、火によって試されると警告しており、その火によっても建物が残れば、その人は報いを受けるという希望も語っています。教会時代の信者は火で試されることになります。これは艱難期前携挙説と矛盾しないでしょうか

もしくはクリスチャンが患難期の前に天に挙げられるのであればその日(Ⅰコリント3:10-15)=再臨の日にそれぞれの働きがどのようなものかを火で試されるのは、教会時代の信者ではなく、艱難期に入ってから救われる信者であることになります。

そうすると、上記に引用してきた信者への報いという数々の慰めのみ言葉Ⅰコリント3:10-15マラキ3:2,3、Ⅰコリント4:5、Ⅰペテロ1:7)は、地上再臨の直前の7年間に生きているクリスチャンのみへ適用されるみ言葉であることになってしまうということです。

 

結論
キリストの御座の裁きが、携挙の直後になされる信者に対する御国の報酬を定める裁きであるという説は、少なくともこの2つの聖句に矛盾せずに説明する事は、上記の理由から困難であると思われます。

 

 

次回へ続く・・・

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)