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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

贖いの日

『贖い』とは一般的に『金銭や物品を差し出してを償うこと。転じてそれに値する行為によって罪滅ぼしすることを指す。』(by Wikipedia)と理解されています。

 

では聖書で使われる『贖い』がどういった意味で使われているかというと、神への犠牲を通して私たち人間の罪を償われ、永遠の命を受け取ることです。

どうして贖いが必要なのかというと、聖書でいう罪とは創造主なる神と平和の関係に無いことを意味しているからです。罪の状態のままでいることは神のいない世界を望む事であり、そこは地獄と表現されています。罪を償うために神に差し出す犠牲は最も良いものでなければなりません。しかしそれを差し出したのは私たち人間ではなく、神です。私たちには神に差し出せる、何の良いものも持っていません。神の子であるイエスキリストを十字架で殺して犠牲とし、復活されたことによって死を打ち破って下さいました。私たちが罪の結果受けるべき死から解放され、永遠の命を得るためには、この事実を受け取るだけです。これが聖書の福音=救いです。

今これを読んで『イエスキリストの十字架の犠牲の死と復活が、私の罪の贖いの為に必要です』と受け入れたあなたは、この瞬間から永遠の命を受け継ぐものとされました。ハレルヤ!

 

以上最も大切な話を前置きにして、さて主題に移ります。

私はこのブログを、

主にネット上での曲解した神学の主張によって、イエスキリストに対する純粋な信仰を刈りとられてしまった人々をイエスキリストへの純粋な信頼に回復されることを目的に書いているからです。(これについてはまた別ブログで…)

 

「贖いの日」が記されている御言葉について見てみます。

 

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(エペソ4:30)

 

「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:13‐14)

 

艱難期前携挙説では、贖いの日は艱難時代とその前に起こる携挙を指していると捉えている方がいます。この前提を持つときに聖霊の内住(聖霊が信者のうちに宿ること)で押される証印こそが携挙にあずかり、御国を受け継ぐ印である。聖霊の内住というのは教会時代に起こることであって、艱難期前の携挙によって教会が地上から取り去られると、聖霊の働きは教会時代の前(ペンテコステ前)の状態に戻る。」という解釈が、上記二つの御言葉から証明可能となってしまいます。

※聖書で終末に起こると預言されている艱難時代の前に、その時点での信者(普遍的教会)が空中まで迎えに来た主イエスによって携え挙げられるという説。

 

この前提を成り立たせている御言葉の1つを見てみます。

「特にこの第七の月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。」(レビ23:26‐28)

「身を戒めて」(新改訳)は、新共同訳においては「苦行をし」と訳されており、へブル語では『心を苦しめて悔い改める』といった意味で表現されているそうです。この旧約聖書の一部の御言葉の意味とへブル文化の背景を、エペソ4:30の「贖いの日」に適用して解釈するとこうなります。「あなたがたは、贖いの日(苦行をして悔い改める期間=艱難期)のために、聖霊によって証印を押されている(教会時代に起こる聖霊の内住)のです。」(エペソ4:30)とも読め、艱難時代の苦行を味わわないで済むように、今悔い改めてイエスを信じ、聖霊を内に頂きましょう。となってしまうのです。

ここでやっている事は、聖書全体が指し示している「贖いの日」という意味を、御言葉に落とし込んで解釈するのではなく、旧約聖書の一部の御言葉の解釈を、聖書全体の「贖いの日」に適用しようとしています。

一見御言葉に基づいて解釈が証明されたかのように見えますが、問うべきは、贖いの日が艱難時代と、その前に起こる携挙の日を指しているという前提が聖書全体が指し示している意味と照らし合わせて正しいのか?です。

 

それをここで検証してみます。まずは、贖いをどう捉えるべきかについて詳しく書かれているへブル9:8‐28を読んでみましょう。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」(へブル9:15)

贖うための死とは、イエスキリストの十字架の死を指しています。贖われた罪人の私たちはどうなるかというと、永遠の資産を受けるのです。十字架の死は成就しましたが、まだ私たちは永遠の資産を手にはしていません。それを受け取る(=贖われる)のはいつでしょうか。

 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(へブル9:28)二度目、つまりもう一度イエスが来られる時に私たちは救われ、永遠の資産という報いを受け継ぐのです。

彼(主イエスキリスト)を待ち望む人々が、この報いを受け取るタイミングは地上再臨であることは、以下の箇所から分かります。

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(Ⅱテサロニケ1:7-9)→信者への報いと不信者への報いは同時に起こっています。

ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」(黙示録19:1-2)

   見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて… - Misao’s diary

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。 」(黙示録19:7)→地上再臨のタイミングで教会は花嫁の準備が整い携挙され、小羊なる主イエスとの婚姻がなされることが分かります。

そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカ21:25-28)

このように、福音書と書簡に矛盾はありません。イエスキリストによって与えられた「贖い」の啓示を土台にし、レビ23:26‐28を読むとより理解が深まります。

私たちの罪の為の贖いを成し遂げて下さった主イエスの十字架の苦しみを覚えて『喜び・感謝・従順のいけにえ』を携えること、そして『自分のからだ』を生きた供え物として、ささげるよう求められていることが見えてくるのではないでしょうか?

 

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 」(へブル10:12)

「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。」(へブル10:18)