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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

フィルター(前提)

一番最初の記事に、私がハーベストタイム・ミニストリーズ(以下HTM)に違和感を感じたきっかけは、終末預言の解釈であったことを書きました。

その終末預言とは、患難期前携挙説であり、そのきっかけになったみことばは、「第七のラッパ」に関するいくつかの箇所でした。

しかし、その箇所を目の前に置き患難期後携挙説に立つ方の反論を聞いても、全く指摘されるような矛盾を感じなかったのです。

これはある意味恐ろしいマインドコントロールのようなもので、自分の立っている前提が絶対に正しいというフィルターを持っていたからだと後で分かるようになりました。
同じように、迷いこんでいる方がこのブログを見ていらっしゃるなら、ここでそのフィルターを明らかにすることで、気付くきっかけになればと願っています。

そのフィルターとは、ヨハネの黙示録の、『第七のラッパの直前(第六と第七のラッパの間)が、七年間の患難時代の中間点である』というフィルターです

このフィルターがあったために、相手の説明の方が矛盾だらけであると感じ、受け入れられなかったのです。


例えば、『「終わりのラッパ」(Ⅰコリント15:51)とは、「第七の御使いのラッパ」(黙示録11:15)のことだ。』という説明です。
フィルターを持ってこの説明を聞くと、『そもそも第七のラッパは患難期の中間で吹かれるのだから、携挙の時に吹かれる終わりのラッパと同じであるはずはない。』と、バッサリ切り捨ててしまいます。

以下の二つの箇所は携挙の時のラッパとして知られています。
Ⅰテサロニケ4:16-17「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」

Ⅰコリント15:51-52「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

患難期前携挙説では、次の箇所のラッパは携挙の時のラッパではなく、地上再臨の時のラッパとして説明されます
マタイ24:29-31「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

携挙と地上再臨は別に起こるという立場を取るなら、
①携挙の時のラッパ(患難期前)
②艱難期の第七の御使いのラッパ(患難期中間)
③地上再臨の時のラッパ(患難期後)
は、それぞれ別のものであるという事になります。

①の携挙のラッパの記事は黙示録にはありません。なぜなら、人々が気づかないうちに、秘密的に携挙されるからです。
黙示録19章の③地上再臨の時にも、ラッパの記述はありません。
ということは①と③のラッパは比喩的ラッパということでしょうか?

(ラッパを字義どおりに読むとは?についての関連記事↓)
vitaminp81.hatenablog.com


この時点で、『第七の御使いのラッパは、終わりのラッパの事である』とか、『終わりのラッパとは、主が再臨するときのラッパである』という説明を聞いても、
『第七のラッパは、七年間の患難時代の中間あたりで吹かれる』というフィルターがあるため、それは矛盾!とはじき返してしまっていたのです。


しかし、黙示録10:7「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」 を読み、『???』と疑問に思ったのです。

神の奥義とは、一体なんだろう?


そこで、フルクテンバウム師の、8つの奥義について調べました。そのうちの
①メシアの花嫁としての教会の奥義(つまり携挙?)
イスラエルのかたくなさの奥義

がこの奥義の可能性ではないかと思いました。


第七の御使いのラッパが吹かれた聖書の箇所を見てみると、
黙示録11:15「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』」

そしてこう考えました。『もし②のイスラエルのかたくなさの奥義がここで成就したのだとするなら、異邦人の救いがここで完成して、イスラエルが民族的に改心した?でもそれならイスラエルが「主よ来て下さい」と叫ぶのでは…。』

しかし、主の再臨される黙14章までにイスラエルがそう叫んでいる記述は見つかりませんし、異邦人の完成の成るときにラッパが吹かれるという他の箇所での記述も見つかりません。

次に神の奥義について書かれてある聖書箇所を探してみました。
それは先ほどのⅠコリント15:51-52の直前にありました。
Ⅰコリント15:50-「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。・・・」

これだとしたら、①メシアの花嫁としての教会の奥義(つまり携挙?)と思い始めました。
すると、
①携挙の時のラッパ(患難期前)
②患難期の第七の御使いのラッパ(患難期中間)
③地上再臨の時のラッパ(患難期後)  以上三つはそれぞれ別。

だったのが、
↓↓↓

①携挙の時のラッパ=患難期の第七の御使いのラッパ
③地上再臨の時のラッパ

に、とりあえずなりました。
すると、『携挙は患難の前にあるはずなら、患難時代って鉢の裁きのことなの?』となってしまい、とにかくまだ

『第七のラッパは、七年間の患難時代の中間あたりで吹かれる』というフィルターのために、
①と③は同じとは考えられないのです。

しかし、何度も何度も黙示録を読んでいくうちに、黙示録11:19のいなずま、声、雷鳴、地震、大きな雹が、黙示録16:18-21にもでてくることに気づきました。

黙示録11:19「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま雷鳴地震が起こり、大きな雹が降った。」

黙示録16:18-21「すると、いなずま雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。 また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」


ここを読んだ時、
これは再記述の法則かもしれない。黙示録16は、11に起こることをもう一度詳しく書いていて、11:15で第七の御使いのラッパが吹かれるということは、ラッパの鳴るうちに起こることを、16章で再記述しているのかもしれない』と思いました。

それなら、11章から16章までに時間的流れがなく、挿入句が入っているということになります
(12章、13章は挿入句、14章でかまを持った主が地を刈りとり、
15章で7つの金の鉢が渡されますが、ここは例えて言うならば、ドラゴンボール孫悟空元気玉を『ううぉりゃ~!!』とためてフリーザを倒すのに30分間の一話分を使うような感じの記述法でしょう。わかります?)

17、18章では、大淫婦への裁きの幻があり、底知れぬところから獣が上がってきます。
19章ではハレルヤコーラス、白い馬に乗った主が、獣とにせ預言者を火の池に投げ込み、口の剣で残りの者を殺します。

まさに、17~19章は、再臨の主の裁きとフィナーレの記述であると思いました。

そして自分が持っているフィルターが絶対に正しいのだという思い込みがあったことに気づかされました。

第七の御使いのラッパこそ、終わりのラッパ。
ラッパの吹かれるときこそ、預言者たちに告げていた携挙の奥義が成る時、再臨の時
ではないでしょうか。