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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

主の日 (追記あり)

「主の日」
とは何なのかを、聖書から読み取ってみましょう。

「 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(2ペテロ3:10~13)

この直前に出てくる「終わりの日」(Ⅱペテロ3:3)「thye days」
上記御言葉の「主の日」「the day」であることから、「主の日」一日であると言えます。

また、HTMの再臨待望聖会で『主が来られる日(携挙)を早めなければなりません』と言われていたのが、私の中でしっくりきていませんでした。
しかし、私たちが患難期に会うのなら、「その日の来るのを早めなければ」ならない理由が分かります。患難期の後に主の安息が待っているからです。そして「選ばれた者のために、その日数(患難期)は少なくされます。」(マタイ24:22)と、患難を耐えることができるように配慮されます。このマタイ24:15-は、紀元70年に起きたエルサレム崩壊への適用がありつつ、終末に対する預言にもなっています。
マタイ24:22の直前で「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」(マタイ24:21)からもそのことが分かります。


別の御言葉を見てみます。
Ⅱテサロニケ2:2「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」
とは、どのような状況に対する忠告でしょうか。


「主の日(the Day of the Lord)」は、
聖書の他の箇所では「キリストの日(the day of the Christ(Messiah))」や、「主イエス・キリストの日(the day of Jesus Christ)」、「主の大いなる日(the day of Adonai)」とも表現されています。


以上の「主の日」とは、主が地上に再臨される日であり裁きの日です。
それは以下のみことばから明らかです。

「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちのイエス・キリストの日(the Day of our Lord Jesus Christ)に、責められるところのない者にして下さるであろう。」(Ⅰコリント 1:8 )
「本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日(the Day of Christ)に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり」(ピリピ1:10 )


以上のような箇所から、キリストが再び来られるときには、責められたり責められなかったりするということです。すなわち裁きがあることを意味しています。しかも、注目すべきは、その日を希望の日として語っていることです。

旧約聖書のゼパニア1:14やヨエル2:1-2でも「主の大いなる日(the day of Adonai)」は、主が裁き主として来られる恐るべき日として預言されています。

ですから、「主の日がすでに来た」(テサロニケ2:2)ということは、『主の大いなる裁きの日がすでに来た』と言いかえられます。


Ⅱテサロニケ1:4「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたすべての迫害と艱難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。」から、彼らは迫害と艱難の中にいることが分かります。

ですから、「主の日がすでに来た」ということによって 「落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」してしまう惑わしの内容とは、「主の大いなる恐るべき日」「神の御怒り」がまさに今、信者である自分たちにもふりかかっているという内容だと思われます。



では、当時のテサロニケのクリスチャンは、「主の日」に関してどれくらいの知識があったのでしょうか。

もちろん「主の日」とは主がもう一度地上に戻って来られる日であることは当然分かっていたでしょう。


少なくとも、その「主の日」は突然来ることだけは確実に分かっていたようです。
Ⅰテサロニケ5:2には、「主の日が盗人のように来ることは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」とあるためです。


この惑わしに対して、パウロはどのように励まし、訂正をしていますか?
Ⅱテサロニケ2:3「滅びの子が現われなければ、主の日は来ない」と言っています。
『今は耐え難い迫害と艱難の中にいるが、それは主の日の裁きが、あなたがたに訪れたからではない。まだ主の日は来ていない。』と訂正しています。 主の日には信者であるわたしたちに、裁きではなく報いが訪れるという希望に立返らせることが、この手紙の目的です
「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」(Ⅱテサロニケ1:7)からもそのことが分かります。



「このようにして、キリストの日に(the day of the Messiah)、わたしは自分の走ったことが無駄ではなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」(ピリピ2:16)
とあるように、主の裁きの日が、信者にとっては報いの日であることはクリスチャンが共有すべき希望でした。
ところが、『信者であっても主の日には神の裁きの怒りを受ける』
というような惑わしが当時あったと考えられます。




もし、艱難の前に携挙されるという希望をテサロニケのクリスチャンが共有していたのであれば「主の日がすでに来た」という「わたし(パウロ)たちから出たかのような手紙」が、惑わしになるはずがないのです。
艱難の前に携挙されるという希望を持っているテサロニケのクリスチャンが、「主の日がすでに来た」という内容のパウロたちからのように扮した手紙を受け取った場合、テサロニケ人たちにとってみれば、『あんた誰?』です。

主の日が来る前に信者が携挙されるなら、しかもその日は盗人のように来るのをよく知っているのですから、「主の日がすでに来た」という手紙がきても、それは絶対にパウロたちからではない偽物であることにに気付くでしょう。パウロは携挙されているはずだからです。本当にテサロニケ人を惑わすためには、パウロたち以外の、携挙から漏れる可能性のある人々からの手紙でなければなりません。それなら本当に、『あぁ、パウロたちは携挙されてしまったのだ。私たちは取り残されてしまったのだ!』と心を騒がせてしまうのではないでしょうか?

なのに、Ⅱテサロニケ2:2「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」
と忠告しています。

もう一つ艱難期前携挙に立って考えられる惑わしの内容は、ズバリ『主の日が来てしまった。なのにその前に携挙はなかった』というパウロたちに扮した手紙です。しかしそのような内容の手紙が惑わしとなるなら、2つの条件が必要です。
主の日が信者にとって希望の日ではない。

訂正に続いて、必ず私たちは滅びの子が自分こそ神であると宣言する前に携挙されるのだという希望を語るべきです。

①については、
今までさんざんパウロ主の日を希望の日として励ましの手紙を送っています

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ5:4)

エス様ももう一度戻って来ることを希望の約束として弟子たちに語っています。
マタイ24-25章のたとえ話においても、いつ主人が帰ってきてもいいように用意のできているしもべや娘たちは、主の日が希望となることを教えられています。


それとも、主の日は希望の日であることには変わりないけれども、その前に携挙かなかったという惑わしが、落ち着きを失ったり心を騒がせたりする原因となったのだと推測するのでしょうか?
それならどうして主の日以上に携挙が希望であると、他の箇所で教えていないのでしょうか?
この聖句の「主の日(the day of Lord・Messiah ・Adonai )」は再臨(裁き・滅び)を意味し、この聖句の「主の日(the day of Lord・Messiah ・Adonai )」は空中再臨(艱難時代の幕開け)を意味している、と解釈を施していくのでしょうか。それならその解釈をする基準は何ですか?あなたの信じている神学や主張でしょうか。

②についてはどうですか?
訂正に続いて、滅びの子が現れて、宮の中に座を設けて自分こそ神であると宣言することが、主の日が来る前兆の出来事であることを教えています。



「主の日」=再臨の日=携挙の日=滅びの日=裁きと報いの日であれば、主の日は信者にとって希望となるのです。







「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちにある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示録2:10)

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〈追記〉オバテヤ15「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは頭上に返る。」
→主の日は報いの日です。
ヨエル1:15「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」
→主の日は破壊、つまり滅びの日です。
ヨエル2:11「主の日は非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」
→主の日は一日です。(the daysではなく、the dayであることからも言えます。)