page contents

Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

オリーブ山での説教のマタイとルカの強調点の相違について(2-6)

※シリーズの第9回目になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

  

課題2患難期に関わる問題 

2-6オリーブ山の説教(マタイ24–25章;マルコ13章;ルカ21章)について

【1】マタイの記事とルカの記事における強調点の相違*について、どのように説明する(調和させる)ことができるのか。

【2】ここでイエスが示しておられる終末論は、旧約聖書の「主の日」と関係しているのか。

【3】ここでイエスが示しておられる終末論は、ダニエル書の「七十週の預言」と関係しているのか。

【4】ここでは携挙について言及されているのか。

*:前者(マタイ)は終末論的出来事、後者(ルカ)はエルサレムの崩壊に強調点が置かれている。

 

以上の4つの質問について、順番に取り組んでいきたいと思います。

 

【1】マタイの記事とルカの記事における強調点の相違*について、どのように説明する(調和させる)ことができるのか。

マタイの記事は王なるイエスの側面に焦点を当てて描かれ、ルカの記事は救い主の資格がある完全な人間なるイエスを描いていると言われています。

それぞれの著者が伝えたい焦点が違っているため、同じ出来事でも書き方が少し違っているのは周知の事であろうと思います。

 

さて、マタイは終末論的出来事、ルカはエルサレムの崩壊に強調点が置かれている、との見方で質問が展開していますが、ほぼ同じ内容を書きしているのにも関わらず、そう感じる理由は以下の部分にあると思われます。

 

ルカ、マタイの順に見ていきます。

ルカ21:20「しかし、エルサレムか軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」

マタイ24:15「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら―読者はよく理解せよー」

 

この前後の文脈はほぼ一致していますが、上記の言葉だけが差し替えられたように全く違っています

 

また、

ルカには「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)

とある一方、マタイにはこれに代わる記述は見られません。

 

しかしこのルカ21:24は、どこかで読んだ預言と似た内容であることに気付きます。

それはダニエル9:26b「次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。」です。

ルカは預言者ダニエルの名を出しませんでしたが、その代わりにしっかりと、イエスが話されたこのダニエル預言と重なる言葉を書き記しています

 

「異邦人の時が満ちるまで」(ルカ)「戦いの終わりまで」(ダニ)

エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ)「(都と聖所の)荒廃が定められている。」(ダニ)

 

マタイはダニエル預言の一部を引用することによって、同じ預言の内容が語られたことを省いているかのようです(※マタイ23:39で、律法学者やパリサイ人に向かってすでに都の荒廃が定められていることについて言及しているためでもあるでしょう)。

 

では、なぜマタイはダニエル預言を引用して近未来とも遠い未来ともとれる終末論的出来事として書き記し、ルカはダニエル預言を引用せずに近い将来にエルサレムに起こる預言をそのまま書き記しているのでしょう?

それは冒頭に記したように、マタイとルカの焦点の違いにあるのではないかと思います。

マタイの記事は系図に始まり、とにもかくにもユダヤ人に対してエスこそ王であることを指し示す事が最も重要な事項なのです。それゆえ、ダニエル預言の定められた七十週が過ぎたのちに「翼の上に、荒らす者が現れる」、つまり定められた七十週を成すために来られる油注がれた者はイエスであることを指し示すために、世の終わりまでの都の荒廃の預言を包括的に汲んで書き記している、と考えられます。

端的に言うとマタイの強調点は、イエスはダニエル預言の油注がれた者=祭司であり王だという視点を読者に与えることです。そのため、ダニエルの定められた七十週が成就し、次のステップの預言が実現に移っていくことを示すことによって、エスがその来るべき油注がれた方であることを暗示していると思うのです。



ルカの焦点は人となって歩まれたイエスですから、イエスが語られたことをそのまま異邦人にも分かりやすく記述していると考えられます。あくまでイエスは近未来のエルサレム崩壊を預言しながらも、「異邦人の時が満ちるまで」というような表現を用いて、終末論的預言もされているのだろうと思います。

 

 

【2】ここでイエスが示しておられる終末論は、旧約聖書の「主の日」と関係しているのか。

 

マタイとルカの強調点が違っていても、イエスが示しておられる終末論は、一つです。

 

旧約聖書の『主の日』については、この世が終わるただ一つの日、かつそこを起点に始まる長い期間を指していることを、過去のブログ記事で検証してきました。

ここは三段論法になりますので、ハテナ?もしくは異議あり!な方はぜひ、まずはじめに『主の日』とは何を指しているかについての記事をお読みください。↓↓

「主の日」と患難期の関係(2-4) - Misao’s bible diary



弟子たちはこう訪ねます。

「あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」(マタイ24:3)

この質問をした理由は、直前でイエス

マタイ23:39「『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」

と、

マタイ23:38「おまえたちの家は荒れ果てたまま見捨てられる」

と言われたことにあると思います。

 

「あなたが来られ」る時とは、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と迎えられる時、つまり王として君臨する時だと当時の弟子たちは捉えたと考えられます。

 「おまえたちの家は荒れ果てたまま見捨てられる」と聞いて、弟子たちは荒れ果てるなんてとんでもない、こんなに立派じゃありませんか!と「イエスに向かって宮の建物を指し示し」(マタイ24:1)ました。しかしイエスはその滅亡を預言されたため、その時はいつかを訊ねたのではないでしょうか。

 

 

それゆえ図らずとも、この質問によって弟子たちはまさに旧約聖書の『主の日』を訊ねています。地上再臨の時こそ、王となられるイエスによって裁かれ、この世が終わる時であり(黙示録11:17,19:6)、都と聖所は戦いの終わり=完全な平和が来る=世の終わりまで荒廃が定められているからです。

※黙示録の読み方についての記事はこちら↓↓

神の御怒りとは何を指しているか?それを逃れるとはどういう意味か?(2-2) - Misao’s bible diary

 

エスはしっかりとそれに答えて、どんな事が起こってから主の日が来るのか、そしてその日は信者にとって希望であることを教えておられます。

「これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:34,35 ルカ21:32,33 マルコ13:30,31)

 

ここで語られている希望は携挙による大患難の回避ではなく、この世が消え去っても決して消え去らない神の約束です。



【3】ここでイエスが示しておられる終末論は、ダニエル書の「七十週の預言」と関係しているのか。

前回記事の検証の結果(→前回記事)、イエスが示しておられる終末論は、七十週の預言の後に起こる「次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する」ことと、「翼の上に荒らす者が現れる」ことの具体的説明であると思われます。

都と聖所の荒廃は、エルサレム崩壊に始まり、異邦人の時の満ちるまで定められていることは、現在にまで及ぶ成就として見ることができるでしょう。

 

【4】ここでは携挙について言及されているのか。

 まず、マタイの記事から探ってみます。

マタイ24:40,41「そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。」

ここは携挙について言及されている有名な箇所です。このように、携挙はいつ起こるのか分からないから、目を覚ましていなさい、と続きます。

この直前39節では、ノアの日の出来事を引用して、いつ起こるか分からないことを教えようとされています。ノアたち8人は箱船に乗って助かりましたが、他のすべての人には突然の洪水すなわち突然の破滅が襲いました。その中から救われた者は一人もいませんでした。

マタイ25章についての過去記事↓↓

携挙と再臨は別々の日ではない根拠~聖書から見る矛盾点~ - Misao’s bible diary


次にルカの記事を探ります。 

ルカ21章で携挙について言及されていると思われる箇所は28節36節です。

 28節「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」「これら」と、

 

36節「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」「これら」は、それぞれ何を指しているでしょうか?

 

私はかつてこんな風に捉えていました。

 

 

❘――――――携挙❘―――❘

 ↑①これらのこと(28,31節)(迫害~)

                   ↑②これらすべてのこと(36節)(大患難期)

 

28節31節「これらのこと」は直前23~26節の天地が揺り動かされる等の文脈は修飾せず、8〜17節(11bを除く)を指していて、36節「これらすべてのこと」は、23〜26節を指していると解釈していました。

しかし、10~27節の終わりの日の前兆の説明の直後にくる「これらのことが起こり始め」 (28)が、大患難期に入る前の出来事を指していて、②「これらすべてのこと」(36)が大患難期を指しているとする線引きの判断は、ルカの記事だけでは困難です(22と、23の間あたりで大患難期に入る線引きがある等の判断はできないということです)。ダニエル七十週の預言の最後の一週が、反キリストによる大患難期であるとの、不確かなたった一つの根拠を持ってこなければ、その結論を導き出すことは不可能です。

 

しかし、現在は

❘―――――――❘❘携挙――❘

 ↑①これらのこと(28,31)(迫害~大患難期)

          ↑ ②これらすべてのこと(36)(主の日)

 

この見解によると28節31節「これらのこと」とは迫害~いわゆる大患難期に起こること全てを指しています。

 

ルカ21:36「これらすべてのこと」が何を指しているかを、もう一度よく読んでみる必要があります。

「これらすべてのこと」(36)の直前の34,35節を見てみます。

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日(天地消え去る日)が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。」

罠のように臨まないためには、気をつける必要があると述べています。

携挙されていたら、気をつける必要はありません。エスは、信仰者である弟子たちに対して語っています(マタイ、マルコ参照)

  

よってルカは、36節「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」と、携挙について言及していますが、これらすべてのこととは、「その日」すなわち天地が消え去る日に突然臨む神の御怒りのすべてのことであり、それから逃れて主に会うということであると考えられます。

 ルカ21章についての過去記事↓↓

これらすべてのことから逃れ… - Misao’s bible diary

 

 

ルカの記事を読んで、今こそ身を起こし、頭を上げるべきときであることを感じました。

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり(世界大戦)、大きな地震があり、方々に飢饉・疫病が起こり、」(ルカ21:11a)こはれは今まさに成就していることです。

「恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」(ルカ21:11b)

この「天からの大きなしるし」についてより詳しく説明されているのルカ21:25-27です。「それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」

天からの大きなしるしまでに起こるべきことは、もう既に起こっています。

反キリストによる大患難期はまだ訪れていないとか、第三神殿はまだできていないとか言っていてはならないと思います。

私達に命令されていることはただ一つ、その日が罠のように私たちに臨むことにならないように「目を覚まして祈ってい」(ルカ21:36)ることです。

 

~あとがき~

長い文章に最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。

今回の『マタイとルカの強調点が異なる』という設問も、非常に良い質問だなぁと感じました。しかも質問の順番が絶妙で、前回でダニエル預言の七十週をまずよく研究しなければ気付けなかった、新たな発見をすることが出来て感謝しています。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)