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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

神の御怒りとは何を指しているか?それを逃れるとはどういう意味か?(2-2)

※前回の続きになります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というべいりあん (balien)のブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 

 課題2患難期に関わる問題

2-2信者が「御怒り」を免れるという概念(ロマ5:9;Iテサ1:10;5:9)について

信者はどのような意味で「御怒り」を免れるのか。

患難期において「患難」と「御怒り」を区別して考えることはできるのか。

(←サイトへリンク)

 

まず問の中で提示されている御言葉を確認してみます。

「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」(ローマ5:9)

 

「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがてくる御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」(Ⅰテサロニケ1:10)

 

「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださっからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

 

御怒りからの救いとは、どういう意味か?ということですが、

Ⅰテサロニケ5:9の御言葉からは、『御怒りか、救いか』と対比関係になり得ることがわかります。御怒りの反対は救いであり、救いが点であれば、御怒りも点であると思われます。


「神の怒りは不従順の子らに下るのです。」(Ⅰペテロ5:6)

「神の怒りが不従順の子らに下ります。」(コロサイ3:6)

→裏返せば、信者には神の怒りは下らないということになります。

よって、【信者はどのような意味で「御怒り」を免れるのか。】の問いに対して、信者は神の怒りを受けるがその中で守られるというようなものではなく、受けないという意味で免れることがわかります。



次に、御怒りとは何を指すのか?に示唆を与えてくれる御言葉を見ていきます。

「見よ、主の日が来る。憤りと燃える怒りの残酷な日が。」(イザヤ13:9)

→神の怒りの日を、主の日と呼んでいます。

 

「あなたの御怒りが来ました。死者がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」(黙示録11:18)

→御怒りの時とは、報いが与えられる時であり、悪い者たちが滅ぼされる時です。

 

「子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示録6:16,17)

→黙示録で最初に出てくる御怒りであるため、6章(あたり?)からが御怒りであるという説明を聞いたことがありますが、「また私は、〜見た」の書き出しで始まる幻は、前後の時系列にとらわれないという読み方に落ち着き始めた私は、それとは全く違った見方をするようになりました。

 

黙示録は預言を時間順に書いているのではなく、ヨハネが見た幻をそのまま見た順に書き留めていっている構造になっていると思います。つまりある時点から終わりまでの幻を一旦鳥瞰図的に見せられ、また同じ出来事の一部分の幻を、地上的な視点からより詳細に見せられています。地震や雹、雷鳴、星が天から消えたり、太陽や月が暗くなる記述が何度も出てくるのは、患難期に何度も起きているのではなく、そういった再記述のためだと思われます。

 

6章全体は7つの封印の一つ目が解かれるところから御怒りの大いなる日までの幻で、全体が「また私は、〜見た」で始まるひとつのまとまりの幻になっています。6章16,17節の直前の12節では、マタイ24:29でイエスが言及された「太陽は暗くな」る現象が起きています。これは人の子が戸口まで近づいていることを教えるひとつの印です。

8章12節にも、太陽が暗くなる事が書かれてあります。ここからも、ヨハネは時系列に幻を書いているのではなく、同じ患難期に起こる出来事を、8章でより詳しく再記述していると思われます。

 

黙示録の再記述について詳しく触れている過去の記事はこちらになります。↓

vitaminp81.hatenablog.com

 

私は一切誰かからこのような読み方を聞いたことはありませんが、何度も読んでいくうちに自然と導かれていきました。合っているかどうかは分からないですし、このような解説をしてくれている説教者や本に出逢ったこともありません。しかし、再記述だと理解して読むと、納得できる点が多くあるのです。


よって、6章全体から「御怒り」は天が揺り動かされる現象の後に来るのではないか?ということが分かります。

 

患難期における患難と御怒りの決定的な違いは、患難期の患難はある一定の期間であり、御怒りの日は一日(the day)であることです。御怒りの日が大いなる日、主の日と呼ばれているからです。

そして御怒りの時に報いと滅びが与えられること、人の子が来られる直前に起こるとされる太陽や月星が暗くなる出来事の後に御怒りの日がくることから、患難期の患難と御怒りの日の関係が見えてくるのではないでしょうか?

 

ということで今の私の結論は、

信者は、御怒りを受けないという意味で御怒りから免れることを、御言葉は示している。

患難期の患難は一定期間であり、御怒りは一日(時:とき)で、しかも患難期の最後に訪れる。

となります。

 

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)




〜あとがきの祈り〜

ハーベストタイムミニストリーズ(以下H.T.M.)が主張する『聖書研究から日本の霊的覚醒が』によって、地域教会から心が離れそうになりつつある兄弟姉妹に届きますように。

聖書の学びを通して神のご計画が分かるようになったと心が燃えておられるでしょうか。

しかし、神のご計画は絶対に学んでおられる通りでしょうか。

御言葉の栄養を、神ご自身から受けることを拒んで中川師からでしか受けられなくなっていないでしょうか。

私自身がH.T.M.に熱心になればなるほど『初めの愛から離れてしまった(黙2:4)』経験をしたので、何が問題であったかを少しでもお伝えしたいです。H.T.M.が教えてくれることは、ほぼ間違いなく正しいと思い始めたあたりから、排他的信仰に移り変わり始めました。しかし、一つ理解が違うことが分かると、全面的信頼は崩れました。

全面的信頼という恐ろしいところにいたことが分かりました。それは神学を偶像のようにしている状態でした。

このシリーズでは主観的説明ではなく、客観的な切り口からH.T.M.が主張する患難期前携挙説に対する疑問を投げかけることを心掛けています。

H.T.Mに熱心な方はぜひ、少し一歩下がってこの事を見つめてみてくだされば、探られるきっかけになるのではないかと思います。私は他者様の信心を動かすことなどはできません。神様がそのことをしてくださいます。少しでもこの記事が用いられることを願っています。

必要な方の目にとまりますように。

(つぶやき…こんなブログを書いている人がいるよと、そっと拡散していただけたら嬉しいです…)