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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

携挙と再臨は別々の日ではない根拠~聖書から見る矛盾点~

患難期前に教会が天に挙げられるのだという

『患難期前携挙説』の矛盾に気づいたきっかけは、

『第七の御使いのラッパ』の不自然な解釈ゆえでした。

※聖書で終末に起こると預言されている患難時代の前に、その時点での信者(普遍的教会)が空中まで迎えに来た主イエスによって携え挙げられるという説。

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vitaminp81.hatenablog.com

 

次にさらに、携挙は患難期前に起こるのではないと確信を得た御言葉が二つあります。

それは、

「会う」Ⅰテサロニケ4:17と、

「来臨(再び来られること)」Ⅱテサロニケ2:8、Ⅰテサロニケ4:15

ということばです。

 

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:17)

 

この「会う」で使われているギリシャ語の言葉は、「会う」という動詞ではなく名詞で、『to meet』=『会うために行く』つまり日本語でいうところの『出迎える』という意味の動詞だそうです。

そしてこれと全く同じ動詞が使われているのが、マタイ25:1からの、花婿を迎える十人の娘のたとえです。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。」(マタイ25:1)

この「出迎える」が、Ⅰテサロニケ4:17で使われている同じギリシャ語の「会う」なのです。

 

・・・ということは、「生き残っている私たちが、…空中で主と会う(ために行く=出迎える)のです。」というのが本来の意味です。

 

花婿を出迎えた5人の賢い娘たちは、花婿を出迎えたあと、花婿がいたところに連れて行かれたのではなく、娘たちが待っていた婚宴場に戻ってきたのです。

これが、出迎えるという動詞の正しい使われ方です。

 

しかし、空中で主を出迎えるというこの場面を、患難期前携挙であると捉えるとどうなりますか?地上から空中に主を出迎えに行った信者は、また地上に戻ってくるのではなく、主がおられた天に連れて行かれるではありませんか。Ⅰテサロニケ4:17出迎えるという動詞が使われているなら、主(花婿)を迎えた後、主と共に地上(婚宴場)に戻ってこなければなりません

 

次に、

私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」(Ⅰテサロニケ4:15-16)

これは携挙を説明している御言葉です。↑

ここでの、「再び来られる」ギリシャ語ではparousia」(パル―シア)が使われています。

parousiaは『インマヌエルImmanuel』(『神われらと共に』の意)をメシアの名とした、イザヤ7:14の救済理解からくる言葉だそうです。(参考元:コトバンク

また、古代文書では王位のような位の高い人物が都に『入ってくる』ときに使われている、特別な動詞だそうです。つまり、その人物は都に入ってくるのであって、地上の信者を集めて元の天にまた戻るのではないということです。

天に戻ってしまえば、「インマヌエル」でなくなります。旧約聖書から読み解けるインマヌエルの希望は、地上の民のものではなかったのでしょうか?患難期前携挙説によると、144,000人のイスラエルは携挙後も地上に残されたままです・・・。

 

このparousiaが使われている他の箇所を見てみます。

 

その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」(Ⅱテサロニケ2:8)

不法の人が滅ぼされるのはいつでしょうか?

空中再臨(患難期前携挙)の時ではなく、地上再臨の時です。

 

Ⅱテサロニケ2:8parousia地上再臨を指し、Ⅰテサロニケ4:15Ⅱテサロニケ2:1parousia空中再臨を指している。という神学の読み込みをここに施すのでしょうか?ここではっきりさせておかなければならないポイントは、

 

・どこで使われているparousiaも、一回目・二回目などといった区別は無いこと。

parousiaの本来の意味は『(王が)入ってきて共にいる』・『臨在』ということ。

 

なのです。

※参考元:

 

 

 

この他にも、多くの根拠を聖書に見出しました。

1.七つの御使いのラッパ=神のラッパ=終わりのラッパ=大きなラッパ

フィルター(前提) - Misao’s diary

 

2.主の日=再臨の日=裁きの日=携挙の日=期間ではなく一日(the day)

主の日 (追記あり) - Misao’s diary

 

3.イエスの語る終末の預言は、語っている対象にも適用がなければならないということ。

不法の人の出現への忠告 - Misao’s diary

 

 4.信者が苦難に会うことは神の御心かどうか?

苦難と忍耐について - Misao’s diary

 

5.贖いの日=再臨の日=永遠の資産を受け継ぐ日(へブル9:8-28)

贖いの日 - Misao’s diary

 

6.麦と毒麦が収穫まで育つままにして置かれるというイエスのたとえ(マタイ13:24-43)

刈り取り - Misao’s diary

 

7.万物の改まる時まで、イエスは天にとどまっていなければならないこと。(使徒3:21)

 

などです。

もしそんなはずはないと思われたとしても、ご自身で一度これらの聖書の言葉を確かめられることは無駄なことではありません。御言葉を読み、自分が本当は何をアイデンティティとしているかを探って下さいと祈ってみて下さい。求める者には必ず主が、真理を悟らせて下さるからです。