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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題(4-1後半)

※シリーズの第16回目の後半になります。この記事の主旨を簡単に再掲いたします。

 

軌跡と覚書というブログで、患難期前携挙主義者が取り組む必要のある諸問題 - 軌跡と覚書という興味深い記事がありました。これほどまでに自らの立場を検証しようとされる熱心なご姿勢に、感銘を受けました。その一つ一つの項目を個人的に検証してみたくなり、他者様のブログから勝手なことですが、お許しください。

争うためではなく、「果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」べレアのユダヤ人たちのように(使17:11)、建設的な意図で御言葉を調べたいと思っています。

決してこちらの結論を押し付けようとする攻撃的な態度からではなく、これからこれらの課題に取り組もうとなさっている方々と共に、御言葉を探求したいとの期待によって取り組んでいます。

 

 その他の諸問題

4-1(後半)栄光の体を持っていない人々が千年王国に入るという問題:これが

(1)イザヤ書65:20や

(2)黙示録20:7–10の釈義から導き出せるのかどうか、考える必要がある。

 前半記事はこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

本記事では(2)を扱います。

 

さっそく、ディスペンセーション主義で『再臨後の千年王国』の後の描写であると受け止められている黙示録20:7-10を見てみます。

「しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれ、

地の四方にいる諸国の民を、すなわちゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海の砂のようである。

彼らは地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。」(黙示録20:7-10)

 原語と照らし合わせ、この箇所が再臨後の千年王国であると見るならば、気になったのは以下の二点です。

 

①悪魔が縛られて解き放たれるまでの千年間に、悪魔に惑わされてしまう諸国の民ἔθνη(nations)」(20:8)、つまりゴグマゴグ(神への敵対者たち)が地上に海の砂の数ほど存在するようになること。しかもここで諸国の民と訳されている原語は、他の多くの箇所で異邦人「Gentiles」とも訳されている言葉。

 

②惑わされるnationsとは区別される聖徒たちἁγίων(saints)も存在すること。

 

つまり、罪人・神に敵対する国々の民が地上に満ちあふれています。

キリストに贖われた人々は一つの国民とされるはずではないのでしょうか?

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(第一ペテロ2:9)

 

この 黙示録20~が、『再臨後におこる地上の千年王国とその後』の描写であると位置づけておられるハーベストタイムでは、惑わされる罪人が千年王国に存在するようになる理由は、肉体を持ったまま千年王国に入る者がいて、肉体の罪の性質が残っているからだと説明されています。

なんとももっともらしい説明なので、当時は、へ~!と思いつつも少し違和感を感じてもいました。

 しかし『千年王国が再臨後地上に起こる、肉体をもった者も入る国』という前提が、他の聖句と比較してどうなのか?を問い直さなければなりません。

 

前半でも確認したとおり、『死』はキリストにある死者がよみがえる時に完全に滅ぼされると書かれています。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。…そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15:54-55)

「そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」(Ⅰテサロニケ4:16,17)

 

死のみならず、天地も再臨の時に消え去ると、多くの御言葉が語っています。

 「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10)(主の日=盗人のように来る日・再臨の日・終わりの日)

※「主の日」についてはこちら↓

旧約聖書における「主の日」とは(2-3) - Misao’s bible diary

「主の日」と患難期の関係(2-4) - Misao’s bible diary

 「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。…天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:30,35)(マルコ13:24-25,31)(ルカ21:29-30,33)

「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。」(イザヤ34:4)

主の日、つまり再臨の日に天地は消え去り、キリストにある死者の復活によって死が完全に滅ぼされるのです。キリストの死者の復活の後に、患難時代を入れ込む余地はありません。なぜなら患難時代には殉教のがあるからです。さらには、再臨と新天新地の間に、「死」の存在する「地上の」千年王国を挿入する余地を見つけることもできないのです。

※キリストにある死者についての過去記事はこちら↓(『キリストにある死者』が、『新約時代に亡くなった信者』のみを指し、旧約時代に亡くなった信者は艱難期後~千年王国が始まるまでのどこかの地点で復活するという解釈について検証)刈り取り - Misao’s bible diary

 

黙示録19:19-20で獣たちが火の池に投げ入れられた後に、黙示録20で悪魔が鎖に繋がれたと読めない理由はもう一つあります。

それはちょうど創世記で出てくる『トルドット』(○○のその後の展開)のような記述法と考えられるからです。トルドットの例としては、創世記6:9,10「これはノアの歴史である…ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤフェテを生んだ」です。この前の章5:32で「ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ」と既に書いてありますが、同じ出来事をノアについての展開6:9~で詳しく再記述しています。同じように、黙示録20章からは悪魔の『トルドット』について記述してあると読めます。これは聖書の他の箇所にもよく見られるへブル的記述法です。

となると、「彼ら(悪魔に惑わされた多くのゴグマゴク)は地の広いところに上って行き、聖徒たちの陣営と、愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。」(黙示録20:9)は、再臨後もう一度起こる事ではなく、すでに前の章19:20にて記述されている出来事を悪魔についての展開で再記述していると思われます。

 

黙示録20:1から底知れぬ所に悪魔が千年間繋がれますが、繋がれたタイミングについては他の記者がこのように書いています。

「神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄(タータラス)に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。」(Ⅱペテロ2:4)

「またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために。永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。」(ユダ6)

悪魔をはじめ罪を犯した御使い達を、鎖につないで閉じこめられたと過去形で記しています。ということは、千年間の縛りは未来に起こることではなく、過去に既になされた事であることを示唆しています。

罪を犯した御使い達が裁きの日までつながれたのは、以下の箇所から子羊が彼らに打ち勝った時、つまり十字架の死と復活の時であると推測されます。

今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されますわたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(ヨハネ12:31,32)

「彼ら(獣に権威を委ねた王たち)は子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。」(黙示録17:14)

子羊が彼らに打ち勝つことが、イエスの十字架と復活のことだということが、神の右の座につかれたという以下の二つの御言葉から判断できます。

「勝利を得るものを、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示録3:21)

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、…」(ローマ8:34)

子羊が打ち勝った相手は『罪を犯した御使い達』とではなく『獣とともに一時だけ権威を受けた王たち』(黙示録17:14)と表現されていますが、彼らが縄目から解かれる時にその正体がわかります。

この穴の鍵が解かれる描写は黙示録9:1~で、中から出てきたのは「いなご」ですが、これが文字通り昆虫のいなごでないことは黙示録9:7-11からわかります。

「いなごたちの姿は、出陣の用意が整った馬に似ていた。頭には金の冠のようなものをかぶり、顔は人間の顔のようであった。...いなごたちは、底知れぬ所の使いを王としている。その名はヘブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオンという」(黙示録9:7-11)

アバドンとアポリュオンは聖書注釈には「破壊者」と記されています。これは悪魔の多くの呼び名の一つと思われます。(※悪魔の他の呼び名の例:試みる者(マタイ4:3)、誘惑者(Ⅰテサ3:5)、悪い者(Ⅰヨハネ5:19)、この世を支配する者ヨハネ12:31)、この世の神(Ⅱコリント4:4))

つまりいなごとは、悪魔を王としている者たち=悪霊たち=罪を犯した御使い達を現していると考えられます。

破壊者である悪魔を「底知れぬ所の使い」(黙示録9:11)と表現しており、悪魔も底知れ所(穴)にいることが暗示されています。

 ※黙示録の読み方が時間順ではないことについてはこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

千年間の縛りがイエスの十字架と復活によるとするならば、そこから二千年以上たっているため、千年王国とは文字通りの千年ではないと予想できます。私は個人的に『無限ではなく有限であるけれども、人間の感性でいえば非常に長い期間であることを現す数字』と受け止めています。

となると、千年王国とはいつのこと?!ということになりますが、その鍵となる御言葉を、実はイエスご自身も語っていました。

「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。『神の国は、目に見える形で来るものではありません。

「見よ、ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。』」(ルカ17:20-21)

 「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

エスキリストが地上に来られ、人々の間に住まわれ、昇天後神の右の王座に着いて聖霊を下し使徒2:30-33)、臨在の主・聖霊によって私たちを全く新しく作り変えてくださいました。それは地上にあっても、キリストにある私たちが、神の国の国民であるということではないでしょうか。そのことについて、ダニエルがはっきりと預言しています。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます。」(ダニエル2:44)

これを発見した時、鳥肌が立ちました。神は王たちの時代に一つの国を起こし、再臨によって他の国々は滅ぼされてもこの国だけは永遠に続くというのです。「主は地のすべてを治める王となられる。その日(主の日)には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」(ゼカリヤ14:9)

私たちは未来のメシア的王国を待たずして、神の国は既に私たちのただ中にあるということ、今エスは神の右の王座に座っておられ、私は既にその王国の国民であるということを思いました。

エスは人々が神の国がすぐに現れると思っていた」(ルカ19:11-13)ため、神の国について教える例えを多く語りましたが、それらの中に、地上を理想的な状態に整えたら主人(王、花婿)が帰って来た、という内容のものは一つもありません。むしろ与えられた賜物の用い方は様々で、良かろうが悪かろうが主人は帰って来てそれぞれに報いる、というパターンです。待っている人にとって、待っている間中も、到着する人物は主人であり、彼らはその支配下にある(しもべ、国民、花嫁である)のです。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)

 

 

今の私の結論は、

多くの御言葉が、再臨の時「死」と「天地」は完全に滅ぼされることを示唆しており、千年王国が再臨後に地上に起こる肉体を持った者も入る国であると断定する事はできません。

イザヤ65:20はヘブル的対句法により新天新地をエルサレムと言い換えており、新天新地においては死が完全に滅ぼされることを述べていると考えられます。

黙示録20:7-10は悪魔についての展開を再記述する『トルドット』と見られ、再臨後の千年王国の後に起こる事についての記述ではなく、同じ出来事の再記述であると考えられます。

よって、栄光の身体を持っていない人々が千年王国に入るというのは、イザヤ65:20、黙示録20:7-10の釈義から導き出すことは不可能です。

となります。

 

聖書からの抜粋は『抜粋』でしかありません。それぞれの抜粋の御言葉を、直接的文脈からもう一度読まれることをお勧めいたします。聖書は、複雑な解釈なしに、日常語として素直に理解できるように書かれているはずです。副読本やブログはあくまで参考の一つで、導き手は神ご自身で十分です。

また、この解釈の違いによって分裂するべきではありません。イエス様の言葉を一人一人が神学的解釈なしに与えられたまま受け取ることが最も素晴らしいことだと思うからです。

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)