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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

イスラエルと教会の一貫した区別への疑問

 艱患期前携挙説の疑問点を先に取り上げてきましたが、ディスペンセーション主義の中心であるイスラエルと教会の一貫した区別にも、疑問を抱き始めました。


イスラエルと教会の区別は新約聖書にも見られますが、贖われて一つの神の民とされた以上、その区別に固執する必要があるでしょうか。つまり、神の真実さの証明の為に患難前携挙によって教会は天に挙げられ、不信仰なイスラエルは残される』といったシナリオが、果して必要かどうかです。私たちの信仰のよりどころはどこなのでしょうか?(※追記2020.5/26)


これも聖書の御言葉を照らし合わせて見ていきます。


出エジプト記19:5-6
「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものだからであるから。 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

イスラエルの民が、神の民となったのはどうしてですか?今もユダヤ人が考えているように、血統によるのでしょうか?つまり、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫だからでしょうか?
もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならと神は言われています。

まず神はアブラハムを選ばれたでしょう。それはアブラハムの側の努力で選ばれたのではありません。一方的な神の恵みによります。
しかし、神は選ばれた者に信仰による従順を求められています。これが、「聖なる国民となる」条件です。
 条件と言ったのは、
「もし…契約を守るなら」とあるからです。
まずイスラエルが従順であったから、もしくは選ばれたゆえ「聖なる国民となる」のではありません。


神の民となるかどうかの基準は、血肉以上のものです。それが新約聖書一貫して神の取られている立場ではないでしょうか?



パウロも、このように言っています。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6:15-16)
ここでのイスラエルという言葉は、『選ばれた民』という意味で使われていると思います。このイスラエルの頭に、「この基準に従って進む人々、すなわち神の」がついていますから、『キリストによって新しくされた聖なる選ばれた民』ということになります。

※「すなわち」が他の訳では「そして」「また」と、「and」の意味として訳されているとのご反論を受け、もっと明瞭な以下の御言葉の引用に変更させていただきました。(※追記2020.5/26)

「しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。」(ローマ9:6-8)


ヤコブは初代教会に対して手紙を書きましたが、その初代教会に対して、「離散している十二部族の人々へ」ヤコブ1:1)と言い、新約のクリスチャンをイスラエルの十二部族の後継者、成就』とみていることが分かります。

※上記のヤコブ書は、離散したユダヤ人のみに宛てて書かれたものとの見方もあり、意見の分かれる箇所と判断し、削除いたしました。(追記2020.5/26)



ペテロは、諸教会に宛てて
「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、…」(Ⅰペテロ2:10)と語ります。

「それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。
『わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。「あなたがたは、わたしの民ではない。」と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。』」(ローマ9:25-26)

また、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Ⅰペテロ2:9)と語っています。
神の民でなかった人々、つまり異邦人に対して、イエス・キリスト使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々」(Ⅰペテロ1:1)と手紙の書き出しで呼びかけています。(※追記2020.5/26)


キリストによって神の子とされた私たちは、神の民・聖なる国民です




イスラエルと教会の区別については、聖書はどのような立場を取っているでしょうか?


「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、
また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:14-19)


「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」
(ガラテヤの信徒への手紙 3:23-29)

これらの御言葉から、その答えがはっきりと導き出せないでしょうか?


ディスペンセーション主義は、ハーベストタイムによると聖書が書かれた目的は神の栄光であると言っています。神の栄光のために聖書が書かれていることは、否定することはできません。その通りで、人間の知恵によらない神の力こそ、信仰の源です。
しかし、この有名な御言葉を忘れていないでしょうか?

「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番優れているのはです。」(1コリント 13:13)
聖書が書かれた最も大切な目的とは、神の愛を伝えることではないでしょうか。

素晴らしい福音は、その解釈は間違っているとか、神の計画を知らなければ信仰が成長しない等の分裂をもたらす言葉と共に蒔かれるべきではありません。
「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。…… 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3:16,18)

ユダヤ的視点、ヘブル的解釈は聖書を理解する一助になります。
しかし、例えイスラエルに神の契約が地上で果たされることこそ真理であったとしても、そう読んでいない人々に対して「軽視」が起こってしまうなら、肉の行いとなってしまいます。。

肉の行いは「分派」です。(ガラテヤ5:20)


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どうか、かつての私のように心を頑なにしないでください。
聖書のみことばから、神の細い声を受け取りましょう。