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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

苦難の中から生まれる賛美

お読み下さりありがとうございます。
あらゆる批判の溢れるネットの中に、小さな光を投げ込むつもりで書いています。応援して下さる方々に、とても励まされています。

今回も日々のデポーションの中で気づかされた恵みを、お分かちしたいと思います。
私自身が「高慢で何も分からず」(Ⅰテモテ6:3)、人を傷つけ、傷ついていたからです。
今こうして聖書を通して、私自身が間違っていたと教えられたことを記すことによって、読んで下さる方の、聖書を理解する助けになれたらと祈っています。


さて、讃美といえば詩篇ですが、
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」(詩篇22:1)から始まる詩篇22篇は、ダビデの苦難の中から生まれた賛美であり、この一節はエスが十字架の上で叫ばれた言葉です。


つづく詩篇22:6-8の、「人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。『主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。』は、イエスがまさにマタイ26-27で成就されました。

「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」(マタイ26:68)と人にそしられ頭を振りながら」(27:39)「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし神の子なら、自分を救ってみろ。」(27:40)と民にさげすまれ「『彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。「わたしは神の子だ。」と言っているのだから。』」(27:42-43)あざけられました。



エスは激しい痛みと苦痛の中、詩篇22篇の1節しか口にできませんでしたが、その1節を口にする事によって、その後に続く神への賛美も捧げられたのだと思います。

「けれどもあなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。」(詩篇22:3-5)


この詩篇の中でイスラエル賛美を住まいとしておられます」が目に留まりました。ダビデ詩篇において、全く状況は変わらずとも、苦痛の叫びから神への信頼の賛美へと転じています。それは苦難の中からイスラエルを救いだされた神に対する信頼の賛美です。苦難を通して、神に近づく民の賛美です。
つまり、イスラエルの賛美」とは、苦難の中から生まれた賛美であると思うのです。(※もちろん、艱難期前携挙説が、この世で一切の苦難を通らないと主張しているのではないことを知っています。私たちにやがて訪れる終末の艱難とは、イエスが通られた苦難のような苦難であれば、主に似た者となるために受けるべきではないか?ということです。選ばれた者のために、その期間は短くもされます。(マタイ24:22))


以前『クリスチャンの信仰とはメッキではなく金で、火で煉られることにより本物の純金にされていく』と聞き、その通りだなと思いました。

「わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。」(ゼカリヤ13:9)
このように、神は本物の信仰者を火で煉り、メッキではなく金かどうかを知るために、火でためされます。

その中で生まれた賛美こそ、真の賛美ではないでしょうか。私たちが信じている聖書の神は、その賛美を住まいとされるのです。

『私たちクリスチャンが艱難時代を通るはずがない』と言う言葉に、私は何に対する信仰によってアーメンと言っていたのだろうと思います。


それを断言する教師の信頼できそうな人格に?
長い時間をかけて積み上げてきた聖書のイスラエルの歴史的研究に?
その説を信奉している圧倒的なクリスチャン人口の多さに?
『神がそんなことをされるはずがない!』と自分の作り上げた神像に?



神は、イスラエルの賛美=苦難の中から生まれる信仰の賛美の中に住まわれるのです。苦難の中を守られた神への信頼から生まれる賛美は本物です。神は、このような賛美こそ喜ばれるということを、『住まいとする』と表現しているのだと思います。


しかし正直なところ、私は黙示録に記されているような艱難に耐えられないだろうと思います。だから、神のこの約束にすがるしかありません。「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

そして、イザヤ57:1‐2「義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もない。まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入りとは、
「死」さえも艱難を乗り越えるために用意されている脱出の道だと思います。最後の神の御怒りを地に注ぐ日には、地上から取り去られるのです。

これと同じ状況の人々が、黙示録7:14‐17に記されています。
「『白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか』と言った。そこで、私は、『主よ。あなたこそ、ご存じです』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。…彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。』」(黙示録7:14‐17)



エスは私たちが耐えられないようなそしり、さげすみ、あざけりの苦難と『死』を通ってくださいました
苦難の中にあっても神に信頼する信仰者の賛美の中にすまわれると仰られる神が、果たして私たちクリスチャンを、艱難に会わないように、苦難の中を通らないようにされるのでしょうか?それとも艱難の中を通っても守り導かれた私たちの賛美を住まいとされたいでしょうか



信仰を持って主に従うときに、神は箱舟という方法を示してくださいます。箱舟の中で、水を通って救われたのです。」(Ⅰペテロ3:20)



・・・。
分かっていても艱難は恐ろしいですが、「あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈」(ルカ22:32)ってくださるイエスにゆだねられますようにと、祈りつつ歩みたいと思っています。その時、もっと神に近付き、真の賛美を捧げられる者とされるからです。