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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

ハーベストタイムミニストリーズと出逢って

【ハーベストタイム・ミニストリーズとの出会いを通して私が経験したこと】


【ハーベストタイムの主張すること】


・ハーベストタイム(以下HTM)は、「ユダヤ的・字義通りの解釈と、教会とイスラエルの一貫した区別」を中心にしており、「これこそ正しい主義・解釈であり、教会はそう教えていない」と主張しています。
そして、「聖書研究なしに信仰の成長はあり得ない」「聖書の神を知ることなく、どうして神に信頼できるのか」「正しい聖書解釈によって霊的覚醒が起こる」と訴えています。


イスラエルこそ神の計画を読み解く鍵であり、教会にはイスラエル論が欠けていると指摘し、終末論を正しく理解することこそ、豊かなクリスチャン生活の動機となるとしています。
教会はその終末論をあまり教えておらず、その理由は、教会が終末論を正しく理解出来ていないからであると言っています。


・契約神学である教会は比喩的に聖書を読むため、自分達の都合の良いように様々な解釈をしているが、ユダヤ的に比喩は比喩として、その他は字義通りの解釈をすることこそ聖書を正しく理解する方法であると言っています。


【それを受け取った自分の内面におこった変化】


・私は聖書を学ぶことが楽しくなり、より深い聖書理解へと導かれていった。今まで断片的だった聖書知識が、創世記から黙示録まで一本の筋を通したように繋がり、分かるようになったと感じました。


・しかし、HTM側のこのような言葉によって、聖書をあまり読まないクリスチャンへの軽視が心の中で起こってしまいました。私は自分だけがHTMがいうところの「正しい聖書理解」を知っていることが、知恵の高ぶりに繋がると感じたため、周りの方々にもHTMを勧め始めました。


・HHTMが主張するようなことを教会は提供していないと感じ、私の中で教会に対する不信が起こっていきました。牧師のメッセージも素直に聞けなくなり、教会生活がダブルスタンダードで苦しくなりました。



【ハーベストの主張を耳にしたキリスト者の一般的反応】


・HTMのメッセージ内では表面的にはカルト的教会を批判しているが、神学・解釈の違いによって既存教会にもその批判は及んでいます。


・最も信頼すべきは神のみであると言いつつも、他者を「これは正しい」「あれは間違っている」と言う事で自分たちを高めています。そのため、聴衆は自分たちに客観的視点が与えられていると理解し、中川氏に信頼を置いていきます。時には聖書の言葉・神以上に信頼を置くようになってしまう危険もあります。



【私に起こった事〜問題から解決まで〜】

・HTMの聖書塾に通い続けながらも、終末論の御言葉の解釈に違和感を感じ始めました。その時、知人のある兄弟が、終末論についてHTMとは反対の立場に立っていることを知り、疑問に感じたため、数ヶ月に渡って対話をしました。


・同時に、HTMに所属する方が、ある教団内の教会内で起こした問題について、教会牧師より聞き知ります。その方は教会員であり、教会には公にせずH.T.の聖書フォーラム(家の教会)を開所運営したということだった。教会にとって私も懸念の対象となっていると理解しました。



・一方的にHTMの聖書塾をやめるように促され、納得がいかない中、「もし聖書塾を続けることが神の御心であるなら、今やめてもいつかは受けることができるはず」と確信し、神の御心を求め、探る形でH.T.の聖書塾の学びを辞める結論を出しました。


・夫はHTMを受け入れられない立場であるも関わらず、私がもし教会に居られなくなった場合、私についていくと言ってくれました。一方中川氏は3分で分かる聖書の解説の中で「妻が夫に従うべきか」の問に対して「信仰を守ることは権利であり、そのために夫に従えないのはやむを得ない場合もある。最終的には本人に任されている」と答えています。どちらが愛の実を結んでいるかは明らかではないでしょうか。


・一旦辞める決断を出すと、問題をじっくり見つめる時間が与えられ、今までよりも冷静な頭で終末論について向き合うことができるようになりました。
 ある兄弟の立場を受け入れられない理由に、一つのフィルターがあったことに気づかされました。そこで主義・解釈を通して聖書を読むことを辞め、聖書そのものに向き合っていく中で、み言葉からH.T.の終末論の問題点が分かってきました。み言葉が、今までとは全く違って入ってくるようになりました。


・更になぜ異端でもカルトでもないHTMの学びが問題を産んでしまうのかを調べていく中で、終末論のみならず、HTMの根本的問題の本質に気づき始めました。


・その時にははっきりと「カルトから抜け出た」ような感覚があったのです。




【教会にとって何が課題か】


 ・HTMを、良いとも悪いとも言えない状態の教会が多くあります。
 もし、この団体を客観的に判断できる材料があり、助言者がいれば、私自身がここまで傷を負うことなく気づくことができたのではと思う。
 はっきり申し上げられることは、H.T.の問題の本質を知り、み言葉に立って指摘することができなければ、諸教会にもっと大きな傷を残しかねないということです。


・み言葉の裏付けに基づいたH.T.の問題の本質についてはこちら↓
vitaminp81.hatenablog.com



【教会はどう備えていくべきか】


・HTMが教会に対して警鐘を鳴らし、攻撃の対象としている考えに「置換神学」「契約神学」があります。彼らはディスペンセーション主義者であり、これらはそれとは対極にある考えだからです。私たちがどんな土台に立っているのかわからなければ、「その土台は脆弱だ」とか「危険だ」という言葉に揺るがされてしまいます。HTMが批判するような主義神学に自分たちも立っているのか?まずは自分たちが立っている土台を知り、備えることです。


・HTMはそう言っているが、聖書は何と言っているか?それを一人一人が聖書から直接学ぶ力が今最も必要です。HTMはまさしく「聖書の学びによる信徒の自立」を訴えつつも、「正しい解釈」という名のフィルターを与えて、聖書を素直に読めなくしてしまいます。


・相手を知ることです。
 ディスペンセーション主義とは何か?
ディスペンセーション主義は、私たちをどこへ導こうとしているのか?私たちに、艱難に対する備えを失わせる可能性があります。
 もし艱難の前に取り去られない状況になった時に、艱難期前携挙説こそ神の約束と確信している場合、神への信頼はどう変化するでしょうか?


・諸教会が共に一致してこの問題の本質を把握し、祈っていくことが重要だと思います。第一の問題はディスペンセーション主義であることではなく、自分達こそ正しい解釈をしていると主張して、既存教会を批判していることです。


参考外部ブログ↓
www.logos-ministries.org

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