page contents

Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

不法の人の出現への忠告

テサロニケの手紙は、パウロが、テサロニケのクリスチャンを励ますために書かれたものです。

艱難期前携挙説によると、信者が天に引き挙げられたあとに不法の人(反キリスト)が到来することになっています。

しかし、艱難の前に天に引き挙げげられるという信仰があるなら、なぜ天に挙げられた後に起こるはずの事を、テサロニケのクリスチャンに手紙で知らせているのでしょうか?


Ⅱテサロニケ2章には、不法の人(反キリスト)が神殿にどのように現れる状況について詳しく説明し、気をつけるように警告を発しています。不法の人が現れる前に天に挙げられるなら、どうしてこの忠告をわざわざする必要があるのでしょうか?



Ⅱテサロニケ2:1-12によると、反キリストが現れなければ、再臨の主に会うことはないと書かれてあります。
「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。 だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。
(Ⅱテサロニケ 2:2‭-‬3 )


マタイ24:1-25:46には、
反キリストの出現、艱難期、再臨、この世の終わり、天の御国、裁きについて書かれています。
再臨についての内容の中で、携挙についても触れられています。

マタイ24:35で天地は滅びさることを語った直後、
24:36-37「ただし、その日、その時がいつであるかは、誰も知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうどノアの日のようだからです。」
と、言っています。

マタイ24:36「ただし」ギリシャ語が「ペリ・デ」で、話題を変える接続詞「ところで」であったとしても、次にくる「その日」は直前を指す言葉です。「その」が指し示す直前の36節には「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」
とありますから、その日=天地が滅びる日ではないでしょうか?


この点は譲ったとしても、
マタイ24:37-41が携挙の様子を説明しているのであれば、その説明として用いられているノアの日とは、どういう日でしたか?


洪水が押し寄せて、信者が助かり、不信者が一瞬にして滅ぼされた裁きの日でした。

突然来ることを 「ノアの日のよう」とわざわざノアを引用しているのは、人の子がくる日こそ、裁きの日だからではないでしょうか?


この点も譲ったとしても、ではマタイ24:27「人の子が来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」は、地上の誰もが主を見ることができる地上再臨の説明ですが、
同じ書き出しのマタイ24:37-41「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。…そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。…」の一連の説明は、裁きの日である地上再臨ではなく、空中再臨を説明しているのだとするのは無理がある ように感じます。普通に読めばわかるイエスのことばを、非常に難解にしてしまいます。

再記述の法則がここにも見られますので、24:4-14で艱難期からこの世の終わりまでを一旦説明した後、
24:15で反キリストの出現、24:21大艱難時代、24:27-31再臨、24:34-35この世の終わりを説明しています。
そしてもう一度、24:36-主が来られる時の様子と、報復についてたとえを用いて詳しく説明しているのです。

主が地上に再臨されて天の御国に招き入れられるのですから、地上再臨のたとえを語った直後の 25:1-で天の御国のたとえ話が続くのは、時間的流れから言っても自然の話の流れになっています。

ところがこの24:15-41を、 


①反キリストによる艱難期→②地上再臨と携挙とこの世の終わり→③天の御国
とシンプルに読んだ場合と、
(1)携挙→(2)反キリストによる艱難期→(3)地上再臨とこの世の終わり→(4)天の御国
という前提で読んだ場合はこうなります。
24:15-24① (2)反キリストによる艱難期の説明
24:25-35② (3)地上再臨とこの世の終わりの説明
24:36-41② (1)携挙の説明
続いて
25:1-③ (4)天の御国の説明

というように、イエスは話を行ったり来たりさせていることになります。イエスはいつもこのように弟子たちに話していたのでしょうか?もしそうならどうしてですか?弟子たちを惑わし、真理を悟らせないためでしょうか?

いいえ、主が説明されている流れ通りに自然に 
地上再臨と携挙が同時に起こると読めば、何の訳文の解説もなく理解できる文章なのです。


そして、艱難期前携挙説に立つ場合、反キリストがイスラエルと契約を結ぶ前に教会は地上から居なくなると解釈しているわけですから、24:33「そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」の警告の中の「これらのことのすべて」にあたる、(2)反キリストによる艱難期と、(3)地上再臨の前兆の説明は、携挙から漏れた大艱難時代をくぐり抜ける信者のみが収集可能な情報となってしまいます。
なのに、イエスはそれを見る可能性がゼロである弟子たちに一生懸命に語っていることになります。ユダヤ的字義通りの解釈に従って、この警告が第一義的には信者である弟子たちに語られているとするなら、その弟子たちにも適用が無くてはなりません。

少なくとも 「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが…」は、艱難期前に携挙されてしまう信者は見ることはできないことになってしまいます。



人の子が来るのはノアの日のように、思いもかけないときに来るという話の流れを変えずに、24:42-51のたとえ話が続けられます。ですからこの箇所も携挙に備えて、24:42「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」と警告しています。続いて25:1-30は花婿を出迎える十人の乙女のたとえ話ですが、25:13「だから、目をさましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないからです。」と同じように警告しているのに、これに関しては大艱難時代をくぐり抜ける信者にのみ適用されるとするのも、無理があるように思います。
かたや空中再臨の携挙への警告、
かたや地上再臨への警告という説明
は、矛盾していないでしょうか?

十人の乙女のたとえ話が、現在の信者に対してではなく、大艱難時代をくぐり抜ける信者にのみ適用があるとするのには、ディスペンセーション主義的な理由があります。
教会は花嫁としてすでに携挙され、花婿とともに婚宴場(つまり千年王国)に行くというシナリオは、ユダヤ式結婚の預言的成就であると見ているからです。
最後の御国の戸が締められてしまうため、このたとえ話が携挙への警告でありえないのです。なぜなら、携挙の後の大艱難時代にも信者が起こされるからです。


聖書から学ぶのではなく、こんなにも複雑に神学を聖書に読み込んでいかなければ、自論が証明できないようになっています。

神学から聖書の神の真実性を見出しますか?
それとも、聖書から聖書の真実な神を見出しますか?


他の関連記事↓
vitaminp81.hatenablog.com



#反キリスト #艱難期前携挙説 #空中再臨 #地上再臨