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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

思考コントロールを感じるメッセージ

書塾を卒業された方が、完全に中川氏と同じ解釈かというと、そうではないことがわかってきました。ハーベストタイム(以下HTM)での学びを足台として、さらにご自分の見解を展開されている方が一定数おられるということをお見受けします。というのは、いつまでもHTMから学び続ける信徒を作るのではなく、イエス様の直接の弟子作りをHTMは目的としているため当然で、その意味では成功者のようです。それゆえHTMの解釈に異論を投げかけたところで、「いや、それについては今私は中川師と別の解釈をしています。」状態で、相手のいないところに異論の矢を放っていることもあったのかもしれません。

そうした中でも、リーダーとなった卒業生が私的解釈などに陥らないように自立と共生を掲げ、各地フォーラムはゆるやかに繋がりを保っていると思われます。

HTMのスタンスはそもそも、『信徒がいつまでも牧師からしか栄養をもらえない霊的乳飲み子ではいけない。今は一人一人が聖書を正しく理解し、直接神様から栄養を貰うことができる万人祭司の新約時代にいる。』と教えているからです。

今は一人一人が聖書を読むことが出来る時代ですから、一見何の問題もない教えのように思えます。しかしこの『正しい理解』というのが、HTM的ヘブル的字義通りの解釈のみを指しているということは、HTMの展開する膨大な数のメッセージを聞けば聞くほど分かってきます。ここにも解釈の唯一性への訴えがあり、分裂の遺伝子をはらんでいると感じます。ちなみに、先に説明した自立と共生をもって緩やかに抑制している『HTM的私的解釈』とは、この解釈の土台から外れた解釈を指します。

 

そして独立していった祭司たちは、HTM的へブル的字義通りの解釈が唯一の土台と理解して、それぞれに独自の解釈を展開していっておられるのです。

 

ディスペンセーション神学に基づく学びは一つのベクトルを持っていて、ディスペンセーション解釈の枝葉がそこから様々にあるにしても、それらは全て一つの終末論へ導くと思っています。

それは、教会時代はイスラエルの中に挿入されたものであり、終末は民族的イスラエルが舞台の主役になるため、教会が患難前に取り除かれるということ。これは中川氏が訴える通り、患難前携挙こそがディスペンセーション主義にとって最も矛盾の無い解釈と言えると思います。

 

しかし、私の場合はそもそもディスペンセーション主義の解釈自体が数あるうちの一つの解釈であり、不確かなダニエル解釈に基づいてすべての聖書箇所を解釈していくものだと気付いたのです。それはもちろん、不確かさ故にその解釈が確実に間違っていると断定することはできないのですが、少なくとも私にとってはディスペンセーション主義への信頼の根幹を揺るがすものでした。

そして、ディスペンセーション主義がもし間違っていたら、終末論のベクトルも間違った方向を指していくことになります。

勿論それで救いを失うことはないです。しかしHTMの場合、このベクトルの違いをもって教会の中に分裂を招いているのは確かです。礼節をもって、「この度私たちの教会とは違う神学を学びたいので聖書塾に行きます」と牧師の許可を得て推薦状を頂くという、その大前提を飛び越えて入学できるシステム。むしろそのように導いていると感じる数々のメッセージ。信者の人間的な未熟さの前に、周りの意見を客観的に判断させなくする思考コントロールがあったと思います

教会は間違った解釈をしている堕落したものであると。そして別のメッセージでは、真理を知った私たちは、まだ覚醒していない人々や教会に真の聖書解釈(ユダヤ的解釈)を伝えるべきだと奨励しているのです。真理のためなら礼節を破ることも致し方ないとする心理状態へと導かれかねません。

 

前回記事で教会内で起こる大小の問題を通して聖化させていただくと書きましたが、それでも人間の不完全さゆえ様々な教派や教団が存在することが許されていると思います。なので問題の質によっては、通う教会を変わることもあっていいと思います。しかしその場合は、教会内に異なる教えを持ち込んで革命を起こしたり、無断で去るのではなく、礼節を保って牧師と話し合い籍を移して去るのは、信者としての前に社会人として守るべきモラルでしょう(※その教会がカルト化していなければですが)。

 

じゃ本当に、思考コントロールするようなメッセージが具体的に語られているの?という声も聞こえてきますので、例を一つ以下にご紹介します。

 

【具体的な問題だと感じるメッセージ箇所】

58分あたり~最後(リンクを張っていますので、お時間のある方はお聞きになってみてください)

ユダヤ的視点を失った解釈の例を上げて、教会にこの視点が失われていることが、弱点となっていると言っています。

・クリスチャン生活の動機は終末論にある。と説明した後、

ユダヤ人の救いを論じなくなった時、以下のような事が起こったとの説明に入ります。

①教会時代が千年王国であるという認識

②終末論に対する興味の喪失

③キリストの再臨に対する無知

④クリスチャン生活の動機の喪失

⑤Ⅰテサロニケ5:4~5の『その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません』の『その日』は携挙に始まる大患難時代を指しているとし、暗闇は真理を見えなくする、と締めています。

 

つまり、①~④は悲惨な結果の例として挙げ、ユダヤ的解釈でなければ暗闇の中にいて真理がわからなくなり、間違った解釈や喜びのないクリスチャン生活に陥ってしまうのだと訴えています。そして、唯一、ユダヤ的視点に目覚めて再臨待望を語っている団体こそハーベストタイムであると訴えています。

 

テレビなどの公共波は真実を伝えていない、悪魔の支配下にあるとする反ワクチンの世界観に通ずるものを感じます…。いずれも家庭や人間社会に、分裂や愛の冷え込みをもたらしていると感じます。

教会にもたらす問題の経緯の共通点

ーベストタイムについての話題を続けます。私が都合よく勝手に被害者になっているだけだ、と冷ややかな見方をしている方もおられるかもしれません(もちろん読者さんや、フォロワーさん以外にです)。

また、ハーベストタイム(以下HTM)が教会に分裂をもたらしているという事について、全く見たり聞いたことがない方々にとっては、『私はそうは思いません』と答えるのは当前だと思います。当事者になってみなければ見えてこない側面というのも事実だからです。

しかし、私自身の身に起こったことを勇気をもってブログで証させていただいた結果、実際に問題にあわれた複数の当事者の方々から直接実態を聞く機会が増えるようになりました。(※追記:教会から連絡を頂いたのではないので『当事者』と変更。2021/9.26)もちろんここで詳細について一切述べることは差し控えますが、私がこの件でお世話になったH先生の教会をはじめ、私が直接お聞きしたいくつかの問題事案には一定の共通点がみられる事がわかってきました。

 

①私の知る限りすべて健全な教会で、大きな原因(カルト化や、牧師の権威体制など)はない教会で起こっている。

②元々教会内に派閥など、牧師と信徒との信頼関係に問題があった。

③牧師の解釈への不満をきっかけに、元々牧師不信だった人たちにも不満が広がる。

④ハーベストタイムの解釈とは違う、あるいは否定的な牧師を、退任に追い込む。

⑤それが無理なら(④を経てか、あるいは経ずに)仲間と共に退会する。

⑥教会内に、なぜ兄弟姉妹が突然去ったのかという混乱が残る。

 

金太郎飴のように、経緯が同じなのです。

特に②は、問題の本質が何なのかをわからなくさせています。元々の問題に複雑に神学的問題が絡み合ってくるため、問題の渦中にいる人々にとっては、HTMが全ての原因ではないと思えます。しかし、そもそも教会は人間の集まりですから、何の問題もないなんてことはほぼないのが現実だと思います。

 

 

ここで考えて頂きたいのですが、どうでしょうか。教会に問題があることは教会として悪いことでしょうか。

大きな教会ほど、様々な考えの人が集まりますから、大小の問題は起こるのは当然だと思います。問題にぶち当たりながらも、相手を愛する選択をしていくことを通して、お互いがキリストにあって一つだということを確認していくことが大切だと、私は思うのです。

また、問題を通して相手を愛せない自分を見させていただいて、よりキリストにすがらせていただくことを通して聖化されていくと思うのです。

それも、教会生活を通して十字架を共に負わせていただくことの一つではないかと思います。

 

しかし、HTMの教えに深くはまった方々によって、問題がそのようにプラスに働くことなく、ベクトルが必ずと言っていいほど分裂へと向かってしまうのです。ある意味一致を失って弱体化しているところにHTMの教えが入り込み、分裂を決定的なものにしていっているようにさえ感じます。それがサタンの知恵だと思います。

HTMは異端ではないので、その語られる福音は本物ですが、携挙こそ信者の希望と語り、その教えを受け取った人のうちには、良い麦と同時に毒麦も撒かれていると感じます。(参照:本当の蛇(悪魔)の罠 - Misao’s bible diary

その人が兄弟姉妹のうちに愛という霊の実を結ぶのか、分裂をもたらす肉の実を結ぶのか。

神様との個人的な関係が死の直前(特に携挙の前に患難やこの世の終わりが来た場合)に神へのへりくだりとなるか、神への呪いの叫びとなるか。

いずれも後者を産む危険性をはらんでいる教えではないかと思います。そして実際幾人かは教会に分裂という実をもたらし、SNS上でもそのような言動をお見受けします。このように、共に撒かれた毒麦は、刈り取ろうとすると必ず良い麦も刈り取ってしまうほどに巧妙に紛れ込んでいます。

 

私たちの信仰がなくならないようにという、イエスのとりなしの祈りに信頼すべきですが、サタンも一人でも地獄へ引きずり落そうと必死だからこそ、私たちは信仰をはじめとする武具をとって戦う必要もあるのです。

 

このような共通点を見出していくときに、果たして私が訴えている問題が単なる被害妄想であるのか、私たちが戦うべきサタンの罠が紛れ込んでいないか、今一度吟味してみる必要があるのではないでしょうか。

牧師として、人々を一つの社会的思想へ導く事について

覧になられている方も多いでしょうか。

 

ハーベストタイムの動画をチェックする事はしなくなっていましたが、新チャンネルについての噂をお聞きし、拝見することにしました。



さまざまに存在する聖書解釈のうちのごく一部の解釈を社会現象にそのままあてはめ、「光の国であるアメリカに、必ず神の喜ばれるリーダーが誕生すると信じる」このように動画の中でつぶやく中川牧師。



光はアメリカ、闇はタリバンを始めとする武装組織によるアフガニスタン、という単純二極化思想。そこには、なぜタリバンのような組織が誕生しなければならなかったのか?という彼らの社会的背景を知ろうとする考えは全く存在しないのです。個人の社会的思想は自由でしょう。しかし、牧師としての発言を通して人々を一つの社会的思想に導いてしまうのは非常に危険な事だと感じます。ましてや特定の人物を賞賛し、片方をけなすような配慮に欠ける言動は、果たして本当に隣人を愛するという律法を守るクリスチャンのあるべき態度なのでしょうか?

 

ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。」(Ⅰコリント10:32)

 

とても単純なこの教えを破壊してしまっていると感じます。

 

私には全くこのような否がないとは勿論言えませんが、少なくともその影響力ある立場を持ってこのような発言はすべきではないと思います。




ハーベストタイム(以HTM)では、エゼキエルの預言にあるように、民族的イスラエルユダヤ人)は約束の地に、一度目は彼らの罪が裁かれるため、二度目は救いのために集められるといいます。一度目は捕囚という形でさばきに遭ったユダヤ人たちは、今度は患難時代に救いを受けるために今エルサレムに帰還してきていると確信しているのです。そのような聖書解釈から、将来は必ずユダヤ人はエルサレムに帰還するのだから戦争もやむを得ないとする、根底に静かに流れるシオニズム

 

正しい聖書解釈が霊的覚醒をさせ、人々を真の救いに導くとするHTMの教えは、確かに特定の国や政治を支持させるように導いています。アメリカこそ光であるとし、彼らの軍が人々を殺す事も聖戦のように思わせる『大義』を抱えています。




ある時「Misaoちゃんがハーベストタイムに傾倒していたとき、仮にイスラエルパレスチナ・イランが戦争になっていたら、どんな風に思っていた?」と信友N姉に聞かれました。

 

勿論、いよいよ終末の最終段階である反キリストの登場への足がかりが作られていくと感じていたと思います。表面的には戦争反対ですが、心情的にそれは聖書の預言・神のご計画故致し方ないとし、受け入れ難いものではなかったでしょう。「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)の御言葉通り、民族的イスラエルユダヤ人)は患難期に突入すれば、患難の間守られ救われるはずだと信じていたからです。それ故間違いなく、私がHTMに傾倒し続けていれば、民族的イスラエルが守られるように、つまりイスラエルが勝利し神の計画が前進するよう祈っていたと思います。

 

当時はそう信じて疑いませんでしたが、このような政治的発言によって、いかに恐ろしい思想を内包しているかを、今まさに実感しているのです。

 

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

マインドコントロールにみる共通点~その3~

前回の続き、その3になります。

『マインドコントロールの恐怖』(スティーヴン・ハッサン/著 浅見定雄/訳)という本を読み、ハーベストタイム(以下HTM)との関係性において自分に起こったことの共通点を見出してきました。 私が家族や教会との関係回復に至る方法にも感じられた共通点を著書の抜粋と平行して記しています。

まだの方は過去の記事からどうぞ↓

 

vitaminp81.hatenablog.com

家族の愛は、カルトのメンバーやリーダーたちの条件付きの愛よりずっと強い力である。家族の愛は、その人が自立した成年へと成長し、自分自身で人生の決定をする権利を支持する。カルトの愛は...その人をいつまでもだれかに頼る未成年状態にしておく。”(222項)

前回記事で詳しく綴った「H先生」と出会う前に、私が”真の解釈をしているHTMから学ぶことこそ真の信仰者として成長できる道だ”との決意を曲げない私の頑なさを溶かしてくれたのは、夫と母教会からの信友N姉妹と、U兄弟でした。

 

夫は、私が教会におれなくなったら私についていくと言ってくれました。夫もN姉も、私の決定に対して決して反対しませんでした(反対はしないけれど、もちろん同調もしませんでした)。

 

”カルトのメンバーと触れあうときにとれるいちばん効果的な構えは、好奇心に満ちた、しかし気がかりだという態度である。”(259項) 

”私の方法では、...彼が何に価値をおき、何を必要とし、何を欲し、何を考えているかをー完全に理解する事である。”(222項)

N姉は、私がHTMから学んだ素晴らしい事に共感し、ずっと完全に理解を示してくれていました。

そしてHTMの聖書塾を辞めなければ教会におれないという問題にぶつかったときも、私が最も大切だと考えていることを何度も質問し、確認してくれました。それは、神に従うべきことと、夫に従うべきであることについてです。『Misaoちゃんは、じゃ、今ご主人に行くなって言われたら、どうしたらいいと思ってる?』

これにはすぐに答えられませんでした。なぜならこの道こそ神様が開いて下さった道だと思っていたからです。それを今やめなければいけないなんて、神様どうして??と。

 

”カルト信者をカウンセリングするとき、私は決して本人からグループをとりあげり、グループから本人をとりあげたりしようとはしない。”(223項)

”かわりに私は、違った見方と可能性を彼に提供して、彼が成長できる道を探してやる。いろいろな選択しが存在していることを知らなかった人々にそれを知らせ、そして自分にいちばんよいと思うことをするように励ます。”(223項)

N姉は、決してHTMに対する悪い評価を言いませんでした。なぜなら私が選んでいるものを否定することは、私を否定することに等しいと理解していたのだと思います。そして無理矢理に聖書塾を辞めさせることもしませんでした

『でもMisaoちゃんは辞めたくないんだよね?』N姉は、きっと全力で行くのを止めさせたかったと思います。なぜなら私が聖書塾を今辞めないという決断をすることは、家庭を破壊させ、今後の私の人生を修復不可能なほどに傷つけてしまうことを、彼女は知っていたからでした。でも、私のよりよい決断を忍耐をもって引き出してくれました。『行っちゃいけないって言われたら、行ったらだめ...かな。』という答え以外私は導き出せませんでした。 夫にやめてとは言われませんでしたが、やめることを願っているのは明らかでした(※この時、HTM傾聴者によって破壊や分裂がもたらされた複数の教会の事例が明らかになったためです)。

 

”その人の中核の自己との結びつきに成功することーその人がカルトをやめるたすけに私がなれるのは、これによってである。”(223項)

 私がN姉との対話を辞めず、忠告を聞き続けられたのは、彼女との間に私の中核の自己との結びつきが母教会時代からあったからこそでした。 

対話の中で、私が通っている教会員に対しては真理を知ってほしいと焦る気持ちがあるのに、母教会の兄弟姉妹に対しては感じないことに気付かせられ、葛藤を感じ始めました。母教会の人たちは、私の本来の人格を受け入れ育ててくれた人たちだからでした。「私の考えのまま行くと、彼らの信仰をも否定することになる…」とその時気づいたのです。それは意図せず、マインドコントロールを解く鍵第4項目の『カルト以前の人格に触れる』の方法でした。

 

”人々は成長し、学ぶことに興味があると私は信じるので、私の方法もまた、教育的なものである。私はたっぷりと教育をするー心理学のこと、コミュニケーションのこと、マインドコントロールの問題、他のカルトのこと、また特定のグループの歴史、指導者、教えの矛盾について、たっぷり教える。”(223項)

 その時なぜか同時に、艱難期前携挙説についての疑問を投げかけて、対話を続けて下さったU兄弟がいました。このN姉妹とU兄弟の二人を、神様は最もよいタイミングで全く別のところから私に遣わされました。

 

”私がこの目標に「本人をグループから出す」ということを含めていないことに注意してほしい。意図的にそうしたのである。人々は変わり成長する、その自然の結果として、破壊的カルトから抜け出すということを私は知ったからである。”(253項)

 N姉妹が、わたしがHTMを絶対視する考えから抜け出さなくても、私との関わりを続けようと決めてくれていたそうです。

そして「牧師の推薦状なく入塾でき、卒業すると牧師のような資格が取れることについてどう思うか?」「女性教師についてどう思うか?」など、彼女なりに見いだしたHTMへの様々な疑問を投げかけてくれました。

目的は私の結論を変えることではなく、私の考えに足りないことを提供することで、私がもっとより成長することを願ってくれていたからでした。それは私への愛が動機であり、結果彼女の愛のおかげで私はより良い判断を下すことができたのです。

 

 そして何よりも不思議なことは、N姉妹はカルトの救出方法のノウハウなど全く知りもしないのに、カルト救出のその方法とほぼ同じようなアプローチで私の心を溶かしてくれたということです。

 

このように私の身に起こった実際のことを照らし合わせていくと、解放される方法にさえ、カルト的共通点があったことを認めることができます。

やはり私が教理の矛盾について発信し、一人でも多くの人の目に留まることを期待する方法は、あながち間違った方法ではないと思いました。

これは何に対しても言えることですが、より多くの情報を得て判断するなら、私たちはフェアなのだと思います。

患難期前携挙説と患難期後携挙説、どちらを支持していてもその人の救いは変わらない、全くその通りだと思います。私の敬愛する多くの牧師先生は患難期前携挙説を取っておられます。しかし私はこの思いから、患難期前携挙説の聖書との矛盾について発信し続けるのです。決して言い争いや議論の為ではなく、足りない情報によってコントロールされてしまっている兄弟姉妹がいるならと。

 そのような方が、このブログで投げかけた疑問によって思考停止の作用から解かれ、一度よく考えてみるきっかけが与えられるなら本当に幸いです。 

 

ここまでに至った過去の関連記事はこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

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最後まで読んでくださりありがとうございます。

マインドコントロールにみる共通点~その2~

前回からの続きになります。

まだの方はまずこちらの記事をどうぞ↓

vitaminp81.hatenablog.com

ハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)に、マインドコントロールの基本的構成要素のいくつかと共通した手法が見られたことをお伝えしましたが、私が問題解決に至った方法にも共通点が感じられました。



前回記事で触れたマインドコントロールの基本的構成要素「情報コントロール」の中にあった”現実世界は白か黒か、善か悪かの二者択一”となるカルト的心理について、まさに私はこの心理状態に陥っていました。つまり、私自身がそういった「白か黒か」の思考パターンにどっぷりはまっていたのです。

 

 私がHTMの解釈に矛盾を感じ初めた頃、私の教団の別教会のH先生が、突然私に直接会いたいと言って来られました。最初は、きっと「なんで牧師に内緒で聖書塾に行ったの?」などと、いろいろ責められるかもしれないと思っていました。

ところが「一生懸命で純粋な思いを、取られちゃったんだね…」と言われたのです。

 

「ああ、全部知ってくれているんだ…、私がただ正しいことをしたいという純粋な動機だけだったことも。私が教会の敵になりたかったわけではなかったことも…。」

 

その時、どっと涙が溢れました。それまでずっと孤独な闘いだったのです。教会の中で私の混乱を理解してくれる人は一人もいなかったからです。家族さえも問題の本質が分からず、お互いに何が問題なのかが全く理解できない状態でした。

 

そのあとも、矛盾に気づき混乱している私の状態をよく理解してくださり、対話の関係を保ってくださいました。「黙示録を今の時点でよいのでまとめてみることは後の益となります。わからないことがあれば質問してもいいですよ。」と言われやってみました。

私は尚も白黒つけたがっていました。正解を知り、不正解を排除したがっていました。黙示録の言葉の解釈を、「私はここをこう教えられていましたが今はこうだと思います。」と伝えると、先生は解答を仰らずに「本当ですか?じゃ、これは?」と次々と別の箇所の質問を続けられました。何度も何度もそのようなやりとりをし、私が「これはこうだと、今はそう受け止めています。」とついに言ったとき、先生が「Misaoさん!その気持ちこそ最も尊いことなのですよ!」と仰いました。私の白黒つけたい気持ちを単純に否定せず丁寧に扱い、私の口から断言しない言葉がでるまで忍耐し、様々にある解釈の内の一つを断言する事のおろかさを教えて頂いたのです。神のご計画を人間が掌握することができるのだという高慢こそ恐ろしい事だと、そのときやっとわかったのです。

H先生は丁寧に思想コントロールの「抜き」の作業を行ってくださったのだと、後になって分かりました。

 

引き続き著書には、 カルトのマインドコントロールを解く鍵が以下のように項目化されています。※( )内は内容筆者補足

①親密な関係と信頼関係をきずく。

②目標重視のコミュニケーションをする。(相手を理解する)

③人格のモデルを作り上げる。(彼自身と彼の理想モデルを想像し、返答パターンを想定する)

④カルト以前の人格に触れる。

⑤現実世界をいろいろな角度から眺めさせる。(たとえば相手の立場になって考えさせてみる)

⑥間接的に情報を与えて、思考停止の作用をさける。

⑦カルトのそとでのしあわせな未来を思い描かせて、恐怖の教え込みを解く。

⑧マインドコントロールとは何か、また破壊的カルトとは何かを具体的に説明してやる。

(266項)

私を回復させてくださったのは、実はH先生だけではありませんでした。

配剤された人々によって、上記項目の7、8以外は全て私に働き(8については後に自ら本で学び)、健全な考え方に戻ることが出来たと感じています。

その配剤された人々とは、母教会からの信友N姉妹と、彼女とは全く連絡を取っていないはずのU兄弟でした。

 

次回へ続く…

マインドコントロールにみる共通点

どうして多くの人がハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)にひきつけられていくのか。

自分の経験を分析してみるという方法によって、そこに感じた共通点をみていこうと思います。

 

 

思うところがあって、また導きもあって、私は『マインドコントロールの恐怖』(スティーヴン・ハッサン/著 浅見定雄/訳)という本を手にしています。

そこには、マインドコントロールに自分だけはかからないと思っていることは危険であり、誰もがマインドコントロールにかかる可能性があるという現実を以下のように忠告してくれています。

”人々は、カルトの犠牲者を見ると、よくまちがってこう言う。「なんと弱い精神の持ち主なんだろう。あの人は自分の責任から逃避して、自分の人生を他人にコントロールしてもらう道を探していたのに違いない」こうして人々は、同じことが自分にも起こりうるという現実を認めないのである。カルトのマインドコントロールの犠牲となった何百万の人々よりも、自分は強くて立派だと信じたいので、「それは自分には絶対起こらない」と信じる。”(87項)  

ですから、私はマインドコントロールされてしまう人に誹があるのではないと言いたいし、マインドコントロールされる人が格段特別な背景や性格をしているのではないことも、まずお伝えしておきたいのです。

 

そして、マインドコントロールされた本人(著者はもちろん私も)は、何も分裂を生み出そうとかいう思いは一切なく、

”ただ、正しいことをしたかっただけである。”(45項)

 という心理状態だったのです。

 

 

以下、

この著書の本文をかいつまみながら、私が経験したこととHTMに感じることを重ねる形で記してみます。

 

 【マインドコントロールを達成するための…三つの段階「解凍・変革・再凍結」】 

  1. 解凍 

    ”混乱はふつう、矛盾する情報が一見調和したかたちで伝えられるときに生じる。...長期間そのような混乱させる言語と情報を聞かされ続けると、だれでも自分の批判的判断を中止してしまうのがふつうである。そして、ほかの人々がみなやっていると思うものに自分を合わせてしまう。そのような環境では、ほとんどの人は相手よりも自分を疑い、集団の方に従う傾向がある。”(130項)

    「今まで聞いていた解釈は実は間違っていた。」いままでの解釈の常識を覆され、聞いたこともなかった「へブル的字義通りの解釈」と「ディスペンセーション主義による解釈」この二つの解釈によって、修正された解釈の方が聖書に調和しているように教えられました。「テレビ伝道でおなじみの中川先生が権威ある口調で語っている」「多くの人がこのメッセージをアーメンと頷きながら聞いている」このような状況で、今まで聞いていた自分の解釈の方を疑わないでおくことは難しいのではないでしょうか。

      

  2. 変革

     ”「変革」の過程では、この反復はみな、いくつかの決まった中心的テーマに集中する。新会員は、世界がどんなに堕落しており、また真理を悟っていない人々はどんなにそれを正す方法を知らないか、教えられる。”(132項)

    ”とくに政治家はいかに愚かで怠惰で堕落しているかとかたるのを聞く機会があった。”(64項)

     HTMのメッセージの中で、日本の諸教会がいかに正しい終末論を教えていないか、霊的に死んだような状態のクリスチャンが多いのはなぜかという投げかけが数多く聞かれました。

     

  3. 再凍結 

    ”「新しい」人間の最初でもっとも重要な仕事は、以前の自分をさげすむことである。”(136項)

     HTMに出会う前の以前の自分の信仰は聖書的で無かったと感じたり、過去の解釈を恥ずかしくさえ思うといった証言を複数聞いています。

     

    ”あるカルトのメンバーは、統一教会勧誘者の嘘を見つけるたび、それはたまたまその勧誘者の個人的な問題なのだと考えて、それを無視してしまったと話してくれた。”(145項) 

    ハーベストタイム傾聴者によって日本全国あちこちで教会に分裂をもたらす複数の出来事は、あくまでも彼らの個人的霊性の問題だと受け止められているようです。それは再凍結により自分と同じ解釈をするグループこそ正しいというところにとどまってしまい、その原因が自分たちの教理に問題がある可能性に気づくことができない状態になっているからではないでしょうか。

 

【マインドコントロールの基本的構成要素】

心理学者のリアン・フェスティンガーは、構成要素は「行動コントロール」「思想コントロール」「感情コントロール」の三つを挙げていますが、著者はこれに調査経験を踏まえ、「情報コントロール」を付け加えて提議しています。

 

【思想コントロール

  1. 教義こそ現実

    ”それゆえ教義は、漠然としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければならない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる。”(149項)

     中川氏は聖書塾において「聖書を正しく理解した結果、ディスペンセーション主義の解釈になるのです。」と、この結論にしか至らないという力強さで断言されていました。

     

    ”マインドコントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作り上げることにかかっているので、カルトの教義はきまってあなたは自分自身を信じてはならないと要求する。”(149項)

     キリスト教は、信頼できるものは神のみであるという教義であるため、カルトの温床になる可能性が大いにあると言えると感じました。

     

    【情報コントロール

  2. 現実世界は白か黒か、善か悪かの二者択一

    ”…複雑な状況を単純化してそれにレッテルをはり、…このレッテルこそ、詰め込み言語を具体的な言葉に表したものなのだが、それが、ある状況でメンバーがどう考えるかを支配する。”(118項)

     リベラル派や、置換神学を「聖書的でない」とか「危険な私的解釈」という言葉で片付けるのを聞き、そのような考えを持っていたらリーダーやメンバーに一蹴されてしまうのだと自戒するようになっていました。しかし批判対象となっているリベラル派の実際は、そんな簡単に片付けられるものではないだろうし、置換神学についても、そもそも批判対象となるような古い考えを持った神学者はもはや存在しないのです。置換神学という言葉さえ聞いたことのない信者は、そんな聖書の真実を隠してしまうような恐ろしい神学があるのか、とその存在を調べもせずに批判もろとも鵜呑みにしてしまうことはではないでしょうか。

     

    ”どんなに複雑に見えるカルトの教義でも、煎じ詰めれば、現実世界を白と黒、善と悪、霊的世界と物質的世界、「我々」と「彼ら」といったふたつの基本的な対極に還元してしまうものである。”(149項) 

    真の聖書理解をしている普遍的教会のメンバーである「我々」と、正しい聖書理解ができていない堕落した地域教会の「彼ら」。

    言葉にせずとも、心の奥ではそのような構図が知らぬ間に出来上がっていました。

     

     【カルトの心理状態 

  3. エリート心理

    ”ここで与えられたエリート的地位のため、私は特別なのだという気持ちになった。”(49項)

    聖書塾を卒業すれば、自由に開拓伝道を行える準備が整います。それは、自分が神様に用いられているという特別感を生み出してくれるものです。私は主の直接の弟子になったのだという気持ちです。私は卒業しませんでしたが、そんな特権が与えられるならと、いつかその機会が与えられたときにお役に立てるようにと、その特権を求めてどんな反対があろうとも卒業したいと必死でした。

    しかしどうでしょう。私が求めていたものは神の栄光の座の近くに、自分が座ることだったのではないかと思いました。ヤコブヨハネが天における栄光の座で、左右に座る特権を求めた時(マタイ20:21)、イエス様はどうたしなめられたでしょうか。

     

    ”私は、何百人もの人々の前で立ち上がって日曜礼拝をしたり、統一原理の講義をしたり、またメンバーが私を素晴らしい霊的人物像として見あげるときに感じる気分を好きになってきた。”(53項)

     再臨待望聖会の中で、その直近に聖書塾の卒業を迎えられた期生の卒業式が恒例のように行われていました。

    中川氏がとても誇らしげな様子で証書を一人一人に渡されていましたが、あのような場で証書を受け取ることができたらどんな気持ちになるか想像してみてください。

     

    ”私は――とそのときは思った――地上における神の代理者の承認を受けたのだ。”(54項)

    それはまるで、私たちこそ霊のたたかいのまっただ中にいる神の軍隊ー前線に出て毎日サタンとたたかうことができる唯一の人間たちであるかのような感じだった。”(55項)

    ハーベスト聖書塾に所属しながらも教会にとどまり続ける意義は、その教会という霊的最前線で真の聖書理解を広め、心からの善意で教会員たちを「覚醒」させてあげることだと考えていました。

     

  4. 集団の意志か、個人の意志か

    ”皮肉なことに、カルトのメンバーたちはおたがいに他のカルト集団に入った者を見下げている。”(151項)

     HTMはカルトへの警戒を促す働きを別に作って警告を発し続けています。

     

    ”「全体目的」が焦点でなければいけない。”(152項)

    普遍的教会の立て上げこそ私たちの最終の目的。自分の教会の繁栄だけに目を向けることは神の全体の計画が見えていない、非常に視野が狭いことだと反省させるメッセージが語られています。

     

    【感情コントロール

  5. 恐れと罪責感による操作 

    ”メンバーは、グループの安全圏を離れると自分は破滅してしまうのだと本気で信じる。自分が霊的、知的、情緒的に成長する道はほかにないと考える。”(92項)

    恐怖心を用いている点については、真の信仰を持っていなければ携挙から漏れ、患難に合うという教えを通して、携挙こそクリスチャンの希望であるとしている事です。そして真の信仰は真の聖書理解からくるとメッセージから読み取れ、真の信仰を持っていないこと(つまり真の聖書解釈をしていないこと)を恐れるようになっていくのではないでしょうか。

    患難後携挙説はそもそも信仰があれど患難に合うという考えですが、神は私たちを耐えられない試練に合わせることなく、逃れる道を備えてくださるという神の言葉に信頼する故、患難を恐れない信仰を持つことができるのです。その方法が例え死という方法であったとしてもです。なぜなら、聖書は「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)と教えているはずだからです。イエスご自身が十字架の死にまで従い、それを体現してくださいました。

     

 

他にも要点は続きますが、私が感じた共通点で、特執すべき項目は上記のような点でした。

 

なぜ、カルトの手法が存在するのか。その鍵を読み解く点も教えられました。

”権力というものは極端な中毒になりうるものであり、事実そうなっている。”(181項)

”多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、...神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を創作しコントロールするのに使われているのである。”(183項)

ここにはリーダーによる意図的な悪用は一切ないと思っています。冒頭で引用した通り、

” ただ、正しいことをしたかっただけである。”(45項)

なのです。

人間のエリート扱いを心地よく感じてしまう心理や、権力欲のほんの少しの隙間に入りこもうとする闇の力に、その善意を「結果的に」悪用されてしまったと感じます。自分では気づかぬうちにその力の支配に身を任せてしまうことは、人間である限り起こり得ると思うのです。

  

しかしながら、そもそも問うべきことは、

”理想世界を作るのに、神がサタンと同じ戦術を使わなければならないのか」という大きな疑問が沸いてきた。”(63項)

 と著者がこのように書いているように、もしそこにマインドコントロールに似た手法が存在しているのが事実ならば、私たちが信じる神様はマインドコントロールという方法をお使いになる必要があるだろうか?ということです。愛なる神は、人々の思想をコントロールして信仰者を獲得することをどう思われるでしょうか。

日本の伝道には確かに行き詰まり感はあったでしょう。しかしHTMによって多くの人が信仰を回復、あるいは持つようになった側面があると思います。例えば教会から一度離れてしまったクリスチャン、教会に躓いたクリスチャンが多くの影響を受けているように思います。

何故これほどの数の人々が取り込まれるのか。中川氏の話術と説教内容に相当な魅力があるからなのか。表面的にはそうだと言えるでしょう。しかしその本質には、思想コントロールにに共通した手法が潜んでいたと感じるのです。

 

”もし人々が文鮮明をメシアだと信じたいのなら、それも彼等の権利である。しかしながら――そしてこれが決定的瞬間の点なのだが――文鮮明をメシアだと信じ込ませる過程からは、人々は保護されなければならない。”(75項)

人々が自由な意思でHTMこそ真理を教えている団体だと信じたいのなら、その権利は奪われるべきものではありません。しかし、このような思想コントロールのような影響からは守られて自由に判断しなければならないと、私も思います。



私が問題解決に至った方法にも、共通点がありました。次はその点を追っていこうと思います。

次回へ続く…

火のバプテスマ

一応前回からの続きです(今までのは前振りで、ここに結論を持ってくるための記事でした)。前回記事はこちら→教会の奥義 - Misao’s bible diary

 

火のバプテスマとは何でしょうか。

私たちはそれを受ける様に召されているのでしょうか。

それとも、

そこから逃れて守られるのでしょうか

 

このことを通しても、ハーベストタイム(以下HTM)の主張されている患難期前携挙説が聖書と照らし合わせて絶対的に正しいといえるのか?という問を投げかけたいと思っています。

もしこの説が絶対的に正しいわけではないことに気付くことができたなら、以前の私のようにHTMが最も正しい解釈で聖書を教えてくれている、という全信頼(つまりは依存)の状態から、一度自分を切り離してみる機会となることを願っています。



〈火のバプテスマを授ける方〉


「その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」(ルカ3:16)

 

バプテスマのヨハネがイエスを紹介した言葉です。

ある方がこう言われるのを聞いて、初めて気付きました。

聖霊バプテスマと火のバプテスマ、この2つは違う」

 

それまで、『聖霊が炎のように降った』とも書かれてあるので、同じバプテスマのことを言い換えているのだと何となく受け取っていたのです。

しかし、ちゃんと2つのバプテスマを授けられる方であると紹介されています。

聖霊で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」と。

 

ヨハネは何故、イエス火のバプテスマを授ける方であると宣言できたのかと問えば、聖書(旧約聖書)にそう預言されていたからではないかと思います。

マラキ3:3には、「この方は、銀を精錬する者、清めるものとして座につき」とあります。つまりイエスは(火で私たちを清める)神であるというイエスの神性宣言です。

 

バプテスマの意味は

〔~に〕洗礼を授ける[施す]、〔~を〕清める、始動させる、洗礼する

とあります。(by アルク



 

 

〈火のバプテスマとは何か?〉

 

火でバプテスマを授ける理由は私たちを清めるためですが、目的は2つあるのではないかと感じています。

一つ目は御国に入るため

二つ目は捧げものとなるため

です。

 

「火」に関する記載は数多くありますが、そのほんの一部を引用します。



Ⅰペテロ1:7で、試練で私たちの信仰が試されることは、金が火で精錬されることに例えられています。

 

イザヤ1:25で、イスラエルの金かすを灰汁のように溶かし、浮きかすをみな除くといわれます。

 

ゼカリヤ13:8,9にも、火の中に入れ、銀を錬り金を試すように全地に残った彼らを試すとあります。

 

詩篇66:10は、神が銀を精錬するように私たちを錬られた、と記しています。



マタイ3:10では、良い実を結ばない木は火に投げ込まれると言われ、

マタイ13:39〜43には、終わりの日に、御国の子以外は火で焼かれることが書かれています。

 

Ⅰコリント3:13〜15主の日に現れる火が、それぞれの働きがどのようなものであるかを試すとあります。誰かの建てたものが焼けても、その人自身は助かると。

 

イザヤ4:4〜6はとても興味深くて、主が焼き尽くす霊によりシオンの娘たちの汚れを洗い落とすとき、主ご自身がシオンに現れるすべての栄光の上に幕屋となり、仮庵は避け所となるとあるのです。

これは黙示録7:15~16と繋がっていて、大きな患難を経た魂が、幕屋であるイエスの御前に逃れて神の安息を得ている情景と重なります。

 

エスマタイ24:16〜17「山へ逃げなさい。…家にある物を取り出そうと下に降りてはいけません。」と言われました。もちろんこれは、紀元70年のエルサレム陥落でペラに逃れたユダヤ人キリスト信者が、全員助かったことで成就したことでもあります。二重預言として、終わりの時にイエスが幕屋となってかくまってくださる、シオンの山へ逃げなさいの意味ともとれるような気がします。家にあるものを取りに戻る行為は、この世のものに心惹かれて後戻りすることで、それを警告しているとも受け取れます。

 

このように、驚くべき火の預言が多くあります。

 

(1)御国に入るため

 

主は私たちを火で精錬するお方です。

私たちは聖められなければ聖い神様の御国へ入ることはできません。

 

「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36:25~26)

これによると、

水によって私たちはすべての汚れからきよめられるだけでなく、石の心を取り除かれ、肉のように柔らかい従順な心が与えられるとあります。

石の心を取り除くとは、パウロが言うところの「御霊による心の割礼」(ローマ2:29)です。

肉体の割礼に激しい痛みがあるのと同じように、石の心が取り除かれるときにも、痛みが伴うのは想像に難くありません。『イエス様信じます。』という喜びと平安の前に、私たちは石の心が引きちぎられ、激しい苦痛を経験する。それはキリストの死にあずかるバプテスマ」(ローマ6:3,4)とも表現されています。

私たちの石の心は、キリストとともに葬られなければ、復活の命をともに歩むことはできないとパウロは言います(ローマ6:4,5)

 

これこそ、バプテスマのヨハネが紹介した火のバプテスマ」(マタイ3:11)ではないかと思います。

 

 

 

 

(2)捧げものとなるため

 

「彼らは、神と子羊に献げられる初穂として、人々の中から贖い出されたのである。」(黙示録14:4)

この箇所から、私たちは贖い出された神と子羊への献げものだということがわかります。

献げものは聖くなければならないはずです。

キリストの死にあずかるバプテスマにより全く砕かれることこそ、完全に聖くされるための道です。

 

大患難期の前に、クリスチャンが天に挙げられるのだと、本当に聖書は私たちに教えているのでしょうか?

大患難期を通ると考えているクリスチャンは、大患難がどんなに恐ろしいものかをわかっていないからだ。という意見を聞いたことがありますが、それでも十字架の死の苦しみを知っている主は、聖書を通してこう語っています。

 

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」ローマ8:35 (新共同訳)

 

全てのことを通して私たちを練り清め、キリストに似た者に、献げものとしてふさわしい者にしてくださるのです。

 

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)

 

大患難に耐える信仰は私にはありませんが、主がとりなしてくださり、耐え得るように聖霊をくださっていると信じています。

「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

 

清められる火のバブマテスマを恐れます。しかし、これを受けるように召されているのか、逃れるように守られるのか、聖書のことばからしっかり判断しなければなりません。

 「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、」(ピリピ人への手紙 3:10)

 

 

 

過去の関連ブログ↓

患難期は私たちが受けるよう召された火のバプテスマの一部ですが、御怒りはその一部ではなく区別されることを、御言葉から検証しています。

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