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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

教会の奥義

前回の続きになります。前回の記事はこちら↓

vitaminp81.hatenablog.com

 

教会の奥義とは何でしょうか。

結婚がその型となっていると、聖書に書かれてあります。

 

「『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(エペソ5:31,32)

 

(※『教会』という言葉は、建物や組織を指しているのではなく、二人以上の信者の集まりのことを指して用いています。)

 

聖霊を通してキリストと一体となり、教会がキリストの命に満ちあふれるようになること、これこそ教会の奥義であることが、エペソ書全体を読んでわかります(夫婦の関係がその型であり、つまりここから教会はキリストの花嫁とも理解されます)。



教会を通して、キリストにあって私たちが一つであることを体験的に知ることができます。また、キリストに仕えるとはどういうことかを学ぶことができます

 

先日、ある姉妹から「ウォッチマン・ニーの証し」をお借りし、読ませていただく機会がありました。

とても古い本でしたが、キリストにお仕えする情熱・砕かれることの本質を改めて教えられる大変な良書でした。

特に、兄弟姉妹と共に奉仕に携わっていく中で、『どう考えても自分が正しい。しかし相手の立場を立て、立場における礼と秩序を保なければないらい。』というような状況で理不尽な扱いを受けることがあっても、それこそ自分に与えられた十字架であると受け止める、という内容が最も印象的でした。

その十字架から逃れようと自らの正しさを自己弁護するのではなく、イエス様がなさったようにただ従うとき、本当に砕かれてゆくのだと思います。

 

 

教会あるいは地域において互いに仕えあうことがなければ、このような経験はできないでしょう。もし様々な都合上教会に行くことが叶わないなら、それが与えられている十字架なのでしょう。

しかし、人との交わりを面倒だからと避け、ただ主を見上げたいという信仰であるなら、あなたを愛しはしますが十字架はお断りします、ということになるかもしれません。

『銀を練る者の火はとても私には耐えられないので結構です』と、混じりけのない純粋な者にされるための主の訓練を避けてしまうことになるかもしれないと思うのです。

自分が砕かれることは本当に痛みの伴うことですが、その痛みが深ければ深い程、十字架の恵みを深く味わうことができるのだと思います。

 

 

私は錬られることを恐れます。まだ砕かれる必要のある者だからです。しかしそれがイエス様に従う道なのであれば、その道へ導かれることを願います。

 

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ人への手紙 5:26,27)

十字架の御業によって私たちをキリストの花嫁として召してくださいました。私たちはふさわしい純白の衣を着て、花嫁の準備をさせていただくのです。

 

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。

  子羊の婚礼の時が来て、

  花嫁は用意ができたのだから。

  花嫁は、輝くきよい亜麻布を

  まとうことが許された。

  その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(ヨハネの黙示録 19:7,8)

 

 

次回<火のバプテスマ>に続きます...

信仰の成長~神学の一人歩き~

連載シリーズの再開を遅らせていますが、今回も別のテーマを数回連続して投稿します。

 

〈信仰の成長・神学の一人歩き〉

私たちは分かりやすい神学を求め、曖昧な解釈も断言される方を好みます。

多くの人が求めているものが、ハーベストタイム(以下HTM)の提供するところのヘブル的解釈、字義通りの解釈だったわけです。



ディスペンセーション主義の先生よりお聞きするところの本来のヘブル的解釈とは、緻密に分析して理解しようとすることではなく、そのままを矛盾など気にせず神の言葉として受けとり、仕えるという姿勢のことを言うのだそうです。しかし、HTMが提案するヘブル的字義通りの解釈は、一つ一つの言葉の持つ意味を深く掘り下げ、本来語られた対象への神の真意以上に言葉の持つ意味が一人歩きをするような、云わば究極のギリシャ的解釈となってしまっていると言います。

分裂や分断は、神を礼拝するよりも自分で神を把握しようとする試みによって生まれるとも教えて頂きました。その試みは、すでにバベルの塔で神に戒められたはずです。つまり、ギリシャ的姿が分裂や分断を助長していると言えます。(※一部教会で起こっている問題の事例・普遍的教会とは - Misao’s bible diaryへのコメント返信の再掲になります)



「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)

聖書の言葉の「いのち」は私たちが探し求める時、聖霊の助けによって、生きて私たちに迫ってくるものです。

 

自分の聖書研究によって信仰が成長し、神の御元に近づけると思うことは、結局は全く別の着地点に行き着くことになります。まさに「初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)という状態になりかねません。

 

私たちの信仰が成長することは神様が望まれていること、それは確かなことです。しかし、それは一切全て神の恵みによることです。



「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:23,24)

 

「あなたがたは...キリストを信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」(Ⅰペテロ1:21)

 

時間を、聖書を読むために聖別するという努力は必要かもしれません。しかしこの努力によって信仰が成長するのではないと思います。聖書研究により、魂の糧を頂くのです。

非常にまどろっこしい言い方ですが、この魂の糧を頂いた結果として、信仰の”頭の理解における部分”は成長するとは思います。人の聖書解釈ではなく、”聖書が何を言っているか?”を探ることは重要ですし、私もそうしています。しかしそれを信仰成長のためにしてはいないのです。

何というか、信仰成長のために聖書研究は必須という考えもまた違うような気がするのです…。

それゆえ本当の信仰成長は聖書研究によるのではないと、今は思います。もしそうなら、聖書がここまで普及していなかった時代の人々はどう評価されるのでしょう。

信仰の成長は救いと同様、全く神の恵みによると理解しています。

 

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(Ⅰコリント3:6)のみことばの通りです。

 

次回<教会の奥義>へと続きます...

 

こちら↓↓の過去記事では「信仰の成長は聖書研究によって」と信じていたころの心境を詳しく綴っています。

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和解

初めてこの記事に訪れてくださった方は、まず過去のこちらの記事をご覧くだされば幸いです。 ↓

キリストの身体を引き裂くものとは - Misao’s bible diary

 

<和解>

 

私たちクリスチャンは、分裂ではなく和解を求めています。

 

キリストの身体が引き裂かれているという『実』から根を手繰り寄せ、問題を探ることを続けてきたのですが、私たちはいつまでもこの問題について訴え続けなければならないのでしょうか。

 

和解の道とは何でしょうか?

神は私たちを許してくださいますが、そのためには私たちが神の方向に向き直ること、つまり聖書でいうところの『悔い改め』が必要です。

同じ様に、私たちがキリストにあって許し合い愛し合うためには、共に同じ信仰告白の土台に立ち、神の方向を向く必要があります。

しかし、神の方向を向くはずの団体傾倒者によって、分裂、分派、既存教会の軽視、教会や家庭の崩壊が起こっているのは何故でしょうか。

 

共に同じ土台に立ち、同じ神を見上げているなら、解釈・神学の違いを乗り越え、互いに認め合い、キリストにおいて一致していけるはずです。そして今までもそうしてこられたのです。



お互いが支え合い立ち続けるためのルールやマナーというものがあるはずです。

しかしそれを無視し、既存教会に傷を残してでも革命を起こしたり、神学の異なる教会内において別の神学の伝道をすべきなのでしょうか?いえ、同じ神学の教会においてもさえも分派ができ、教会の秩序が乱されることが起こっています。

キリストの名において集まることや伝道自体が悪いことでなく、良い事だからとどんな道筋でも行うことを、神様は本当に喜ばれているでしょうか?

 

 

しかしもう一度言いますが、HTMに傾倒する教会所属者によってルール・マナー違反が起こっているのは、もはや個人の責任ではありません

公にではなく、個人的に『正しい解釈』を広めること、そしてやがて賛同者を増やし、教会ごと『正しい解釈』を採択するようにすること。これこそ自分に与えられた使命であると、HTMのメッセージを聞けば聞くほど感じてしまうのです

そして教会に所属しながらそうしない人は、自分だけが『正しい解釈』を知っていてもそれを誰にも伝えないのは『利己的な人間』であはないかと感じてしまいます

もしくは間違っている解釈を間違いと教えてあげないことの方が愛のない行為だと感じてしまうのです。それ自体は正しいですし、私もそうすべきだと思うのですが、その指摘によって神との関係に留まらず、人との関係においても『和解』に向かわなければ意味のない行為です



「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(IIコリント5:18-19 新改訳)

 

私たちは、分裂ではなく和解の務めを与えられています。

それゆえもはや、私たちの敵は神ではなく悪魔(サタン)です。互いに非を指摘し合い、キリストの身体を引き裂く行いは、敵が喜ぶことそのものです。

違反行為の責めは、全てイエス様が負ってくださいました

神との関係において和解した私たちは、人との関係においても和解が与えられているはずです。しかし人との和解をなおざりにするところには、神との和解の関係もないと思うのです。

 

 

ある方がSNSを通して素晴らしい言葉をシェアしてくださいました。

『自らの正義を貫こうとする姿勢ではなく、違いを認め、和解と赦しに生きようとする勇気である』

(ヴォルフハルト・パネンベルク「なぜ人間に倫理は必要か―倫理学の根拠をめぐる哲学的・神学的考察」の、訳者/佐々木克彦氏のあとがき文より)

 

注目され、影響力を持ち、用いられていくところに、サタンの力も強く働いていくと思います。その罠に注意しないでも例外的に守られる人間など存在しません。サタンの力は人間のあらゆる欲を満たすべく実に巧妙に働きます。

しかしどこから自分の純粋な思いがサタンに取られたかを探り、サタンの罠から離れ、神の方向を向く=悔い改めがあるなら、神は私たちに罪の責めを負わせられません。

神が赦してくださったように互いに許し合い、違いを認め、本当の意味での共生が可能となるのです。

 

 

福音宣教の使命と共に、和解の務めも委ねておられます。

それは神との関係のみならず、人との関係においても。

「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」(Ⅰヨハネ4:21)

「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)

 

(※聖書個所の引用は、断りがない限り新改訳2017を用いています。)

キリストの身体を引き裂くものとは

連載シリーズを先送りして、しばらく別のテーマ投稿をします。

 

無料公開のインターネットで、聖書の深い学びができる事でかなりの影響力を持っておられるハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)。

私もその学びに五年以上大きな影響を受けた一人でした。

しかしこの学びによって教会生活、家庭に破壊がもたらされました。

 

※過去の記事をご覧になっていない方はまずはこちらの過去記事をどうぞ... ↓ ↓

証~ハーベストタイムミニストリーズの何が問題なのか?について~ - Misao’s bible diary

教会で起こっている問題の事例・普遍的教会とは - Misao’s bible diary

 

HTMを好意的に感じている方々、また働きの中におられる方々の中には、

『自分たちは教会の破壊活動に全く関わっていないし、自分たちの群れを地域教会であると認識し、この教会を通してお仕えするために集っている。このような問題提起を自分に向けられるとは甚だ疑問。』

といった立場の方も多いと思います。

しかし、そこには自分の意識による選びのようでいて、そうではない一種のカルト性が存在している疑いがあるのです。

 

 

〈キリストの身体を引き裂くもの〉

 

では、カルト性の一体何がいけないのか?を問い直したいと思います。

 

HTMと好意的な協力関係にあられる真理のみことば伝道協会のウィリアム・ウッド先生は、

最大のカルトの見分け方は

 

人間社会に破壊的結果をもたらす危険な宗教団体

 

であると教えてくださっています。

カルト性があったとしても、福音が宣べ伝えられているならいいのでは、と思われる方がいるでしょうか。しかし、カルトは間違いなく、必ずどこかで『破壊をもたらしている』と断言されています。そしてそれは真実だと思います。

 

破壊の対象は様々であったとしても、結局は何を意味しているかというと、キリストの身体が破壊されているということです。

キリストの身体が引き裂かれているこの実態を、一部の極端な例であるとか、自分たちには身に覚えの無いこととして一蹴してしまうのではなく、自分はそのキリストの身体の一部であるために黙っておれないというのが、正常な反応ではないでしょうか。

正常な反応ができない状態にある事こそ、つまり非を非として認めず、組織を擁護しようとしてしまうところに、カルト性のあるマインドコントロールの特徴があると言えると思います。





あるH聖書フォーラムのブログに、もっともな事が書かれてありました。

教会への悪魔の攻撃は、外側からの迫害だけでなく、もっと激しいのは内側に対するもので、混乱を引き起こす。闘いに勝利するためには教会が教会であり続けること...

という内容でした。

 

本当にその通りです。であるのに、全国各地の教会がHTMの働きによって混乱と分裂の危機に立たされ、教会であり続けられない状態になっているのです。

分裂の危機にある教会は、元々腐敗していたり、歪んでいたり、主の目にふさわしくなかったからかもしれないのでは、と思われるでしょうか。



〈カルト性の特徴〉

 

ウィリアム・ウッド先生は、カルト性のある団体の特徴のチェック項目をまとめておられます。そのうちのいくつかをピックアップして以下に引用します。

  • 「私たちだけが唯一正しい宗教(キリスト教)である」と言っている。

  • 他の宗教団体・キリスト教会は「悪魔の手先」、「堕落してる」、「霊的にレベルが低い」とされている。

  • 信者は、外部の人々に対して、エリート意識や優越感をもっている。
  • 妻が信者でない夫の言うことを聞かなくなったり、夫を見下したりするようになることがある。
  •  メンバーの家族が不仲になったり離婚したりなど家族崩壊が頻発している。



私はHTMや傾倒者が、これらにあてはまると感じています。

後二項目はHTM傾倒者全員にあてはまるのではなく、『ことがある』『頻発』です。私の場合、夫は信者であるにも関わらず、真の聖書解釈をしていない、正しい理解に立てばもっと聖書を読むのが楽しくなるのにと、云わば『見下し』ているに等しい心境でした。

 

また、ウィリアム・ウッド先生が提唱されている五つのカルトの特徴についても、4以外はあてはまる気がしています。そのため、カルトではなくとも、カルト性があるという疑いは否めないように思います。

 

1.独裁的教祖

2.盲従する信者

3.マインドコントロール

4.自由がない

5.必ず被害がでている




1.独裁的教祖については疑問符が付く方が多いでしょう。

しかし、HTMにどっぷりとはまってしまった方は、自分では分からない聖書解釈について、「中川師はどう解釈しているだろう?」と、最終的な判断を仰いでしまうのではないでしょうか。

最終的な判断を仰ぐまではなくとも、自分のうちに働く聖霊の導きが「独りよがりの聖書解釈にならないように注意が必要」という注意喚起の言葉をもって打ち消され、「独りよがりの読み方になっているかもしれない」と、中川師の意見を聞かないではおれないことはあるでしょう。

各フォーラムに対する支配権力を握っているわけではありませんが、聖書解釈における最終権威を、闇に握ってしまっているように思えます。

『3.マインドコントロール』が、『1.独裁的教祖』につながりますが、これについてはまた追って別の記事で探っていきたいと思っています。





このような事について、イエス様ならどのようにお考えになるでしょうか。

 

「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」(ルカ9:50)

弟子のヨハネが、自分たちについて来ない人がイエスの名によって悪霊を追い出していたのでやめさせようとした、とイエスに訴えた時のイエスの答えで、「やめさせてはいけません。」に続く言葉です。

ここはイエス様が私たちの多様性を許して下さっていることが分かる箇所だな、と思います。しかし、大切な条件があるではありませんか。

『反対しない人は、味方』なのです。

 

"教会は誤った終末論を教えている。

教会は真の聖書理解をしていない(間違った解釈を教えている)。

日本(教会を含む)に霊的覚醒を。"

 

このような教えは信仰告白の上に立てられた、神の権威を持つ教会に反対する行為そのものにつながっていくのではないでしょうか。 

御霊の実を伴わず反対する行為は、分裂を生み出し、キリストの身体を引き裂くのです。

 

 

教会が本当に誤った終末論を教えているのか?この終末論の問い直しによって、私はマインドコントロールから解かれました。それについてはこちら… ↓ ↓

vitaminp81.hatenablog.com

 

 キリストの身体とは何でしょうか?

これこそ、聖書の指し示す普遍的教会のことであり、私たちはその一部であるはずです。

教会で起こっている問題の事例・普遍的教会とは

まで教会は何故、日本全国あちこちでハーベストタイム(以下HTM)によって引き起こされている問題を表面に出さなかったのか?

その理由は第一に、HTMに関わる兄弟姉妹が責められないようにするためです。

"彼らが気付いた時に、教会に帰ってくる道を閉ざしてはならない。”その思いがあるため公にしてこられなかったのです。

また公にしたとしても、単なる批判ととられかねないということもあったかもしれません。

 

一方なぜ、HTMによって問題が各地の教会で複数起こっていても、それらは例外的で、問題を起こした人の霊的高慢が原因であるとして済ませられるのか。

具体的事例を知って頂き、このようなことが本当に本人の霊的問題だけに起因するのか、社会的にみても許されるのか考えて頂きたいのです。



〈一つの事例〉

 ある方は、元々は私と同じように『もっと聖書を知りたい、そして教会や社会においてもっと用いられる良い働きをしたい』という動機で学びを始められたと思います。ところが、最終的には教会に籍を置きつつも、フォーラム運動のリーダーの一人となり、洗礼、聖餐が行える集会を運営することとなっていったのです。それが神様の喜ばれる御心であると信じて...。 

 

この方の心理状態は恐らく、当時の私と同じか似ていれば、この正しい解釈について牧師に質問したり、話してみたところ良い反応を示されず、『HTMが言うところの正しい解釈を教えていない教会牧師が、この教えを受け入れてはくれないだろう。』と確信し、教会に公にする事を躊躇ったのだと思います。

 

当時の私は『信徒がもっと聖書を学びたいということを、何故牧師先生は辞めさせようとするのだろう?信徒の、より深い聖書の学びの機会を奪い取ろうとするから問題が起こるのではないだろうか。』と、本気でそう思っていました。

 

自分が召されている『神の御心の働き』に反対する人達は神の御心の反勢力であると感じるため、やがて時が来ればこのことが正しいということを教会は分かってくれるはずだと信じ神様にゆだね、彼らには内密に事を進めざるを得ないのです。

 

このような事があったとは知らなかったという方もいらっしゃるでしょう。

HTMに関わっておられる方が問題の実態をあまりに知らないことは驚く事ではありませんし、その人の責任でもないと思います。実際私自身が入塾にあたって、そのような問題が起こっているという情報は少しも聞かされませんでしたから。

 

ハーベスト聖書塾へ入塾するにあたり、所属教会の牧師の推薦状は必要ありません。しかし、入塾や聖書フォーラムを立ち上げるにあたって、所属教会の牧師に公言しなかったことは、やはり本人の責任であると思われるでしょう。

しかし、聖書塾に入塾した生徒に対し、HTMの教理が所属教会の教理と異なる場合、中川氏がどのように指導しているか、これは中に入った者でしか知る由もありません。

『所属教会がある方はその教会において良い働きができるように。一気に広めると反発が来るから、ゆっくりやるように。』確かに中川先生はそう仰いました。

それは、反発を受けないように公にではなく個別に、しかしできる限りこの教えが教会に浸透するように、やがては教会が公にこの教えを受け入れることかできるようにやりなさいと言った意味であると受け止めました。

 

中川氏ご自身が、フォーラム運動が教会に受け入れられにくいものであることをよくご存知だったのでしょう。そして中川氏本人でさえも、それは正しい聖書理解を教えていない教会側に原因があると確信しておられると感じました。

 

 

〈ハーベスト聖書フォーラムは超教派団体か、教会か〉

何故中川氏はフォーラム運動の働きを所属教会の牧師と情報共有せず、内密に進めようとするのでしょうか。

 

 

教会籍(会員制度)について中川氏は、聖書に会員制度の命令はなくとも、会員制度は牧会活動において群れの境界線を把握するために必要なものであり、地域教会に属することは重要であると答えておられます(3分で分かる聖書「教会籍は必要ですか」への回答にて)。

とするなら、聖書フォーラムを運営している方が、地域教会にも籍を置いていることを黙認するということは、信者に二つの教会に籍をもつことを推奨しているということになります。

これは教会倫理を逸脱する行為と言われても致し方ないのではないでしょうか。

 

聖書フォーラムは会員制度の無い超教派団体なのでしょうか?

しかし実態は礼拝、洗礼、聖餐が行われており、そのような集会は制度的に見れば、もはや教会です。

ある聖書フォーラムでもその存在を明らかにしてこう記しておられます。聖書フォーラムは、宣教団体であるハーベストタイムミニストリーズとは独立した存在の、地域教会として個々に活動をしています。』そこで群れの一員としての扱いを受けるなら、その方が他の教会にも籍をおいて所属しているかの確認をとり、所属教会の牧師と連携をとるというのが本来の会員制度の目的を果たすことだと思われます。

 

ところが実際は、聖書塾への入塾には所属教会がある方の場合でも、その牧師の推薦状は必要ありませんし、卒業時にフォーラム運動の長老(リーダー)となる資格が与えられ、その活動を行える者となることも所属教会の牧師は知りません。さらには開所運営していても、所属教会の牧師には知らされないのです(聖書フォーラムはHTMとは独立しているとはいえ、その開所式は必ず中川氏が出向かれます)。

 

入塾案内には、卒業時に長老の資格が与えられ開拓伝道を行えるなどの明記はされていません。聖書塾Q&Aにおいても、

『ハーベスト聖書塾の学びは、基本的には弟子訓練を目的としており、牧師の資格を取得するためのものではありません。』

とあり、聖書塾は名目的にはキリストに直接つながった弟子訓練を目的としているため、教会を通して更に良い働きができるようにとの期待を持って入塾する方がほとんどなのではないかと思います。

ところが聖書塾Q&Aには続いて『学びが終了すると、他の人々を霊的に導いたり、自ら開拓伝道を行ったりするための準備ができたことになります。その段階で具体的な助けが必要であれば、アドバイスをさせていただきます』

とあり、実際に各地で聖書フォーラムという形で開拓伝道をするリーダーが排出されているのはHTM関連のサイトから判断できます。

 

 いつの間にか、教会信徒を引き連れて開拓伝道を行う家の教会へと変貌している事例があちこちで起こっているのです。

教会牧師やの教会信徒の知らないところで、教会員のある兄弟姉妹が求道者をフォーラム運動へ導いてしまう。そしてそのフォーラム運動は聖書フォーラムという『教会』なのです。

HTMと教会との軋轢が生じ始めて、もう何年も経っています。教会側の訴えが、たとえ水面下であっても一切中川氏の耳に入らなかったとは考えにくいです。であるのに、何の弁明もされてこなかったのです。このような事態の情報が耳に入りながら黙っておられるなら、二重教会籍の黙認であるとしか受け取れません。

これは本当に健全なあり方なのでしょうか?

 

 

 〈普遍的教会という教えに潜むカルト性 〉

私は教会に対して具体的な問題を起こしませんでした。しかし、問題を起こした方々が責められるなら、私も責められるべきです。

実際に問題を起こした方々だけでなく、私と同じように教会に留まりながらも兄弟姉妹の聖書理解を正してあげたいと思っている方々を、私は弁護したいのです。

 

HTMを最初から客観的に見ることが出来ている方は、聖書を自分で読まなかったから偏った教えに流されたと思うかもしれません。しかしよく聖書を読んでいる人は流されず、読んでいないから流されたという区別も実際のところは見られません。

 

HTMは『教会とは建物のことではなく、私たち信者一人一人のことである。自分たちは天に登録された普遍的教会(天の教会)のメンバーである』と教えています。それだけでなく、『私たちが地域教会という枠にこだわる事は狭い視野であり、教会全体を捉えて普遍的教会を立て上げていくことこそが重要。』と奨励しています。

 確かに聖書には、いのちの書に記されている者だけが救いに至るというメッセージがあり、普遍的教会の一員であるということは受け入れることができるものです。

しかし『地域教会の狭い視野を反省させ、普遍的教会を立て上げる』という教えにより、自分は所属教会のメンバーであること以上に、真の意味での普遍的教会のメンバーであるという意識を持つようになりました
救いについては、『救いの三要素を信じていれば、すでに普遍的教会の一員である』とし、その一方で教会のカルト化の問題をはじめ、信徒が喜びに満たされていないことに致るまで、その解決は『正しい聖書理解による霊的覚醒』が鍵であると訴えています。

これら別々のメッセージが聴衆の中で化学反応を起こし、『正しい解釈による聖書理解をしている自分たちこそ、普遍的教会の一員である』という理解が生まれます。

 更に、『ほとんどの教会は正しい聖書理解を教えていない、正しい解釈はこうだ』と語っています。ご自分の確信にかたく立つことは良いことですが、すでにキリストを土台として立てられている教会に対して、土台を揺るがすような薦めがなされているのはいかがなものかと思います。

こうして聴衆は、真の教会は普遍的教会であるので、地上の教会に問題があるのは仕方がないと判断し、自分をそこから分離させていく心理状態へと変わっていくのです。教会を離れる、もしくは教会に留まっていても心は分派的になります。あくまでも自分は普遍的教会のメンバーであるという意識が、教会の一部になりきれない自分を正当化する方向へと働きます。

 


 また、正しい字義通りの解釈を採択する判断が強制的にではなく、あくまでも聴衆側の自己採択になるよう、キリストの名における正義感に訴えておられます。

教会論や教理史のワクチンの無い人、正義感の強い人は格好の対象になると思われます(教会において正義がゆがめられているのをみたり、何かしら問題を感じている人は尚更でしょう)。

 聖書には訳者の誤った神学が既に入り込んでいると警戒を促されることで、まず聖書が素直に読めなくなりました。そして絶対的に正しいとは言い切れない正しい解釈という名のフィルターを絶対的として与えられ、そのフィルターを通して聖書を一度見てみようと学びはじめました。結果、普通に読んで理解できるはずの言葉も、正しい解釈ではどうなのか?といつも、中川師の吟味を聞かなければ判断できない状態になっていました

聖書フォーラムリーダーに私がわからないことを訊ねたときも、それは如実に現れていました。そのリーダーが答えられない質問には「中川先生なら答えられると思います」と仰っていたのです。

『自分にはまだ答えられないけれど、中川先生ならちゃんと答えられる』そう確信しておられました。

 

ここに、マインドコントロール的教えが存在しており、一種のカルト性を感じさせるのは否めないと感じます。

 

 HTMのフィルターの真偽は疑わせることなく、自分の目で聖書を調べた結果はっきり分かったのだからこの解釈は正しいのだと、「正しい所に立つ自分」という要塞を築き上げていってしまうのです。しかし、自分の正しさを放棄できるところに、本当の解放がある事を、キリスト者は見失ってはならないはずです。

 

 

 

以前、私のブログを紹介してくださったハウスチャーチを運営している某牧師先生が、実際に聖書フォーラムの開所式に立ち会った時の違和感について証言しておられます。↓

heaven.holy.jp

 

最後に、私は中川氏を辱めたいわけではありません。中川先生を信頼していたからこそ、誰にも相談せず、まずは直接意見を申しあげました。しかしそれには何の回答もくださらなかったのです。

キリストの体が引き裂かれているのを黙って忍耐してこられた先生方に対し、教会倫理の逸脱について、誠意ある対応を望んでいるだけなのです。

証を読んでくださった方へ・謝罪と続証

この証を、多くの方の目にとめていただけたのは、牧会されている先生方が今まで愛と謙遜を重んじるがために公にしてこられなかったことを、私が神学者の立場にないゆえにはっきりと言えたからなのかもしれないと思います。

多くの人の目に留まるということは、必然的に批判の的となってしまうことも、避けられないことだろうと感じます。

しかし、私の本意とは違って受け止められ、終末論の議論のために用いられることがあるなら、私の表現の仕方に原因があったのではないかと思い、改めて本意をお伝えしておかなければならないと思いました(一応本意は簡単にプロフィールに記載しているのですが…)



ハーベストタイムによって、諸説あるうちのひとつに過ぎない解釈を『これこそ真の解釈であり、その解釈でなければ本当に聖書を正しく理解したとは言えない』と教えられていたことがわかった時、とてつもないショックに襲われました。

何せこの教えによって、一致していた夫婦の信頼関係が荒らされたからです。

そして、客観的に見ることができたきっかけとは

『神学の眼鏡を通さずに聖書を素直に読んだ結果、第七のラッパは、終わりのラッパであるという確信に至ったこと』です。

 

ここからがお伝えしたい大切なお話です

ハーベストタイムの問題の渦中におられない方にとっては、私がここまで第七のラッパの解釈にこだわることは、単に患難期前携挙説の批判あるいは、デイスペンセーション主義に対する批判ととられてしまうのも、無理からぬことだと思います。

私自身もあまりの怒りにより、一時は振り子が振れすぎそうになりました。しかし、ある牧師先生との対話を通して、ハーベストタイムの何が問題なのか?ということに目を向けさせて頂きました。その先生は答えを一切言わずに、私にただ質問を繰り返すという形で忍耐をもって導いてくださいました。私自身から答えが出るまでひたすら待ち続けてくださったのです。

その忍耐と愛の教育課程により、

『この問題の本質は、自分たちと違う神学(デイスペンセーション主義における患難期前携挙説)だからではない』という結論を出せました。

怒りの向かうべき的は、人間ではなく背後に働いている悪魔※』であることもはっきりと確信できました。(※人間の弱さにつけ込もうとする悪魔の存在:追記3/3)

 

冒頭に申し上げた通りに、問題の本質とは『諸説あるうちの一つを断定的に教え、これこそ真理、これを知らない人に伝えなければいけない』と教えられることです。

その結果、自分は誰も知らない真理を知ってしまった。教会の兄姉に伝えなければ、となってしまうのです。

そう思って教会を去っていく兄弟姉妹はある意味被害者だと思います。自分が真理と信じる解釈以外の他者を、批判せざるを得ない立場に、知らず知らずのらうちに追い込まれていくのです。それ故このように導いておられるリーダーの責任は、大変大きいと思います

 

ハーベストタイムの中で学んでおられた兄弟姉妹は、本当に純粋で熱心で優しい方々ばかりでした。中には私の友人が牧会している教会から出てこられた姉妹がおられました。

友人は姉妹が出て行ってしまわれたことに、心を痛めているに違いないと思います。

私たちの群れから兄弟姉妹が出て行ってしまっている...。この事実を思うと、本当に悲しくなり、私ができることをしなければと思わされたのです。

それゆえ、私たちの群れにいた姉妹のことに思いを馳せながら、『私自身が問題に気づくきっかけになった終末論の解釈が、姉妹にも”人への盲信”という間違いに気づくきっかけになるかもしれない。』と、終末論についてハーベストタイムの解釈だけが正解とは言えないことをブログで訴えてきました

私が一つの矛盾と感じる点をお伝えしても、姉妹はそれを疑問には思われなかったということもあり、様々な角度から矛盾と感じる点を挙げ、どれかが目に留まるかもしれないと期待しました。

また、神学の目を通さずとも聖書は理解できるのだ』という自身のリハビリにもなっていました。

 

しかし、読んでくださる方の中に、この本意が伝わっていない方もいらっしゃることに気付かされたので、ここで謝罪をしなければならないと、この記事を書くことにしました。



私が問題を含むと捉えているデイスペンセーションは、その主義のほんの一部に過ぎないと思います。であるのに、デイスペンセーション主義からすれば、様々な幅のある主義を十把一絡げに取り上げて、「ここが疑問、ここが問題では」と指摘されるのは、甚だ憤りを覚える事だったと思います。これについては弁明のしようがなく、申し訳なかったと謝罪するしかありません。

『デイスペンセーション主義者を理解する』(ヴェルン・ポイスレス著)という書籍を完読し、その主義を理解しようと努力を惜しまなかったことは知って頂きたいです。

 

『他者を批判しているのには変わりない。この人は何も変わっていない。ただベクトルが変わっただけだ。』そう思われても仕方がなかったかもしれません。

ただ、神学の眼鏡を外して聖書だけを見つめた結果、こう書いてあると確信に至たったことを述べることが批判になるのなら、私は自分の意見をいっさい言わない方が良いということになります。

しかし、私は何者でもないことをよくわかっているつもりです。ちりにすぎず、ただ主の恵みにより、意見を述べることができます。

私が改めてこの記事を書き続けるためには、皆様に本意を知って頂く必要があると感じました。

 

その本意とは、

一つの神学だけが正解ではないと気付いていただくため、自分の立場からの確信を表現しているということ

愛する兄弟姉妹に思いを馳せながら、ハーベストタイムの解釈への異論を述べているということです

それぞれの神学的立場からの正解など、人間が不完全であるが故に無数に存在すると、謙虚に受け止めなければならないということです)

ハーベストタイム聖書塾に行っている間、自分たちは普遍的教会(天の教会)のメンバーであり、地域教会へは遣わされているという意識がありました。

これは歪んだ選民意識と言えるかもしれません。

地域教会へは遣わされているのではなく、召されているという意識が非常に大事であることをある先生から教えられました。本当にその通りで、その思いがなければ自分たちが満足できる教会を探し、教会を乗り換え続けるという結果になりかねません。

私を含め、このような歪んだ選民意識を持つ方が少数なのであれば、その人自身の問題かもしれません。

しかし、この問題は日本全国あちこちで多く起こっており、デイスペンセーション主義の教会でも、ハーベストタイムのメンバーによって分裂がもたらされています。それゆえに単に『受け取った本人達の問題』では済まされない根がはびこっていると、判断せざるを得ないと思います

 

 

最後に、先程の夫婦間の信頼関係が荒らされた話の続きなのですが、

私が真理と信じる事を大切にするために教会を去りそうになったときに、夫はその真理に同意できないにも関わらず、私についていくと涙を溜めて言ってくれたため、幸い分裂することはありませんでした。

私は神様を第一としなければとの思いで、真理を選びました。しかし、夫は愛を選んでくれました。一見神様より妻を大事にしたように思われる局面ですが、真理のために愛を犠牲にするなら、そこに神はおられません。夫は神様に繋がっていた証拠に、愛を選んでくれたのです。それはぶどうの木に繋がった枝のように、ちゃんと神様に根ざしているからこそ愛という実を結んだのです。

 

 

真理のためなら平和が犠牲になっても仕方がないそれはキリスト教として譲れない点以外での解釈においてですが)という思いは、霊の思いではありません

 

 

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ 8:6 新共同訳)

 

 

愛が動機であれば、なぜこれほど多くの教会に傷をもたらすのでしょう。その「実」はなぜか、真理(と、その方が信じる解釈)とは違う解釈への批判や攻撃、分裂を教会にもたらしています。とても難しいのですが、間違いを指摘してあげる愛とは異質のものです。

 

もしハーベストフォーラム運動に加わった元教会員の方が、このことに気付いて悔い改めの実を示して教会に戻られるなら、神様が悔い改める者を赦し受け入れてくださるのと同じ愛の実を結ぶと思います。

たとえあなたが間違っても、あなたを愛していますと受け入れてくださると思います。そのような愛の実を結ぶことができる教会こそ、神様につながった教会なのだと思います。

 

 「気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、⾷い合ったりしているなら、互いの間で 滅ぼされてしまいます。」 (ガラテヤ5:15 新改訳2017)

 

最も大切なことを、諸先生方を通して教えてくださった神様に感謝します。

証~ハーベストタイムミニストリーズの何が問題なのか?について~

連載シリーズの小休止です。

ハーベストタイムの問題点が、結局何なのか分からない、という方がほとんどなのではと思います。

実際その教えの中に入っていた経験のある私が、どなたにもわかりやすくその問題点を語るようにとのチャレンジを受けました

 

これは、ある教会員がハーベストタイムの働きの方に行かれてしまい、痛みを体験されたある教会の礼拝で実際にさせていただいた私の証です(コロナ禍のため代読していただきました)。

 

「大切な愛する兄弟姉妹が何故、自分たちの群れから去ってしまったのか?」

 

その疑問に的確にお答えできるものであることを願っています。

尚、同じような疑問を持たれている方、また同じ痛みを経験された教会でも、某信徒の体験の証として用いて頂ければ幸いです。

(音読で10分程度です)

 

~以下・証~

 

私は小学生の時にイエス様を信じて以来、聖書の全てが分からなくとも、ただイエス様を信頼して歩んでまいりました。

今から数年前、乳飲み子や幼児を抱えて聖会はおろか、毎週の礼拝さえもゆっくり聞くことが難しい日々が続きました。

そんな中、場所や時間的制約なく、いつでも聖書のメッセージを聞けるネット配信のハーベストタイムのメッセージステーションを見つけました。かつてテレビ伝道されていた中川氏には親しみもあり、体系的に深く聖書を学びたいという期待に答えてくれました。そんな経緯で、むさぼるように無料で公開されている全てのメッセージを聞きはじめました。

教会の牧師が警戒しているように感じましたが、一つ一つのメッセージは素晴らしく、どこが問題なのか全くわかりませんでした。むしろ聖書が一本の筋を通したように分かるようになると感じ、聖書を学ぶことが楽しくなったのです。

 

中川氏は「ハーベストタイムで聖書がよく分かるようになったという声をよく聞く理由は、教会は正しい理解をしていないゆえに正しい終末論を教えて来なかったからだ」とメッセージの中で言っていました。「ユダヤ的・字義通りの解釈と、教会とイスラエルの一貫した区別で解釈しなければ、正しい聖書理解は得られない」

「正しい聖書解釈によって霊的覚醒が起こる」との訴えに、突き動かされるようになりました。

 

しかし、すぐに私の心の中に他の変化が現れました。

牧師のメッセージを素直に聞けなくなったのです。教会生活がダブルスタンダードで苦しくなりました。

何故ならハーベストタイムが主張する解釈による教えとは異なったことを教会が教えていたからです。

中川氏は有名な牧師であるし、とても熱心に学ばれていることもよくわかりました。その上で「この箇所のこういう解釈の仕方は間違っている」と自らの解釈を断言し、他者を指摘したり批判されるので、客観的視点を与えてくれる信頼できる人物であると理解するようになっていきました。

結果的には神のみを信頼すべき信仰から、人への妄信になってしまっていたのです。

 

更に私はノンクリスチャンにではなく、クリスチャンに、真の信仰を伝えなければと重荷を負うおかしな信仰者になっていきました。

中川氏がメッセージ内で批判するように、「本当の解釈はこうなのに…」と自分も他者を心の中で批判するようになっていきました。

"自分だけがこの「正しい聖書理解」を知っていてはいけない" と使命を感じ、近くでの開講を期にハーベスト聖書塾に入学し学び始めました。

しかし学びを進めていく中でも何故、牧師の話を素直に聞けなくなったり、兄弟姉妹を愛せなくなってしまうのだろう?

良い学びであるはずのハーベストタイムの教えを教会はなぜ受け入れてくれないのだろう?と、私の中にこのような苦い思いがはびこっている理由が分からずにいました。

 

夫も、教会が議題に上げている問題の対象が妻であることに困惑しきって、二人でまともに会話ができない状態に陥りました。

その原因は、教会が頑なで間違っているからなのか、ハーベストタイムが間違っているからなのか、当時は真実が分からず本当に苦しいところを通っていました。

教会が議題に上げていた問題とは、ハーベストタイムに所属する教会員が教会に対してボイコット的な行動をとるということが、全国各地で起こっており、そのような問題を起こす団体に私が所属しているということでした。それゆえ私が懸念の対象となっていることは理解できました。

 

今は、はっきりと言えます。その教えが真理かどうかは、「実」で判断しなさいとイエス様は言われました。

私の実はつまり「党派心、分裂」だったのです。それはガラテヤ5:19-20にある通り、平和との対局にある肉の行いの実です。そしてこのようなことをしている者たちは神の国を相続できないとあります。

しかしそれは、ただ単に主義や神学が違うだけだというような簡単な理由から来る問題ではありませんでした。

 

私は聖書塾に通い続けながらも、終末論の御言葉の解釈で納得がいかない点もあったので、その一点の解決を得ようと、ひとりで聖書を調べ続けました。今まで心地よくはまってきたボタンが、最後の一点ではまらなかったのです。それは、第七のラッパが鳴る時に起こる、しもべや預言者たちに告げていた奥義とは何か?という一点です。

そしてそのボタンがはまらないのは、聖書が明確にしていないことであるにも関わらず、あたかもそのことが既存の事実でもあるかのように、そのことを前提として御言葉を読んでいたからだという事に気付きました。その前提とは、黙示録において第七のラッパが吹かれるのは7年の艱難期の中間あたりであるという中川氏の解釈による前提です。それは、ダニエル9章の第七十週の「彼は多くのものと堅い契約を結ぶ」の彼を、キリストではなく終末の反キリストとする不確かな解釈から始まっています。結果、最後のラッパは黙示録の第七のラッパではなく、患難期の前に象徴的に吹かれるラッパによってクリスチャンは天に携挙されるという結論を導き出していたのです。

 

その前提がどう読んでも絶対的に正しくはないことがわかると、今まで構築してきた聖書解釈の体系が見事に音を立てて崩れていきました。

この場で、その解釈の問題点の全てをお伝えすることは時間の制約上できないのですが、私のブログには詳しく記しましたので読んで頂けると感謝です。主義や神学による解釈という目を通してではなく、聖書そのものを素直に読むことで、はっきりとこの主張の問題点に気付いていきました。

ただの間違いではないのです。ハーベストタイムがとるデイスペンセーションという立場は、終末論で患難期前携挙説をとり、これこそクリスチャンの希望であるというところに行き着きます。表面上は十字架の贖いを希望としているのですが、信仰生活は正しい終末論によって動機づけされると何度も訴え、患難期前携挙説に立たなければ、生きた信仰生活を送ることはできないと強く断定するかたちで結論づけているのです。

 

しかし私は問題のある解釈を断定的に教えられたという義憤から、聖書を徹底的に調べ直してみましたが、イエス様も弟子たちも、第七のラッパが吹かれるのは7年の艱難期の中間あたりであるという仮説を除くと空中再臨があると断定可能な箇所は一つもないと言う結論に至りました。患難期の前に携挙されるという教えは、私たちに患難に対する備えを失わせる可能性があります。

さらに、この希望に立たされたクリスチャンは、患難期の前に携挙が起こらなければ多くの方は混乱し、そう約束されたと信じていた神を見失うのではないかと思うのです。

 

「あくまで神学的仮説のひとつにとどまる患難前携挙説の断定」

これも、ハーベストタイムが犯してしまっている恐ろしい問題点であると思います。

多くの人を終末に背教させてしまいかねないのです。それならば、携挙はいつ起こるかわからないと主に委ねているクリスチャンの方が、信仰的なのではないかと今感じています。

 

こんなにはっきりと聖書を読めばわかることがなぜ分からず、私がこの教えに惹かれて行ったのか、今はお答えできます。

それは、中川氏は「聖書の学びによる信徒の自立」を訴えつつも、「正しい解釈」という名のフィルターを与えて、素直に聖書を読めなくさせているからです。聖書は既に訳者の誤った神学が入り込んでいると言って自らの解釈を断言して他の考えを排除し、神の言葉以上に自身が唱える「解釈」に信頼をおくようにさせています。いとも簡単に神学者達の築き上げた研究や知識をないがしろにしてしまうのです。その結果私もハーベストタイム以外の書物はおろか、聖書の引照さえも信頼して読むことができなくなっていました。これはまさにカルト的手法ではなかったかと感じています。

更に、なぜ異端でもないこの学びが問題を産んでしまうのかを調べていく中で、終末論のみならず、根本的問題に気づき始めました。

ヤコブ 3:18に、

「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」とありますが、

「正しい聖書解釈」という剣を投げ込み、教会を目覚めさせようとするところに平和は造りだせないないということです。

中川氏の「聖書を字義通りに正しく読んだ結果、この主義になる」の言葉は、その他一切の主義神学を否定しています。

 自分達こそ正しいとするところに、他者を理解し、共に神の国を立てあげるという姿勢はありません。

神の主権・神の栄光を聖書から読み解くことによって信仰が成長すると訴えていますが、神が私たちと本当に築きたいと願っておられる関係は、権威の提示による主従関係ではなく、愛の関係です。その最も重要な点を見失なわされていたことに気づかされたのです。

ハーベストタイムは異端ではないため、教会はその存在を良いとも悪いとも言えない状態に立たされています。

しかし、歴史の中で、ディスペンセーション主義がどのような背景から生まれ、神学者達にどのように評価されているのかなど、一般の信徒が知るよしもありません。

神学に対して何の武装もしていない一般の信徒は、聖書をもっと学べるという甘美な声にいとも簡単に惑わされてしまいます。

しかしもし、この団体を客観的に判断できる材料があり、助言者がいれば、ここまで傷を負うことはなかったのではと思います。

私は家庭が傷つけられましたし、信仰生活が苦しくなり、教会を去る決断をせざるを得ない状況にまで追い込まれました。その時の心身のストレスは本当に耐え難いものでした。それでも尚誤りに気付き、立ち返ることができたのは、ただただ神の恵みとしか言いようがありません。

 

私と同じように大きな問題が内包されている教えに陥って苦しみ、イエス様への純粋な信仰を刈り取られてしまう方が起こらないように、また諸教会がこれ以上大きな傷を負うことがないことを願い、主から証をするという使命を与えられたことを感謝しています。

 

 

以上です。尚、関連の過去の記事はこちらになります。

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