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Misao’s bible diary

教会の奥義・キリストにある一致

頑なな心(5)パリサイ人(6)真理という凶器 (7)最も大切なこと

(5)パリサイ人
「また、みこころのままに頑なにされるのです。」ローマ9:18

パリサイ人が見るからに悪者のように描かれることが多いですが、改めてどういう人なのかに気付きました。
ズバリ、私のような存在です。
傍目にはとても敬虔的で柔和で、熱心に見えた人々です。私の握っている神学は正しい!と頑なに握りしめている姿です。


(6)真理という凶器
自分の正義、自分が信じる真理を主張するあまり、相手を受け入れないという態度があるなら、真理とは時に凶器になると思います。勿論、ここは譲れないという福音理解は持っておくべきで、曲解や拡大解釈の考えを受け入れることはできません。しかし、自分が確信する真理を受け入れていない人々は、自分の敵であるかのようにすら思ったり、何とか伝えてあげたいと、優越感を持って接することは『こちらが正しい、あなたは間違っている』というメッセージそのものです。この凶器は益々相手の心を頑なにしていくでしょう。
「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。」Ⅱテサロニケ3:15
自分が確信する真理にしがみつくあまり、いつの間にか聖書が教える「和合」とはかけ離れたところにいることにも気付きました。
「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合 して暮らしなさい。」マルコ9:50

(7)最も大切なこと
「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」ローマ14:17 
食べることは、対人関係において律法を守り行うべきかどうかの問題の文脈の中で語られているので、律法の解釈だと言えます。つまり『神の国は聖書の解釈によるのではなく、…』と言い換えることもできると思うのです。
私は小学生の時にキリストに出会って、幼子のようにただイエス様を信頼してきました。聖書のすべてが分からなくとも、ただイエスさまに頼る信仰でした。
なのに、『あなたが信じている神のご計画を知らなければ、信仰の成長もない』という声に耳を傾けたのです。聖書研究により神のご計画の全貌を解明し、神のものである事柄を手中におさめようとしていました。これは反逆行為であり、『あなたを大切に扱う』という神の約束を疑うことに等しいのです。

こう気付いた私に、ある牧師先生が仰ってくださいました。
『どうして命をもって買い戻したご自身のこどもたちが信頼してイエス様を待ち望んでいるのに、お前は十分に私の計画を把握していないのでダメだ。役に立たない。使えない。と仰るでしょうか。
エス様はご自身を信頼するものを最後まで責任を持って持ち運んでくださるお方です。』
最も大切なことは、イエスキリストをただ信頼すること。エスキリストで心が満ち足りること。そして聖書の中に神の慰めと希望を見出し、信仰生活を歩んでいくこと。
信仰の成長とは何かを今問われれば、聖書研究により、神の偉大さの知識が増し加わることだとは思いません。
信仰の成長とは『義認・聖化・栄化』の聖化のプロセスであり、それは全く神の恵みにより、キリストに似たものにならせていただくことだと思います。

頑なな心(3)間違いの根本 (4)頑なな心を溶かすもの

(3)間違いの根本

神学を研究している神学者達は、なんの悪意もないはずなのです。これこそ真理だと確信して神に従い歩んでおられます。しかし不思議なことに、その研究の中に、学ぶ者の心に、学びを聞く者の心に、実に巧妙に悪魔が入り込み、罠をしかけていくと感じました。人間の持っている罪の性質(名誉欲、高慢、恐れ等…)を上手く利用されることによって、時に罠にかかってしまうのです。
まさにこの御言葉が私に迫ってきました。

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」Ⅰテモテ6:3-6

私がおかした間違いというのは神学を通して神を見上げる事そのものではなく、イエス様によって満ち足りる心を持たずにディスペンセーション主義にしがみつくことであり、しがみつくことでアイデンティティーが『イエスキリスト』から『神学』へと変わってしまったことです。同じアイデンティティーを持たない相手を、『敵』とさえ見なしてしまうことです。
アイデンティティーが『イエスキリスト』にない場合、自らの正しさを主張しようとし始めます。知識はまさに高慢を生み出し、いつでも私たちは罠と隣合わせにいることを覚えて、主に助けていただかなくてはいけないと思います。





(4)頑なな心を溶かすもの

今思えば、人の信仰というものは割れ物のようなもので、他人から曲げることなどできない取り扱いの難しい問題です。ですから、「その学びはうちの教会の教理と合いませんからやめなさい」と、パシッとい言わなかった教会側は、なんとか温和に、愛と祈りを持ってわたしの魂を取り戻したいと祈ってくださっていたのだろうと思います。
問題の渦中、主人は私が間違っているにも関わらず「Misaoが教会に居られなくなったら、僕もついていくから」と言ってくれました。

友人は、私が間違っているにも関わらず、私の気持ちを受け止め続けてくれました。
私が例えディスペンセーション神学にしがみつく考えから戻って来ることがなくても、私と関わり続けようと思ってくれていたそうです。

教会は私が間違っていたにも関わらず、今までと変わらず受け入れてくださいました。
人の心が頑なになっていくのは、まさに自分がもっているアイデンティティーを否定されたときです。
頑なな心を溶かしたのは、実に謙虚な愛の行動でした

例えあなたが間違っていても、あなたを愛しているからね、という態度。
これこそ、イエス様が私達に示してくださった愛でした。
例えあなたがわたしを十字架につけたとしても、「父よ彼らをお赦しください」という愛です。
私は、周りの方々を通したイエスキリストの愛に支えられていました。私も、イエス様の愛をもった態度を周りの人に取れているだろうか?と反省しました。

続く…

頑なな心(1)当時の思い (2)頑なにするもの

以前
贖いの日 - Misao’s bible diary

 のブログの冒頭で、
『私はこのブログを、主にネット上での曲解した神学の主張によって、イエスキリストに対する純粋な信仰を刈りとられてしまった人々をイエスキリストへの純粋な信頼に回復されることを目的に書いているからです。(これについてはまた別ブログで…)』
と書き記しました。
ようやくこのことについて表現できるようになったので、連載形式で記したいと思います。




~頑なな心~

(1)当時の思い
『教会は、神がイスラエルを通してなそうとしておられる計画の全貌を知らない。
信仰に覆いをかけられている。
比喩的解釈、私的解釈、間違った神学で聖書を教えているから、信仰が成長しない。』

ハーベストタイムミニストリーズ(以下HTM)の学びをどんどん進めていた当時の私は、地域教会をこのように思っていました。しかし、教会を愛していたので、教会が真理を知らないままではいけないと、
何とか教会が真理に導かれるように祈っていました。

HTMによると、信仰とは神の啓示に対する応答であるため、信仰の成長も神のことばを深く理解し、神の偉大さ、真実さを知るごとに増し加わると教えられました。
その結果どうなったでしょうか。
ディスペンセーション神学に基づいて聖書を学べば学ぶほど、一本の筋を通したように聖書が分かるようになると感じました。
しかし、学びをあまりしていないという信徒の方々、学んでおられてもディスペンセーション神学に基づかない学びをされている方々に対して、聖書を正しく学ばなければ信仰が成長しないのに!と、焦りを感じるようになったのです。
良く言えばそうです。
しかしこれは明らかに他者に対する軽視、優越の感情でした。
自分が所属している教派以外の教会に対しても、今までこのように感じたことはありませんでした。



(2)頑なにするもの

教派教団を問わず、HTMに関わられた兄姉が、教会に対してボイコット的な問題を起こしているという事実を受け、HTMに関わり始めた私は、我が教会からも一度よく考えて立ち止まるようにとの諭しを受けました。
そのような事件が全国各地で起こっていることを、当時の私は知らず、諭しを受けた時点で聞かされましたが、衝撃ではありませんでした。むしろ、そうなるのは仕方ないかもしれないと思えました。なぜなら、地域教会はHTMがいうところの、真理ではないことを教えているから。だとしたら、無言で立ち去るよりも、教会に真理を訴えようと立ち上がった人たちは、愛ゆえにそうしたのだと感じました。
そう感じた私は、このボイコットをした人たちと同じ線上にいて、行き着く先同じような事になりかねない根が、私にも無いわけではないことに気付きました。

そうして個人的に呼び出された事の方がショックで、もっと衝撃だったことは、帰り際に「祈っていますね」と言われたことでした。
「祈っています?」
祈っているのは私の方なのに…。
益々私は頑なになっていきました。この言葉に、「こちらが正しい、あなたは間違っています」というメッセージを感じたからです。

私の方が正しいことに、いつか気が付きますように。悲しくなり、悔しくなり、そう思いました。
もっと神様を知りたいと純粋に願って始めた学びが、なぜ分裂を生んてしまったのか…?なぜ苦い根が私の中にはびこっているのだろう。と悩みました。
教会のみならず、家庭でも分裂が起きました。

悩みの中にあった時に、信仰の友人は、自らの考えを持って私の意見を変えさせるようなことは全くせず、ひたすら私の気持ちを受け止めて共に悩みを負って下さり、祈り続けてくださいました。そうした中で、ディスペンセーションの解釈で納得がいかない点もあったので、その一点の解決を得ようと聖書研究を続けていました。今まで心地よくはまってきたボタンが、最後の一点(※1)ではまらなかったのです。
(※1:第七のラッパが鳴る時に起こる、しもべや預言者たちに告げていた奥義とは何か?という一点)
そしてそのボタンがはまらないのは、聖書が明確にしていないことを前提(※2)として御言葉を読んでいたからだという事に気付きました。
その前提・土台が確実に正しいと言えないことがわかると、今まで構築してきた聖書解釈の知識が見事に音を立てて崩れていきました。
(※2:黙示録において、第七のラッパが吹かれるのは7年の艱難期の中間あたりであるという前提 
フィルター(前提) - Misao’s bible diary
  )


「私が間違っていた…」
その瞬間、カルトから目覚めたような感覚がありました。

続く…

フィルター(前提)

一番最初の記事に、私がハーベストタイム・ミニストリーズ(以下HTM)に違和感を感じたきっかけは、終末預言の解釈であったことを書きました。

その終末預言とは、患難期前携挙説であり、そのきっかけになったみことばは、「第七のラッパ」に関するいくつかの箇所でした。

しかし、その箇所を目の前に置き患難期後携挙説に立つ方の反論を聞いても、全く指摘されるような矛盾を感じなかったのです。

これはある意味恐ろしいマインドコントロールのようなもので、自分の立っている前提が絶対に正しいというフィルターを持っていたからだと後で分かるようになりました。
同じように、迷いこんでいる方がこのブログを見ていらっしゃるなら、ここでそのフィルターを明らかにすることで、気付くきっかけになればと願っています。

そのフィルターとは、ヨハネの黙示録の、『第七のラッパの直前(第六と第七のラッパの間)が、七年間の患難時代の中間点である』というフィルターです

このフィルターがあったために、相手の説明の方が矛盾だらけであると感じ、受け入れられなかったのです。


例えば、『「終わりのラッパ」(Ⅰコリント15:51)とは、「第七の御使いのラッパ」(黙示録11:15)のことだ。』という説明です。
フィルターを持ってこの説明を聞くと、『そもそも第七のラッパは患難期の中間で吹かれるのだから、携挙の時に吹かれる終わりのラッパと同じであるはずはない。』と、バッサリ切り捨ててしまいます。

以下の二つの箇所は携挙の時のラッパとして知られています。
Ⅰテサロニケ4:16-17「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 」

Ⅰコリント15:51-52「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

患難期前携挙説では、次の箇所のラッパは携挙の時のラッパではなく、地上再臨の時のラッパとして説明されます
マタイ24:29-31「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

携挙と地上再臨は別に起こるという立場を取るなら、
①携挙の時のラッパ(患難期前)
②艱難期の第七の御使いのラッパ(患難期中間)
③地上再臨の時のラッパ(患難期後)
は、それぞれ別のものであるという事になります。

①の携挙のラッパの記事は黙示録にはありません。なぜなら、人々が気づかないうちに、秘密的に携挙されるからです。
黙示録19章の③地上再臨の時にも、ラッパの記述はありません。
ということは①と③のラッパは比喩的ラッパということでしょうか?

(ラッパを字義どおりに読むとは?についての関連記事↓)
vitaminp81.hatenablog.com


この時点で、『第七の御使いのラッパは、終わりのラッパの事である』とか、『終わりのラッパとは、主が再臨するときのラッパである』という説明を聞いても、
『第七のラッパは、七年間の患難時代の中間あたりで吹かれる』というフィルターがあるため、それは矛盾!とはじき返してしまっていたのです。


しかし、黙示録10:7「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」 を読み、『???』と疑問に思ったのです。

神の奥義とは、一体なんだろう?


そこで、フルクテンバウム師の、8つの奥義について調べました。そのうちの
①メシアの花嫁としての教会の奥義(つまり携挙?)
イスラエルのかたくなさの奥義

がこの奥義の可能性ではないかと思いました。


第七の御使いのラッパが吹かれた聖書の箇所を見てみると、
黙示録11:15「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』」

そしてこう考えました。『もし②のイスラエルのかたくなさの奥義がここで成就したのだとするなら、異邦人の救いがここで完成して、イスラエルが民族的に改心した?でもそれならイスラエルが「主よ来て下さい」と叫ぶのでは…。』

しかし、主の再臨される黙14章までにイスラエルがそう叫んでいる記述は見つかりませんし、異邦人の完成の成るときにラッパが吹かれるという他の箇所での記述も見つかりません。

次に神の奥義について書かれてある聖書箇所を探してみました。
それは先ほどのⅠコリント15:51-52の直前にありました。
Ⅰコリント15:50-「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。・・・」

これだとしたら、①メシアの花嫁としての教会の奥義(つまり携挙?)と思い始めました。
すると、
①携挙の時のラッパ(患難期前)
②患難期の第七の御使いのラッパ(患難期中間)
③地上再臨の時のラッパ(患難期後)  以上三つはそれぞれ別。

だったのが、
↓↓↓

①携挙の時のラッパ=患難期の第七の御使いのラッパ
③地上再臨の時のラッパ

に、とりあえずなりました。
すると、『携挙は患難の前にあるはずなら、患難時代って鉢の裁きのことなの?』となってしまい、とにかくまだ

『第七のラッパは、七年間の患難時代の中間あたりで吹かれる』というフィルターのために、
①と③は同じとは考えられないのです。

しかし、何度も何度も黙示録を読んでいくうちに、黙示録11:19のいなずま、声、雷鳴、地震、大きな雹が、黙示録16:18-21にもでてくることに気づきました。

黙示録11:19「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま雷鳴地震が起こり、大きな雹が降った。」

黙示録16:18-21「すると、いなずま雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。 また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。」


ここを読んだ時、
これは再記述の法則かもしれない。黙示録16は、11に起こることをもう一度詳しく書いていて、11:15で第七の御使いのラッパが吹かれるということは、ラッパの鳴るうちに起こることを、16章で再記述しているのかもしれない』と思いました。

それなら、11章から16章までに時間的流れがなく、挿入句が入っているということになります
(12章、13章は挿入句、14章でかまを持った主が地を刈りとり、
15章で7つの金の鉢が渡されますが、ここは例えて言うならば、ドラゴンボール孫悟空元気玉を『ううぉりゃ~!!』とためてフリーザを倒すのに30分間の一話分を使うような感じの記述法でしょう。わかります?)

17、18章では、大淫婦への裁きの幻があり、底知れぬところから獣が上がってきます。
19章ではハレルヤコーラス、白い馬に乗った主が、獣とにせ預言者を火の池に投げ込み、口の剣で残りの者を殺します。

まさに、17~19章は、再臨の主の裁きとフィナーレの記述であると思いました。

そして自分が持っているフィルターが絶対に正しいのだという思い込みがあったことに気づかされました。

第七の御使いのラッパこそ、終わりのラッパ。
ラッパの吹かれるときこそ、預言者たちに告げていた携挙の奥義が成る時、再臨の時
ではないでしょうか。

本当の蛇(悪魔)の罠

創世記3章の、エバに対する蛇の欺きの記事を思い出して頂けるでしょうか。

蛇は神が全能であることを知っていました。人間も、全能である神を信頼していました。ですから、蛇が神の全能性を否定することによって神への信頼を揺るがすことなど到底できませんでした。
しかし、全能な神に信頼している人間を欺かせる方法が一つだけありました。
それは、神の『業』を否定することです。
「そこで蛇は女に言った。『あなたは決して死にません』」(創世記3:4)
「『それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」(創3:5)

蛇は全能である神の『業』(約束が成就する計画)を、見事に歪めて見せました。
蛇は『わたしは知っています』ではなく、「神は知っているのです」(創3:5)と言ったのです。神が全知全能であることを否定してはいません。

そしてなんと、食べた直後は死ななかったのです。蛇の「決して死にません」が目下成就しました。蛇が歪めた方の神の約束は一見正しく映ります。
『決して死なないことも、神はご存知なのです。ほら、こうして目が開けたではありませんか。』
さらには蛇の言ったとおり、目が開けて裸であることがわかるようになったのです。アダムとエバは、蛇が伝えた通りの『神がご存知なこと』が、自分の身に成就したことを体験しました。
神の全能性を否定することなく、神のなさる『業』(約束の成就)を否定させることに成功しました

しかし、その実を食べる時、神は「必ず死ぬ」(創2:16)と言われたのは、即座の死ではなく、霊的に死んだ結果やがて死にゆく存在となるということでした。
歪められた神の約束を信じてしまった場合、本来の神の約束が成就した時に、『わたしが間違っていました、神様ごめんなさい。』となるでしょうか?それとも、
『約束された神は真実ではなかった!』となるでしょうか?
後者になった場合、蛇はその人を本当に獲得できたことになります。

蛇による罠がいかに巧妙であるかを感じます。






さて、
ハーベストタイム・ミニストリーズは、字義通りのイスラエルへの神の約束の成就は、神の真実性の証明であることを強調しています。
ダビデ契約はキリストにおいて成就し、新しい契約もキリストにおいて成就しました。しかし、イスラエルの土地の回復についてはまだであり、神の真実性を証明するためには、それが地上で果たされる必要があるとされているからです。

(※本当に今も、字義通りのイスラエルとの契約は、字義通りのイスラエルに果たされる必要があることを聖書は示唆しているかどうか?については、こちら↓)
vitaminp81.hatenablog.com


ですので、契約の当事者である民族的イスラエルが消滅してしまったり、艱難時代の幕開けに必要な、反キリストと契約を結ぶイスラエル国が消滅してしまったりすることはあり得ないことなのです。
イスラエルが、あくまでも教会とは別に存在していなければ、この契約の成就は無いのですから、神への信頼は、ここにかかってくると言っても過言ではないでしょう。



ディスペンセーション主義はほぼ100%艱難期前携挙説に至るということを、前の記事でも書きましたが、艱難期の前に携挙が起こらなくてはならない理由とは何でしょうか?

質問を変えてみます。再臨と同時にイスラエルと教会の区別なく、携挙されてしまったらどうなるでしょうか?
民族的イスラエルが地上からいなくなってしまいますから、民族的イスラエルに対する土地の契約が果たされないことになりますね。

ですから、教会の携挙は艱難の前に起こり、黙示録7章で額に印を押される144,000人のユダヤ人は、艱難の中も神の守りによって生きながらえ、肉体を持ったまま千年王国に入る必要があるのです。
艱難の中殉教した人たちは生き返って、「その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」(つまり艱難をくぐり抜けて生き延びた144,000人のユダヤ人を含む人たち)とともに「千年の間王と」(黙示録20:4)なれば、神の約束が果たされることになるからです。

そしてなんとも見事に、彼らが主張している通りのすべての主張を、御言葉に読み込むことが可能なのです(※しかし、それについての疑問の投げかけを、当ブログでは行っています)。
イスラエルも建国され、イスラエル人も奇跡的に存在し、目下成就しています。


HTMでは、過去の預言成就の御業によって神がいかに信頼できるお方かを学び、未来の聖書預言についても成就されるであろう『業』にこそ、神の真実性がかかっていることに強調点をおかせています。意図せぬうちに神の成される『業』に注目することを要求されているのです。そして、『業』の正しさを証明するために聖書を用いていきます。
神の『業』の真実性が、神そのものの真実性の証明になることは、全くその通りでしょう。人に置き換えて考えてみれば、人が信頼に足る人物かどうかは、その人の行いによって判断できるからです。

しかし、神そのものへの信頼が、神の業への信頼へとすり替えられていることの危険性に、どれだけの人が気付けるでしょうか。
神の計画(業)を歪めて映し出し、『これこそ、神がご存知の計画なのです。』と提示され、そこに信頼をおいた場合、神の業が歪められたのとは違う方向に向かった時に、人の心はどのように反応するでしょうか。
『わたしが間違っていた、神様ごめんなさい。』でしょうか?
『約束された神は真実ではなかった!』でしょうか?


本来はそんなシナリオにではなく、キリストによって贖われ、一つの身体、神の民とされた恵みにこそ、焦点を置かなければならないのです。


聖書の学びは良いことです。しかし、不確かな神学による学びによって分かるようになった神の約束が成就するという『業』が神への信頼の土台となるなら、その土台が崩れ去るようなことになった場合、信仰も崩れていくことになります。


どうか、神学を通して学んできたあなたの御言葉が、歪められた真理ではないかどうかを今一度確認してみて下さい。
そしてそれを土台として行く場合、その土台が確かなものであるかを確認する一番良い方法は、聖書そのものに向き合うことです。中でも、自分の主張に相反する聖書の御言葉に向き合い(そのうちのいくつかを、当ブログでとりあげていますので参考にしてください)、もし御言葉から反論できなければ、御言葉を土台に神学をうちたてていなかったことに気付くでしょう。なぜなら、神学を土台に御言葉を証明してしまっているからです。
私はこの作業で、このことに気付かされていきました。

神そのものではなく、神学によって歪められた神の『業』(約束の成就)を土台にさせる事こそ、蛇(悪魔)の本当の罠なのではないでしょうか?


#ハーベストタイム・ミニストリーズ #イスラエルと教会の区別 #ユダヤ的解釈 #ヘブル的解釈 #字義通りの解釈 #艱難期前携挙説 #再臨 #ディスペンセーション

みことばから問題の本質を読み解く

【御言葉に基づいた、『ハーベストタイム・ミニストリーズの問題の本質』について】
●「正しい聖書解釈」という剣を投げ込み、教会を目覚めさせようとするところに平和はなく、むしろ痛みを与えていると思います。

「あなたがたと、私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたい。」ローマ1:12

「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず…自分こそが知者だなどと思ってはいけません。」ローマ12:16
「平和を保ちなさい」ローマ12:18

「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」ヤコブ 3:18

平和との対局に
「肉の行いは…党派心、分裂、分派」ガラテヤ5:19-20

●地上の教会が廃れても、神の御国は拡大するという発想は、地上の御国を無視した考えではないでしょうか。

→「御国を来たらせたまえ。 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 」
マタイ6:10

●互いの主義が違っても、自らの「正しい聖書解釈」よって神のみわざを破壊してはならなず、互いの徳と益になるようにすべきです。

「平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。」ローマ14:19-20
「隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」ローマ15:2
神の国は飲食(聖書解釈)ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」(ローマ14:17)


●聖書研究によって、日本の霊的覚醒を目的としていますが、ここに隠された意図は、枝葉はあっても大筋において導き出される結論は一つということでしょう。その唯一の結論とは、ディスペンセーション主義に立ち、イスラエルを通して完成する神の計画です。
「聖書を字義通りに正しく読んだ結果、この主義になる」という言葉は、その他一切の主義神学を否定しています。
 自分達こそ正しいとするところに、他者を理解し、共に神の国を立てあげるという姿勢はなく、各人が神の御前に持っているべき信仰を切り捨ててしまいます。

「あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。」ローマ14:22)
●神の主権・神の栄光を聖書から読み解くことによって信仰が成長すると訴えていますが、神が私たちと本当に築きたいと願っておられる関係は、権威の提示による主従関係ではなく、愛の関係ではないでしょうか。その最も重要な点を見失わせることが起こりつつあります。

●また、創世記のアダムとエバ、蛇との関係にも当てはまります。
「聖書には、訳者の神学がすでに入り込んでいる」と言うことによって、蛇のように神が言われたことに対する疑いを信徒に抱かせます。そして自らの考えを断言し、他の考えを排除させ、神の言葉以上に解釈に信頼をおくようにさせてしまいます。

ハーベストタイムミニストリーズと出逢って

【ハーベストタイム・ミニストリーズとの出会いを通して私が経験したこと】


【ハーベストタイムの主張すること】


・ハーベストタイム(以下HTM)は、「ユダヤ的・字義通りの解釈と、教会とイスラエルの一貫した区別」を中心にしており、「これこそ正しい主義・解釈であり、教会はそう教えていない」と主張しています。
そして、「聖書研究なしに信仰の成長はあり得ない」「聖書の神を知ることなく、どうして神に信頼できるのか」「正しい聖書解釈によって霊的覚醒が起こる」と訴えています。


イスラエルこそ神の計画を読み解く鍵であり、教会にはイスラエル論が欠けていると指摘し、終末論を正しく理解することこそ、豊かなクリスチャン生活の動機となるとしています。
教会はその終末論をあまり教えておらず、その理由は、教会が終末論を正しく理解出来ていないからであると言っています。


・契約神学である教会は比喩的に聖書を読むため、自分達の都合の良いように様々な解釈をしているが、ユダヤ的に比喩は比喩として、その他は字義通りの解釈をすることこそ聖書を正しく理解する方法であると言っています。


【それを受け取った自分の内面におこった変化】


・私は聖書を学ぶことが楽しくなり、より深い聖書理解へと導かれていった。今まで断片的だった聖書知識が、創世記から黙示録まで一本の筋を通したように繋がり、分かるようになったと感じました。


・しかし、HTM側のこのような言葉によって、聖書をあまり読まないクリスチャンへの軽視が心の中で起こってしまいました。私は自分だけがHTMがいうところの「正しい聖書理解」を知っていることが、知恵の高ぶりに繋がると感じたため、周りの方々にもHTMを勧め始めました。


・HHTMが主張するようなことを教会は提供していないと感じ、私の中で教会に対する不信が起こっていきました。牧師のメッセージも素直に聞けなくなり、教会生活がダブルスタンダードで苦しくなりました。



【ハーベストの主張を耳にしたキリスト者の一般的反応】


・HTMのメッセージ内では表面的にはカルト的教会を批判しているが、神学・解釈の違いによって既存教会にもその批判は及んでいます。


・最も信頼すべきは神のみであると言いつつも、他者を「これは正しい」「あれは間違っている」と言う事で自分たちを高めています。そのため、聴衆は自分たちに客観的視点が与えられていると理解し、中川氏に信頼を置いていきます。時には聖書の言葉・神以上に信頼を置くようになってしまう危険もあります。



【私に起こった事〜問題から解決まで〜】

・HTMの聖書塾に通い続けながらも、終末論の御言葉の解釈に違和感を感じ始めました。その時、知人のある兄弟が、終末論についてHTMとは反対の立場に立っていることを知り、疑問に感じたため、数ヶ月に渡って対話をしました。


・同時に、HTMに所属する方が、ある教団内の教会内で起こした問題について、教会牧師より聞き知ります。その方は教会員であり、教会には公にせずH.T.の聖書フォーラム(家の教会)を開所運営したということだった。教会にとって私も懸念の対象となっていると理解しました。



・一方的にHTMの聖書塾をやめるように促され、納得がいかない中、「もし聖書塾を続けることが神の御心であるなら、今やめてもいつかは受けることができるはず」と確信し、神の御心を求め、探る形でH.T.の聖書塾の学びを辞める結論を出しました。


・夫はHTMを受け入れられない立場であるも関わらず、私がもし教会に居られなくなった場合、私についていくと言ってくれました。一方中川氏は3分で分かる聖書の解説の中で「妻が夫に従うべきか」の問に対して「信仰を守ることは権利であり、そのために夫に従えないのはやむを得ない場合もある。最終的には本人に任されている」と答えています。どちらが愛の実を結んでいるかは明らかではないでしょうか。


・一旦辞める決断を出すと、問題をじっくり見つめる時間が与えられ、今までよりも冷静な頭で終末論について向き合うことができるようになりました。
 ある兄弟の立場を受け入れられない理由に、一つのフィルターがあったことに気づかされました。そこで主義・解釈を通して聖書を読むことを辞め、聖書そのものに向き合っていく中で、み言葉からH.T.の終末論の問題点が分かってきました。み言葉が、今までとは全く違って入ってくるようになりました。


・更になぜ異端でもカルトでもないHTMの学びが問題を産んでしまうのかを調べていく中で、終末論のみならず、HTMの根本的問題の本質に気づき始めました。


・その時にははっきりと「カルトから抜け出た」ような感覚があったのです。




【教会にとって何が課題か】


 ・HTMを、良いとも悪いとも言えない状態の教会が多くあります。
 もし、この団体を客観的に判断できる材料があり、助言者がいれば、私自身がここまで傷を負うことなく気づくことができたのではと思う。
 はっきり申し上げられることは、H.T.の問題の本質を知り、み言葉に立って指摘することができなければ、諸教会にもっと大きな傷を残しかねないということです。


・み言葉の裏付けに基づいたH.T.の問題の本質についてはこちら↓
vitaminp81.hatenablog.com



【教会はどう備えていくべきか】


・HTMが教会に対して警鐘を鳴らし、攻撃の対象としている考えに「置換神学」「契約神学」があります。彼らはディスペンセーション主義者であり、これらはそれとは対極にある考えだからです。私たちがどんな土台に立っているのかわからなければ、「その土台は脆弱だ」とか「危険だ」という言葉に揺るがされてしまいます。HTMが批判するような主義神学に自分たちも立っているのか?まずは自分たちが立っている土台を知り、備えることです。


・HTMはそう言っているが、聖書は何と言っているか?それを一人一人が聖書から直接学ぶ力が今最も必要です。HTMはまさしく「聖書の学びによる信徒の自立」を訴えつつも、「正しい解釈」という名のフィルターを与えて、聖書を素直に読めなくしてしまいます。


・相手を知ることです。
 ディスペンセーション主義とは何か?
ディスペンセーション主義は、私たちをどこへ導こうとしているのか?私たちに、艱難に対する備えを失わせる可能性があります。
 もし艱難の前に取り去られない状況になった時に、艱難期前携挙説こそ神の約束と確信している場合、神への信頼はどう変化するでしょうか?


・諸教会が共に一致してこの問題の本質を把握し、祈っていくことが重要だと思います。第一の問題はディスペンセーション主義であることではなく、自分達こそ正しい解釈をしていると主張して、既存教会を批判していることです。


参考外部ブログ↓
www.logos-ministries.org

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